生徒会室、某日
短編。数分で読めます。
〈序章〉─
牧歌とは、「牧人や農夫の生活を主題とする詩歌で、抒情的で素朴なもの」を指す。
──出典:広辞苑第七版
〈西野 かなた〉─
6月下旬。夕立。
窓に雨粒が細かく打ちつける音。静かな連打に混じって、雑な足音が聞こえてくる。
西野かなたは、スカートの内側にこもった熱を払うように、バッサバッサと大股で廊下を歩いていた。
少しクセのある長い髪が、湿気で幾分か膨らんでいる。青みがかった黒髪がいつもより重たそうに見える。
向かう先は、2F、突き当たり─生徒会室。
西野はドアノブを握った。
〈東雲 司〉─
生徒会室。扇風機がゆるく回る中、東雲 司は整然とした手つきで書類をまとめていた。
茶色がかったまっすぐな髪と黒縁眼鏡の隙間から、手元のプリントに視線を落とす。
時折ノートに短くメモを書き込み、無駄のない動きで机の上を整えていく。
雨粒がぽつぽつと窓に当たり、つ─と流れる。
嫌でも音が耳に入る。
ドアの向こうから雑な足音が滲み始め─
次の瞬間、勢いよく開かれた。
〈本編〉─
「アア!!!」
入ってくるなり、西野の声が空を割った。
東雲はゆっくり顔をあげる。
奥の席から正面の西野を一瞥し、またすぐ視線を手元に戻した。
「おかえりなさい、西野さん。…意外と早く済んだんですね」
プリントをめくりながら、東雲は淡々と言った。
「ただいま。だ、東雲。まぁ書類を先生に渡しただけだからな、すぐ終わった。…それにしても湿気がひどい、嫌になる」
西野は「ギッ」と鳴らして椅子を引き、東雲の左前に座った。
「だからと言って奇声を上げながらドアを開けないでください。迷惑なので。─あとそれ、校内アンケートの結果です。集計お願いします」
東雲は淡々と告げ、西野の机上にある書類の山を指し示した。
西野はそれを見て、肩を落としながら息を吐いた。わかりにくいが「了承の意」である。ペンを取り、書類に手を伸ばした。
生徒会室に、二人の書記が揃う。
生徒会の仕事は大体が雑用である。書類との睨めっこや、議案書の作成、その他は資料のホチキス止めだとか。
講演や外部との交流などで何かと忙しい会長と副会長に代わり、書記のこの2人に雑用が回ることが多い。東雲は理知的に物事をこなせるし、マルチタスクも可能だ。西野もなんだかんだ手際は悪くない。
雨はまだ、鬱陶しく窓を打ち続けている。天気が悪い。ガラスについた模様が不規則に揺らぐ。
生徒会室では黙々と作業を続ける音が、梅雨の湿り気とともに籠っていく。
西野が大きめのため息をついた。
東雲は眼鏡の奥から、目線だけを西野に向けた。
「…今のそれ、"無意識に出たもの"ではなく、"意図を持った発信"ですよね。やめてもらえますか、そういうの」
そう言って再び手元に集中する。
西野はペンを持ったまま伸びをし、そのまま椅子の背にもたれかかった。長い髪がわずかに膨らむ。
「よぉーわかってるな、東雲。今のは、"この書類の山に辟易している。手伝ってくれ"という意図の発信だ」
東雲はそれを聞いて肩を落とす。手元の動作は止めずに、声だけ西野に向けた。
「“察して動け”というのは最も非効率な指示です。協力を求めるなら、明確に、論理的に要請してください。…とはいえ今は僕も作業中ですので、要請されても差し戻しますが」
西野は姿勢をよりだらしなくし、もう一度ため息を出した。しぶしぶ、目の前の書類に向かう。
「この雨音…うっとおしいなぁ…」
ブツブツと文句を言いつつ、だらだらと紙をめくる。
東雲は紙の束をトンと揃えた。
「口よりも先に手を動かしてください」
しかし、横目で窓を見ながら雨音に耳を傾けつつ、
「…まぁ、気持ちはわかりますよ。こう、急かされている感じがするのが」
東雲も、この音は苦手な類であった。
「気になるなら音楽でも聞けばいいんじゃないですか」
ぽつぽつ、ぽつと小気味よく、窓が鳴っている。
「音楽、ねぇ…」
西野はペンで紙をコツコツと叩いた。
「牧歌でも流すか」
「誰がそんな情緒を求めていると」
東雲は手を止め、明らかに眉をひそめた。しかし、西野のスマホからゆったりとした音楽が流れると─
「……」
牧歌的なメロディが空気を包んだ。
「……無音よりは…マシかもしれません。…曲の選定は悪くないですよ」
東雲はぎこちなくも、音に耳を預けた。
西野は音楽を鳴らしたまま、スマホを机の隅にコト、と置いた。
生徒会室に再びペンの音が戻っていく。
窓から見える空は相変わらず灰色だが、雨音がかすかに和らいだ。
落ち着いたハーモニー。のびやかな低音。
どこまでも続く高原、穏やかな光に照らされる草木。
起伏のゆるやかな旋律が、雄大な大地を物語る。空気は澄み、きらりと川の水が流れるようだ。─羊が、鳴いた。
東雲は一瞬、まばたきをした。気のせいか─と再びペンを走らせるが
メェッ
今度は近くで鳴いた。羊だ。
「──西野さん」
メェェェェッッ
コケッコッコッコッ
ンモォォォォォ
コケコッッ
ンメェェェ、ンメ゛ッ
西野の机に置かれたスマホから次々と動物たちが鳴き出し、東雲の声はかき消された。
モォォォォォォォォォ
東雲はゆっくり眼鏡を押し上げ、低く声を落とす。
「なんですか──これは」
西野は顔を上げ、真顔で言った。
「"牧歌を流す"と言っただろ」
東雲は机に伏しそうになったのを途中でこらえ、こめかみを押さえる。その間にも、牛が声を伸ばしている。
「やめてください…牧歌とは、もっと静かで、のどかで、……動物が主役じゃない」
優雅な音に混じって、揚々と家畜の声が重なる。
「馬もいる……西野さん。これは"牧歌"じゃなく、"牧場"です」
賑やかに、自由に、各々が主張していた。
一瞬、鳴き声がひときわ高くなり─東雲の肩がわずかに跳ねた。
「……馬が、叫んだ?何に追われてるんです、こいつら」
西野はあっさりと答える。
「チュパカブラだろう」
「なぜ家畜の血を吸う未確認生物《U M A》が出てくるんですか。君の中の“牧歌”という言葉の定義を、今すぐ国語辞典と突き合わせたい。──ッまた叫んだ」
場の空気が、ぐっと不穏なものになったのを東雲は感じた。
羊、牛、鳥、馬たちの鳴き声が次々と連鎖していく。
牛が唸る。馬が雄叫びを上げ、鳥が羽をばたつかせる。
「…もう止めてください。もはや牧場ホラーです、牧歌を返してください」
東雲は止めるように指で示しながら言った。
「しょうがないな──」西野がスマホに手をかける。しかし、
「……あれ、画面が固まってる。止まらない」
タン、タンと指でスマホの画面を叩いたが、反応しない。西野は諦めてスマホを置き直した。
「嘘でしょう。どうにかして止めてください。集中の妨げにも程があります…ほら、また鳥がやられました」
「まぁ、そのうち終わるんだから。待っとけ東雲」
西野はそう言って肩をすくめたあと、再びペンを持ち机に向かった。
東雲はペンを握る手に力が入った。
「なぜ君がそう平然としていられるのか、理解しかねます。あと、これの終わりって──」
その瞬間、きん──と耳にくるような羊の叫びが室内に響き渡った。東雲は思わず耳に手を当てた。
低いストリングスが長く鳴り、重なる。
そこにあるのは、豊かな自然を揺るがす、恐怖──。
つんざくような声が机を振動させる。東雲は頭痛を覚えた。眼鏡を外し、こめかみを押さえながら「止めてくれ…」と小声で呟いた。
鳴り止まない、叫喚。
農夫の叫び声も聞こえた気がした。
だが、それもようやく終焉を迎える。
走らせていたペンを止め、西野がわずかに首をかしげた。
「なんか、数が減ってきてないか」
「家畜の数、ですか。やめてください、生々しい」
東雲は即座に制す。
だが確かに、動物の鳴き声が段々数を減らしているように聞こえる。羊が三匹、二匹、最後の一匹になり…小さく一鳴きしたあと───途絶えた。
…メェッ
───静寂。
空気がしん、と静まる。扇風機の羽が、ゆっくり風を送る。
楽器の音も、動物の声も聞こえない。
「あぁほら、終わった」
西野はペンでスマホをトン、と軽くついた。
東雲は眉間に指を当てている。息を吸い、吐いて、止めた。
西野はプリントをめくり、再びペンを走らせている。
「……こんな不穏な静寂、いらない」
東雲の声がぽつりと落ちた。
雨はもう、止んでいた。
〈余談〉─
「蒸し暑さで眠れないな。羊でも数えるか。羊が100匹、羊が99匹、羊が98匹──」
「減らして数えることあるんですか。──いや、待って。まさか、また…」




