道化
私の記憶の幕開けは、六つの頃に見た母の笑顔からなります。それは夜のことで、満天の空に輝く星を濃縮した、ネオンの中で見せてくれました。なぜだか私は泣いていて、その母の笑顔に息をつき、抱きしめられる腕の中で安堵したのか、いっそう泣いたのでした。そんな記憶が色褪せることなく残るほど、母は常から笑みを絶やさない人です。細面の白い顔に笑って出来た皺を、年を重ねるごとに増やしていく、年相応の魅力がありました。性格は昔気質な人で、黒く豊かな髪を毎朝綺麗に結い上げて、洋服が主流となっている現代においても、好んで和服を着ていました。色は蝦茶や藍などと至極質素でしたが、それがまた母の品を高めて高嶺の花にしていました。物腰はそれはもう嫋やかで、眠るときなど、そのゆったりとした声で幸せな夢へと誘ってくれるのです。私は母が大好きでした。
それに比べて、私の中の父というものは厳格で恐ろしいものでした。いえ、恐ろしいのは酒を飲んだ夜だけです。常の父は読書好きの気の弱い男でしたので、幼い私は父に付きまとい、遊んでくれ、とよくせがんだものでした。ただ本当に、酒を飲んだ父は怖いのです。細い目をさらに細めて、底光りのする獣の瞳をぎらつかせて母を、私を睨めつけるのです。その場から何度も逃げ出そうと思いました。ですが、そんな思い通りになどいくわけもなく、常に母と私の二人を無理に引っ張ってでも傍に置き、酒を飲むのです。そうして自分の話を聞かなければ、いえ、自分の癪に障ればすぐに手や足が出されました。ときにその酒が入った一升瓶を机の角で叩き割り、振り回されたこともありました。逃げようとしたときに、その割れた瓶のガラス片を踏んでしまい、それは今でも私の脚に残されたままになっています。怒った父は猛獣のようでした。僅かたりとも手を止めてはくれないのです。恐怖と苦痛にあえぎ、身体から力が抜けたところで、私は父の気が済まぬ以上、私は痛みに耐えなければならないのでした。殺してください。ごめんなさい。許してください。止めてください。何度、心で唱えたでしょう。何度、涙を零したでしょう。私への戒めに飽きると母が手を下され、それに耐えかねて私が止めると、私の元にまた痛みが降りかかる。悲鳴と絶叫が入り混じり、涙と血が畳に染みていきます。私は父が嫌いです。大っ嫌いです。ですが私には母を置いて逃げ出す勇気もなく、また母と共に逃げる度胸もないのです。甘んじてその下される審判を受け入れるしか出来ません。内心では受け入れたくもないのです。逃げたい。殺して。そんな事ばかりをずっと考えていました。ああ、でも。夜が明ければ大好きな平生の父に戻ります。おどおどとした笑顔を向けて小さく挨拶をする父に。そう思うとこの場に残らなければいけないという使命感が漲り、黙って痛みの雨が止むのを待ちました。
父は暴力に魅力をなくすと、抜け殻のように黙って寝室へと消えていきます。そうして十分も待てば酒の寛大さに酔いしれた高いびきが聞こえてくるのでした。それが、私たちの勝利の合図でした。勝ちを確信した時、私はいつも母に泣きつきました。母の腕の中は温かく、石鹸のよい香りがするのです。柔らかな胸に顔を埋めると、濡れた頬をその脂肪が優しく包み込んでくれます。そうして、細く痣だらけの手をさきの恐怖に震わせながら私の背を撫でてくれました。体中に沁みこんでくる温かさ。それは何よりも私の勝利へのご褒美でした。
「なぜ父さまは僕たちを殴るのですか。」
あの頃の私は母に縋るたびにこの言葉を言っていた気がします。酒を飲んでいない父に暴力をふるわれた記憶は一切ありません。それは母も然りだと思います。真面目に仕事をし、本を幸せそうに読み、私が分からないことを何でも知っている父。口では怒っているようでも眼差しは柔らかく、頭だって撫でてくれます。それがどうでしょう。酒を飲んだ後の父は、目を血走らせ、荒く息を吐き、髪を引きぬかんばかりに掴みかかっては、全身に刻印を刻み込む。――ええ、全く違う生き物になるのです。それが幼い私には理解できないのでした。
母はそんな私にマリア様のような笑顔を向けてくれます。下がった目尻と曲線を描いた唇の端に刻まれる細かい皺が、官能的とでも言いましょうか、母を艶めかせました。
「あれはね、父さまの愛情表現なのよ。」
毎日の家業の為にささくれだった手が、私の頬を伝っていく涙をぬぐい取ります。母の手が温かいのが、私は大好きでした。生まれつき手や足が冷たい私にとって、温かい、というのは重要なものです。私は父に似たのだと思います。父の手はぞっとするほどに冷たいのです。本を読んでもらうとき、公園に一緒に遊びに行ってもらうとき、父に触れると、氷に触っているのではないかといつも思ってしまいます。だから私は私が嫌いなのです。私の中に父が、特に酒を飲んだ時のような父の血が、流れているのだと思うと、とてつもない嫌悪に襲われるのです。
「父さまはね、私たちを殴っているわけではないの。あれで私たちに言葉で伝わらない以上のものを伝えようとしているのよ。」
その頃の私には母の言葉の意味が難しすぎて分かりませんでした。ですからいつもきょとんとした目で母を見上げるのですが、そうすると母の顔色が悪くなり、蔑みを露わにした表情になるので、私は何時の頃からか頷いて同意を示し、本心を隠して笑う術を身に着けました。母の言葉は洗脳に近いものだったと思います。いつも同じ声色で、同じように耳に入り込んできて、そうして私の中に根を張っていくのです。私の人格はいわば、この時に形成されたのでした。
それからというもの私は自分にたっぷりと暗示をかけるようになりました。母につらそうな顔をさせないために、父から与えられる「愛情」という痛みを受け入れるためにです。おかげでどれだけ父が酒を飲んで暴れようと、どれだけの痛みが私を襲おうと、私は人間らしく振る舞うことができるようになりました。そうして私は愛されている、と強く思えるようになりました。それは殴られたり、蹴られたりする力が強いほど余計に思うのです。
私は父に愛されている!
これほど幸せなことはないと思いました。学校に行けば寂しさを抱えている子供など、たくさんいるのです。私より可哀想なものがたくさん、犇めいている。私は胸を張って毎日を過ごしていました。父から受けた傷は私の勲章です。証です。愛です。どれほど気味悪がられても、蔑まれても、私は幸福でした。いえ、そう思い込んでいました。私が少しでも辛いと零せば世界は変わってしまうのです。母は嘆き、父は激昂するでしょう。私には耐えられません。私は哀しくなどないのです。私は、幸せ者です。
けれどどれだけ強く暗示をかけ、仮面をかぶったところで、年を重ねていった私の世界は少しずつ崩れていくのでした。
知識というものは下手に有ってはいけません。無知が良いと、どれだけ思ったことでしょう。痣の存在がだんだんと疎ましいものになり、人の目が怖くなりました。人間の、ビー玉のように澄んだ目で、私の薄汚れた肌を見られるのが、たまらなく嫌になるのです。また私がおかしい、と皆が気味悪がって私から離れて行ってしまうことも辛いものでした。
二十一世紀の現代で私という存在はひどく「浮く」のです。
母の実家はとても有名な旧家でした。祖父は資料集などで見かける江戸時代末期の軍人によく似ています。服はいつも和服でした。言葉の一つ一つが厳格で固く、古い映画を眼前で繰り広げられているようでした。私はその祖父にたいそう気に入られていたのか、祖父直々に勉学を習い、成長してきました。だからでしょうか、私はだいぶ昔気質な人間になりました。どうすればいいのでしょうか。私が何度直そうと試みても、細胞に染みついた垢のような性格はこれっぽっちも剥がれないのです。
私が私を諦めたとき、人の視線は刃を振りかざし、私に切りかかるようになりました。特に顔面に痣が出来たときなど、私はこの世の終わりになった気さえするのです。好奇心に満ちた目が往来のいたる所から当たり、まるでサアカスの見世物になったようでした。
ああ、私はなんなのでしょうか。この痣は私の父からの愛の証なのです。薄汚れた視線に汚されてはならない美しいものなのです。
私を見るな。穢してくれるな。私は哀れな子ではなく、幸せな子なのだ。
何度、叫びたい衝動に駆られたかわかりません。ですが私はついに叫ぶことは一度もなく、今日もまた面を上げることができずに歩きました。
地面に転がる石が私の爪先に弾かれて転がります。その石がどこか私のような気がしてきて、しゃがみ込んで拾い上げると、人通りのない道の隅へと持っていきました。何度も蹴られているのでしょう、角が取れて丸くなっていました。しかし一度欠けたのか、不自然な角ができていました。まさに私です。今まで愛に包まれ丸くなっていたのが、人の目によりささくれ始めたのです。
おい、という言葉と共に私は突然に腕を引き上げられました。このころ町を歩いているとみず知らずの人に絡まれることが多々ありました。いわく、纏っている雰囲気が弱そうなのだそうです。ですから日ごろ抱えている鬱憤を晴らすために私を捕えて殴るのです。父から振るわれる痛みは耐えられますが、他から与えられるのはただの暴力でありますので、痛みを嫌う私はなるべくなら避けて通りたいのでした。ですから私は掴まれた手を振り払おうと体を必死に捩りました。心臓が冷えたままに脈動を速めます。早く逃げたい、その思いだけが私を支配していきました。
「大丈夫か。」
見当はずれの言葉と、どこか聞き覚えのある口ぶりに私は恐る恐る顔を上げました。逆光で顔に影がかかっているにも拘らず、整った顔なのが見て取れます。見知った相手だったことに安堵した私は滞っていた息を吐きました。
「なんだお前か。」
声をかけてきた男は私と同じ大学に通い、同じ教育を受けている者です。可笑しなことに、人づてに知り合った私たちでしたが、今では仲立をしてくれた友人よりも、この男と居るほうが多くなりました。男は背が高く手足の長い、日本人ではないような体躯をしています。しかし男が言うには生粋の日本人なのだそうです。私には光の加減で青にも見える髪も、鴉の羽根のように濡れた漆黒の目も、すっと高い鼻梁も、ふっくらとした薔薇色の唇も、それらをすべてバランス良く配置した細面も、どうも私の中の日本人という定義から外れ、男をオリエンタルに見せるのでした。
「その痕はなんだ。」
男の顔が私の顔に迫りました。整った顔を近づけられ、私は不覚にも心臓を跳ね上げてしまいました。元来、色恋沙汰など疎い私でしたので、ふとした仕草が大変に毒でした。この男はどうにも他人との距離感が近すぎるのです。しかし、男の視線の先が特に私の左目に注がれているのに気付くと、そんな浮付いた思いさえ払拭されます。そこは、昨晩父に殴られたために青黒く変色し、さらに腫れのためにほとんど塞がってしまっているのでした。この男は何に対しても柔らかく受け流してくれるものだと思っていましたが、やはり人なのだと思うと悔しさが込み上げました。私は奇怪な人間ですので不躾な視線に晒されることにはまだ慣れています。街ゆく誰に嘲られようと、侮蔑されようと、それほどは構いません。ですがこの男には……この男だけには見捨てられたくはなかったのです。この男だけが両親を除いてただ一人、私を人間にしてくれます。そう、信じているのです。だのに結局、私は誰からも珍妙なものを見るように見られるのですか。私はやはり化け物なのでしょう。男にとって私は人間ではなかった。ああでも、いつも見せてくれたあの優しさまで嘘だと信じたくはありません。私は人間らしく、ゆるりと唇で弧を描いてみせました。
「そりゃお前、痣だ。」
私の、嘲りを含んだ返答に、男の目が苛立ちの色を湛えます。黒眼が一層深まり、底の見えない闇へと変化させるのです。それはなんだか冬の海を思わせる、冷たい黒でした。人を射て殺すのさえ、容易くしてのけそうです。
「それは分かる。何をしてそうなったのだ。」
掴まれていた腕が痛みを訴えました。男の細い指が糸のように私の肌に食い込んでくるのです。今まで私に深く関わりを持とうとしてくる者はいませんでした。友人はみな、上辺だけの存在でしかありません。それなのにどうしてこの男だけは、こんなに私に喰ってかかってくるのでしょうか。全く理解が出来ません。自分の範疇外の事が起こった時、人は驚きよりも恐怖を感じるようです。先ほどの見下した、屈強な態度は一瞬にして剥がれ落ち、弱い私は男から顔をそむけました。そうして腕を振り払い、視界から完全に男を排除しました。けれど、見えなくなったことで私の中に男の存在が強く根付きます。ええ、腕の痛みさえ増すのです。
「父に殴られたのだ。」
言葉にすると、痣は思い出したように私の体にじくじくと痛みを与えてきました。布に隠されているところから、男がじっと見つめている左目の痣まで、全てが呼応しています。熱さと鈍い痛みが私の体を駆け回り、暗示を解こうと取り掛かります。痣は父が私に施してくれる愛情です。決して私を嫌っているわけではありません。私は愛されている。どうか治まってください。痛みなど欲しくありません。私が欲しいのは、愛です。私は父など憎んではいません。いいえ、殺してやりたいほど憎いです。
「何かしたのか。」
男の言葉はどこか漫ろでした。その放心さが私の心に休みを与え、落ち着きを取り戻させてくれました。ええ、大丈夫です。父は私を愛していると今なら答えられます。男の発した言葉の裏には最近よく流れている報道のことが混ざっているのでしょう。親が子を殺し、子が親を殺す。理由は様々でしたが鬱憤が溜まって、というのが最も多かったと認識しています。そんなに溜めるなど、どうしているのかと思うのですが、私自身が感情をため込んでいるのですからあまり大きなことは言えません。ああ、本当に嫌な世の中になったと思います。自分の感情すらまともに表せないのですから。私の場合は自業自得な面もありますが、私だってもう少し両親と本音でぶつかりたいとも思っています。でも、きっと私は出来ないのだとも思います。私は結局、親を困らせたくはないのです。私は男に笑顔を向けました。
「いや。父が酒を飲んで暴れただけだ。」
酒は別名「気違水」とも呼ばれる代物です。私は父を見て育ったせいか、この「気違水」という呼び名の方があの液体には似合いだと思うのです。大人しい父を奪う水。酔わせ、狂わせ、惑わせ、壊す。いっそ無くなってしまえばいいと思うのですが、あれが父の、本以外の楽しみなのだそうで、私は何も言えません。
男の瞳の中に私の顔が写っていました。それはなんだか哀れでちっぽけなように思われました。唇がいびつに歪み、ともすれば恐怖で顔を引きつらせているように見えるのです。果たしてこれが私の「笑顔」だったでしょうか。見れば見るほど醜く、滑稽でした。
「そうか。」
男は短くそう言うと私に歩け、と促してきました。一人の散歩だったはずなのですが、男が参入してきたおかげで花が添わりました。私の背では男の方を二寸ほど見上げる形になります。それが同じ男として悔しくもあり、また冷静に自分の置かれた状況を踏まえると、非常に残念でもありました。男の中性的な容姿に目を惹かれた者たちが、隣にいる私を見つけては眉をひそめて目をそらすのです。無理もありません。和服の、固い言葉を話す時代を違えた男は私のほかにそうそう居やしません。ましてや片目の潰れた妖怪であれば尚更でした。
この男の目的がなんなのか、私にはわかりません。自分で言うのもなんですが、私には関わって得になるような部分など、とんと持ち合わせていないのです。この年まで何らかの教育を受けて育ってきていますから、一般常識などはあります。ですがそんなものは大した稀なことでもなく、皆が分かるから「一般」と名が付くのであり、私でなければ、というものでもないのです。男は人よりも文学に秀でている人間です。私は平々凡々な人間です。私が男に依存するのは分かるでしょうが、大抵は男の方から私に声をかけてくるのです。顔にこれだけ醜い痣を負った私と臆することなく話し、平生と変わらない態度で終止接するのです。
よく出来た男だと思いました。女が放っておかないのも分かります。学校で、街で、男が女から色目を使われない日など見たことがありません。私には勿体のない友人です。
やはり私には男の意思が見て取れません。この男は私に、一体何を求めているのでしょうか。あの一瞬で見えた男の、忌諱を湛えた瞳の真実はなんなのでしょうか。
「どうかしたか。」
声に気付いて顔を上げると、男が三歩ほど先から振り返っていました。どうやら私は考え事のために歩みを止めていたようでした。私はその心配そうな顔の中に、誰の表情からも見たことのない淡い感情を見た気がしました。
「なあ、人はなぜ他人を気にかけるのだと思う。」
私はこの男に本当の私を見てもらいたく思いました。偏に「本当の私」と言いましたがこれは「私自身にも理解できない私」のことなのです。
私は、自分で言うのもなんですが、矛盾した男です。同時に二つの考えが私の中に生まれ、反発しあい、惹かれ合ってしまうのです。顕著に例を挙げれば父の事柄が分かりやすいでしょうか。私は父を愛しています。それと同じぐらいの割合そして強さで、父を憎んでいます。何に対してもそうなのです。私が心を寄せたもの、全てに矛盾が生じてしまうのです。好きなものであり、嫌いなもの。大切なものであり、要らないもの。愛したいのに、愛されたいのです。おかしな人間だと私自身思っています。どんな経緯でこんな複雑な精神を持ってしまったのかもよく分かりません。ただ言えるのは、これが今まで私が自己の中に感情をため込んでしまった結果だということです。
私はどんなに辛くても笑っている術を見つけました。どんなに痛くても無心でいられる術を見つけました。何にも動じないのではありません。そのように暗示し続けたのです。そうでなければ私は、頼みの綱である母に手を切られてしまう。父の傍に生きていられなくなる。こんな私のことを友人だと言って付き合ってくれる者たちがみな遠ざかってしまう。私を私として定義づけてくれる全てを失ってしまうのです。
人間でいられなくなったらそれこそ、お終いなのです。自分の容姿も、中身も、化け物だということは重々に承知しています。けれど私は人間として生かされている間は、人間として生を全うしたいのです。化け物になど為りたくないのです。人間でいるために私はこの男にすべてを受け入れられたい、そう、思っているのです。きっとこの男こそが私の救世主です。私のこの、すべての矛盾を飲み込んでも笑顔で私を愛してくれる、いえ、絶対に愛して欲しいのでした。
それから三月ほど暦が進むと、私の顔からは痣が消え、目も見えるようになっていました。陽は高く昇り、空は青と白の境界をくっきりと引いています。蝉が呼応するように鳴きあい、街は揺れて溶けていきます。
私はこの日、男の家で危機として迫る試験の勉強をすることになっていました。どの科目においても並な私は、頭のよい男に苦手をつぶしてもらい、少しでも成績を芳しいものにしようと試みるのです。試験の度に訪れていますが、和服で伺ったことは一度もありません。いくら顔馴染みであるとはいえ、他人様の家に上げてもらうのに和服では失礼だろうと思い、この家に赴くときにはいつも洋服を着ていきました。白いシャツに黒のズボンという、一見して学生服にでも見えそうな服装です。他の人は普通なのでしょうが、私には違和感でしかありません。襟元がかっちりと締め上げられ、袖もなんだか窮屈です。布と足の間に空間がないのがまた動きづらいのでした。
男の部屋に入るなり、彼はきつい視線をこちらに一度向けてきました。どこか訝しさの混じる眼光に、私は不安に駆られました。私は男に嫌われることだけは避けたいのです。ですが、このような目線を他人に向けているのを見たことはありません。私は何かしたのでしょうか。約束の時間は確かに少し遅れました。ただし私は遅れようとして遅れただけなのです。人の家に招かれて時間通りに行くのは礼儀ではないから、という唯それだけのことなのです。それにそんなことぐらいで怒るような男ではありません。ああ、いよいよ分からなくなりました。男はそんな私の胸中も知らず、怖い顔のままに壁にかけていた薄手の、灰色をしたカーディガンを手に取って私に押し付けてくるのでした。
「そんなもの、いらない。いっそこれさえも脱いでしまいたいというのに。」
私はシャツのボタンの辺りを抓むと前後に動かして煽ぎました。第一まで閉めてあるのでほとんど風は来ませんでしたが、しないよりかはマシでした。外から歩きてきたばかりの私の額には汗が伝っていましたし、同様に背などもじっとりと湿気を帯びていました。和服であれば裾から襟から、風が通って涼しいと感ぜられるのですが、洋服というものは何故こんなにも通気性に不備があるのか、私には理解が出来ません。
男はカーディガンを持つ手を下げて、戸惑うように視線をゆるがせました。迷う、ということを殆どしない男でしたから、私には男のそんな行動が不思議に思われました。先ほどの不安も相まって、懐疑を抱いた私は、何かあるなら言ってみろ、と半ば挑発的に男に言葉を投げかけました。
「……見えているぞ。」
何が、と言い返すとほとんど同時に男の手が私の脇腹に触れました。冷たい、などと思うより早く、男の言葉の意味を飲みこみました。私は飛び退り、男に背を向けました。見られたのです、痣だらけの醜い私の肌を。今まで誰にも見せたことのない穢れきった私を。顔は隠しようがないので妥協をして生きてきました。けれど体は、ずっと隠してきたのです。赤や紫や紺や橙と、付けられた日、またその時の強さによって進行度合いの異なっているそれらは、まだらに私の肌を染めていました。これだけは誰にも見られたくありませんでした。ましてやこの男に。
否応なく震える腕を抱いて、それを貸してくれ、と泣くように懇願しました。汗で張り付くシャツが私を突き落していきます。しかしいつまでたっても男の動く気配はなく、それどころか、ついには鼻で笑われました。
「必要ないのだろう。それに、そんなに暑いのなら脱いでしまえばいい。」
男の言葉が鼓膜を震わせ、そうして脳みそを滾らせました。怒りだとか悔しさだとかの醜い感情が私の中に湧き上がります。からかうな、とひとこと言い返してやりたいのに喉が渇いて、荒い息だけがこぼれていきました。手に思うような力が入らず、拳すらまともに作れません。
ああ、私の中に渦巻くこの感情をどう吐き出せばよいのでしょうか。この男を今この場で絞め殺してやりたい気分です。私の手は何のためにあるのでしょうか。私の思い通りに動かないなど、これは私の体ではないのでしょうか。
男は意地が悪いのではないかと思いました。確かに今までに体中の痣を見られていないのは奇跡でした。ええ、免疫のないことに人が対処できないのは当然の事ですし、男の行動もゆっくりと考えれば当然の事なのかもしれません。ですが、私はこのとき平常心というものは放り投げておりましたので、名前の付けられない感情に体を震わせるしかありませんでした。
「どうした、脱がないのか。」
後ろから掛けられた声に私は一種の脅迫を感じました。獲物に狙いをつけた蛇が勿体つけるように舌をあそばせている、そんな気さえさせる、背骨を凍らされるようにひやりとした感触が私の体を固くさせます。憎い。弄ぶような口ぶりをしたこの男など死んでしまえばいい。どろどろとした感情が私を作り替えていきます。でも私はこの男を欲しているのです。この男の目に晒されているのを喜んでいる私が、どこかにいるのです。私の目には涙すら浮かんできました。
ああ、いやだ。私なんて消えてしまえ。いいや、存分に見てくれ!
男の手が後ろから伸びてきて、私のシャツの襟元に触れました。彫刻のように滑らかな肌なのが見て取れます。長い指が器用に動き、ボタンを外していきました。罵って叫び、突き飛ばしてやりたいのに、やはり私の体は少しも動いてくれませんでした。たとえ動くとしても、時折男の指が肌上を掠るのをくすぐったく思い、身を竦めるだけです。
男の目的はなんだか分かりません。透けて見えてしまった痣の多さに関心を寄せたのでしょうか。嫌だという思いはもちろんあります。でも私は歪んでいるので早く暴かれたくて仕方ないのです。この男だからこそこんなに嬉しいのかもしれません。憎悪にどれだけ息を詰まらせても、早くとせがんでしまいそうです。
両肩からシャツが音もなく落ちてゆきました。袖のボタンは着いたままでしたし、裾もズボンの中に入ったままでしたので完全に脱げることはありませんでした。しかし、私の醜形は、あますとこなく彼の澄んだ双眸に暴かれているのでした。
私は一種の、エクスタシーのようなものを感じました。「私」という異形な物体を内包している、日陰にされた体をこの男に見られたのです。一番見られたくなかったものを、ようやく公にしてくれたのです。ああ、今なら死んだって構いません。死への恐怖はありますが、この歓喜は死と対等の対価となりうるものです。
「どうしてそんなに痣だらけなのだ。」
男の目が私の醜怪な肌の上を嘗めるように攫っていきます。一つの痣も見落とさない、念入りな、粘ついた視線でした。それは背中から腕、脇腹から前身へと流れていき、そうして私の左目へと向けられました。過去の傷が見つけてもらった嬉しさにじくじくと疼いて快哉を叫ぶようです。
ああ、この震える胸の拍動は何と名の付いたものでしょう。のっぺらぼうに生きてきた私はこの目の前の男に掻き乱されています。分からない。私はどういう人間だったのですか。もっと掻き乱してほしい。私という個体を壊してほしい。
私は努めて艶妖に笑みを作りました。
「父が暴れた。それだけだ。」
男の関心が私に寄せられるほど、嬉しいものはありません。いえ、関心が寄せられることは本当に喜ばしいことでしょうか。よく相手の顔を見なければなりません。男がどんな表情で私を見ているかが重要なのです。私個人の歓喜など二の次でいいのに、なんということをしてしまったのでしょう。私を化け物に引きずり込むかどうかは、全て男次第だというのに。
私は慌てて男の顔を覗き込みました。
「なぜ父に酒を飲むなと、殴るなと言わない。」
私は思ってもみなかった男の言葉に揺り動かされました。父……ええ、そうです。私と男の戯れではなく、私が父に与えられたこの痣の話をしているのです。愚かな私。何を浮かれていたのでしょうか。
父に、私は何を抱いていたのか。私はどう暗示してやりきってきたのか。自らのことしか念頭になかった私の小さな脳味噌が必死に私を組み立てているのが分かりました。
「ち、父は酒が好きなのだ。好きなものを絶てと、私が言えるはずがない。私だって好きなものを取り上げられるのは嫌だ。それに、父が殴るのは仕方のないことなのだ。父は私や母を愛している。愛する者と愛する酒、どちらか片方しか手に入らないのは淋しいだろう。これは暴力ではない。口下手な父の、愛情表現の一つだ。」
「それは違う。それは愛でない。」
私の言葉とかぶるようにすぐ、男は低く諌めてきました。あまりにもはっきりとした強い口調に、私が装った感情の堤防に罅の入る音がしました。
「では、なんなのだ。」
男はわずかに目を伏せました。長い睫毛が頬の上に影を落とし、くっきりと憂いを浮かび上がらせます。何気ない仕草だったのでしょうが、私は彼の動きの一つ一つに畏怖さえ覚えました。畏怖。私をすべて理解してくれるのはこの男しかいないと確信していた浅はかな私の心に、一滴落とされた墨。怖い、ああ、嫌です。もしこの男が私を理解していない、ただそこらに転がっている石ころと同じなのだとしたら。一体誰が私の存在意義を確証してくれるのですか。私ですら分からない私の感情を表してくれるのですか。ゆっくりと開かれた瞼の下で、きらりと瞳が煌めきました。
「ただのエゴだ。エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、一度も自分を疑ったことがないんじゃないか?」
その言葉こそ暗雲を払いのける聖なる光だと思いました。やはり彼こそ私の最大の理解者です。私が言葉に成し得なかった虚無を象った。……でも、そんなことがあるのでしょうか。戸惑う私の心が男に、また、歓喜する私に歯止めをかけます。私の感情というものは誰かにこうして簡単に暴かれていいものだろうか。自分でも分からないものが他人になんて分かるはずがありません。そう、私の心は何で出来ているのですか。陰鬱と悪魔。懐疑に正義。矛盾し撞着し、そうして壊れた心が奇妙に捻くれた、一筋縄にはいかないものです。
「では愛とはなんなのだ。耐えることが愛に答えることだという母の教えは間違っているというのか。」
唇が歪むように崩れた笑みを作り上げるのを感じました。ここまで来たら、この目の前の男に期待せずにはいられないのです。私を満足させる答えが欲しい。私が正常だと見なされる真っ当な理由が欲しい。私を人間にしてくれ。この世界に普遍的にありふれている、人間だと言ってくれ。有るとも知れない冀望に体が戦慄と震えました。
「……僕が思うに、愛というのは、誰かを思いやる心だと思う。相手の喜ぶ顔が見たい、そしてその顔を見て自分が幸せになる、そんな単純なことだと思うのだ。」
鼻の頭を照れたように掻く男の、淡々とした答えに、私は拍子抜けして、まじまじと男を見つめてしまいました。ですが、いいえ。そのありふれた言葉はあまりにも的を射ていました。聞いているこちらが恥ずかしくなるような、今ではとんと聞かない率直な解釈。この男の口から「愛」について聞けたことも奇跡に近いような珍しいことです。
男の瞳が柔らかく私に向けられました。その漆黒の目の中にも瞳孔の、一層黒々とした世界が広がっているのを見て、道を完全に見失ったのでした。
この男の、愛のあり方を聞く限りでは、母が私にしてきたことは、愛ではないように思われました。確かに母が父を思いやって暴力に耐えるのは愛かもしれません。また私にその考えを押し付けるのも百歩譲って良いとしましょう。ですが。私はどうしても父が私たちに暴行を加えて楽しそうだとは思えませんし、私自身、幸せではありません。この温度差が生じてしまうのなら、母の考えは間違っているのではないでしょうか。
「母は、どうして父の暴力など肯定したのだろう。」
男の手が伸びてきて、腹のあたりで弛んでいたシャツの裾を掴むと、私の肩までそれを引き上げて、着せてくれました。シャツのボタンを器用にとめていく指に迷いはなく、正確に、また丁寧に元の状態へと戻してくれました。
「一人で耐えるのが、寂しかったのだ。」
寂しいなどと独りよがりな感情で他人を巻き込んでも良いものなのでしょうか。他人と協調のとれない、個人行動の多い私にはよく分かりませんでした。これはきっと友人の多いこの男だからこそ言える言葉であり、理解できる事柄なのです。初めから一人の――今も一人きりの私が腑に落ちるような代物ではないのです。
男は話を切り上げようとでも言うように私に小さく笑みを向けました。そうしてさっさと部屋の真ん中に位置する卓袱台を前にして座り、当初の予定であった試験の勉強を始めたのでした。私も男の正面に座り、テキストを広げますが、ええ、想像できる通り勉強など手に着きません。頭の中をずっと母の笑顔が巡ります。太陽の元に咲く向日葵ではなく、月を背にしてはらはらと舞い散る桜のような、儚さと悲しさを湛えた笑顔。落ち着いた口元には疲労が見て取れ、瞳はどこかぼんやりとした印象を受けます。私はそれを父の暴力への虚無だとかねがね考えていたのですが、男の言うように寂しさを母が抱いているのだとすれば、私に明かせない寂寞の思いが母をあんな風に朧気にしていたのでしょうか。
寂しさ。母の寂しさとは一体どういうことなのでしょうか。ああ、分かりません。私の言う寂しさとは母や父が時折私のほかに熱を注いだときにみえる、半ば嫉妬のようなものです。例えば母の生け花。父の読書。私は私の好きな人が、私以外を愛でているのに耐えられないのでした。でも、どう考えたとしても母の言う寂しさがこれには当てはまりません。
答えの出ないまま、時間だけが虚ろに過ぎていきます。男は時折目を上げてこちらを見ているようでしたが、手の動かない私を見ても何を言うでもなく、また勉学へと集中するのでした。それは私にとって好都合でした。静かな空間は考え事をするにはちょうど良いのです。ですが。私の頭は空回りするばかりで、日が傾いても納得するような答えにたどり着かないのでした。
母の顔を見ることを恐れた私は男に懇願して泊めてもらうことにしました。男がその旨を伝えた女中はちらりと侮蔑を込めた目線を向けてきましたが、静かに微笑み、承諾しました。助かった。そうして猶予を貰った私は頭を働かせて考えるのでした。
寝る前のわずかな時間。布団に横たわりながら時間を確認しようと携帯電話を開くと、母から大量のメールが送られてきていました。最初は心配がる素振りで、それから新しいものになっていくと父のことをつらつらと書いているのでした。「父さまが帰ってきました。」「早く帰ってきてください、父さまが怒っています。」「父さまがお酒を飲み始めました。」そしてつい先ほど届いたメールは半端な平仮名だけが書いてあるのです。打とうとして携帯電話を投げ捨てられてしまったか、それとも。投げ捨てられただけならばまだいいのです。しかし、父がそんな手ぬるい真似をするとは思えません。
もしも、父が、我を忘れていたとしたら。
最悪の場合、私は母の死を覚悟しなければなりません。
「どうかしたか。」
並んで敷いてある、隣の蒲団から、就寝前の本を読むのに肘をついて寝そべっていた男が、静かな顔でこちらを向いて、平坦な声をかけてきました。男の感情に抑揚がないわけではありません。単に彼が今、睡魔の手に落ちる寸でのところまで来ているのです。それを知っている私はその人間らしさに心を緩和され、自然と笑うことが出来ました。
「父が怒っている、と。」
それは、お休みを言うように簡単な言葉でした。
しかし男は優しいのでした。私がそんな風に軽く発したのをしっかりと受け止め、きりりと精悍な顔つきに変え、低い声で促すのです。
「帰ったらどうだ。」
男は私の胸中を把握している!
促されて初めて私は気づきました。今すぐにでも飛んで帰りたい自分がいるのを。しかし私は笑顔で頭を振るのです。大した事柄でもないというように。
私は今まで父から逃げたことはありませんでした。先に述べた様に、私は臆病で、無力な男なので、逃げ出したくても、いつも恐怖が先に立ってできないのです。ですがこの日初めて、外にこんな遅くまでいて思ったのです。帰らなければ恐怖は来ない、と。そもそも私の生き方というものはシュレディンガーの猫のようなものではないでしょうか。父という恐怖から逃げた私と逃げなかった私の平行世界が存在するのなら、これは逃げた私の、初めて発見した世界なのです。そうして私は今も惑わされているのです。さらに逃げるべきか、常の私に戻るべきかの。でも私は逃げたい。逃げ切ってみせたい。あんなところに戻るのは嫌なのです。愛情だと割り切れない私の無駄な知恵が、どうにも邪魔をするのです。
「私は、帰れない。」
男は本を閉じて私から顔をそむけるように横になりました。私は呆れられたのでしょうか。ここで母の為に帰った方が、私を見ていてくれたのでしょうか。だとしたら私はとんだ失態を犯したことになります。嘘だと今言ってしまえ。帰ると言い出せ。男に嫌われたいのか、早くしろ。情けないことに、頭がどれだけ動いても、口は鉛のように重く、海中に沈んだ貝よろしく閉じているのでした。
「あれこれ悩みすぎると、人はどうでもいいことまで悩む。いっそ直に訊いた方が君の身のためだ。明日までに自分へ問いてみろ。君は利口だから、自分が今なすべき行動を、しかと見極められるはずだ。」
男の言葉は、私をきつく咎めるでもなく、かといって甘やかすほどやさしいものではありませんでした。しかし、私の気休めには十二分になりました。私は一度起きあがり、天井から吊るされた照明より伸びる細い、蜘蛛の糸のような紐を、縋るように引きました。
そうして次に目を開けた時、私は今日という日を太陽に誓うのでした。燦々とした美しく白い太陽は、この先を掲示しているのです。男はそんな私を見て艶然と笑うのでした。それと同時に憐情にも似た色が浮かんでいるのが見て取れましたが、人は自らの気分がいい時には他人のマイナスな感情などあまり気にすることはできないように作られているために、私はこの時、男の思いの丈をそれほど重要だとは受け止めないのでした。
しかし晴天は思っていたよりも長くは続いてくれず、私が外へ出たときには既に、薄く墨の練り込まれた雲が幾重にも重なって太陽を覆っていました。光だけがそこから僅かに通るものの、空の青は完全に塗りつぶされています。私の誓いは果たされるのか。昼間にも関わらず、淀んでいる世界の中を、私はふらふらと歩みを進めました。
排気ガスで揺らぐ大気。けたたましく鳴るクラクション。高層ビルから吹き下ろす風はじとりと湿り、夏の暑さを切々と訴えてくるようです。電車の中は空いていました。しかし、弱冷房車なこともあってか、内側にこもる熱は漂い歩き、人好きのするようにぴたりと寄り添ってきます。鉄の塊は鈍い動きで街の中の決められた場所を、のたりのたりと這いずっていきました。流れていく風景が、歪み、軋み、悲鳴を上げているように思えてなりません。私が電車から降りたとき、すでに足は棒っ切れのように固くなっていました。最寄り駅から自宅までは歩いて半刻ほどかかるので、普段はバスという便利な公共機関を使うのですが、この日は地道に歩くことにしました。ここまで来て、私は怖気づいているのです。体が家に近づくにつれて、私の体は不調を訴えるのでした。
弱虫。こんなに恐怖を感じるのなら最初から逃げなければいいのに。あのとき、常の私の人生を選んでいたら、ここでこんなことを考えずに済んだのだ。愚か者。単細胞。空け者。お前は母一人を家に残していくことに抵抗がなかったのか? あんなか弱い生き物一人に重荷を背負わせて、恥ずかしくないのか。阿呆。抵抗はあった。帰らなければとも、思った。ただ私は帰らなかった。何故? 自分の幸せのために。ああ、母が死んでいたらどうしよう。父に殴られた位置が悪くて死んでいたら? 息子に見捨てられた悲しさから自害していたら? それともたまたま強盗が入って死んでいるかもしれない。どうしたらいい? 私は今、帰ってもいいのか? 敷居を跨ぐ、その権利があるのか?
悩みました。けれど動かない脚を引き摺るようにしてここまで来たというのに、引き返すなど間抜けな真似が出来るはずもなく、白く飾り立てられた、虚栄の戸口に立つのでした。インターフォンを押しますと、中からパタパタという急ぐ足音が聞こえてきました。今はのぞき穴を見ずともインターフォンに内蔵されたカメラが戸口に立つものを捕え、居間にある小さな画面に映し出すのです。
お帰りなさい、という声と共に開かれた戸から、乱れぬ着物姿の母が現れました。表情は柔らかく、私が私の男の中に見た滑稽な笑顔とは、やはり全く違うのでした。白粉をはたいているために顔は白く、のっぺりとしています。ですが私は気づいてしまいました。その能面のような化粧の下に青痣という大輪の花が咲くのを。女だろうが父は一切の容赦はしません。母の方が殴られる頻度は少ないとはいえ、その白い肌には私よりもきつく、痕が残るのでした。母の顔は私を責めよう、などという低俗な感情では作られていませんでした。ですが、それが私にとって一番の恐怖です。いっその事、こっ酷く詰ってくれた方が楽なのだと、私はこの時初めて知りました。私は絞り出すようにうん、とだけ答えて、よろめきながらも中へと入りました。
古風と今風の混じり合う私の家は、周辺の家と比べて少々大きな家でした。二階建てでしたので、他の家と比べて背丈は低いのですが、回廊があり、庭があり、そこには小川さえ流れています。つまり横に広がっているのです。外見は和式。中身は和洋折衷の、贅沢な家屋でした。
長い廊下の突き当たりに位置する居間は、現代では珍しく、畳の床でした。私はその居間の座布団の上に座りました。母は何も言わずに暖かな茶を入れて私の前の座卓に置くと、それを挟んで向かいに腰を下ろしました。
この時の沈黙と言えば形式ばって重々しい、耐え難い苦痛そのものでした。刻々と時を刻む時計の針の音が私の中でだんだん大きく木霊していくのです。
かちん、かちん、かちん、かちん………。
母の表情は何か言いたげで、それでいて頑固たる意思が見えました。きっと母は私が問わない限り何も言いだしはしないでしょう。そういう女です。その奥ゆかしさが華なのだと今までは思ってきましたが、この瞬間の私には重荷以外の何でもありませんでした。
「――母さん、父さんは、私たちを愛していないのですか。」
私は思い切って切り出しました。迂遠な表現もせず、愚直に切り込みました。母は眉をハの字に下げました。あの時と同じです。母が、父の暴力は愛情表現だ、と言い張るときの、怯え、蔑み、困惑する顔。そう、いつもこんな風に冷えた目で私を見るのです。いえ、こんなに厳しいものではなかったような気がします。笑った口元の、細かな皺。その一つ一つが私をきつく締め上げていくのでした。
早く逃げなければ。私はここに戻って来てはいけなかったのだ!
私は「私」を見失いそうなほどの苦しみを感じました。自分がこの目の前の女に対して、不必要なものなのだと思うと、何とも言えない哀しみがこみ上げてきます。
ああ、こんなことではいけない。私はここで引き下がるわけにはいきません。母をここから逃がしてやらねばならないのです。籠の鳥でなくさせなければならないのです。私だけ逃げるのではいけません。逃げるのなら、このか弱き女の手も取らなくては、息子として、いえ、一人の男として、本当に最低な者になってしまいます。あの男は私に言いました。君なら今何をすべきか見極められる、と。男が、私に、それだけの信頼を寄せてくれたのです。私はそれに答えるべきではないでしょうか?
私は、真っ直ぐに母を見据えました。
「母さん、暴力は、愛ではないのですよ。」
母の赤い紅を引いた唇が、すっと横に引かれました。赤。それは私の中で多重になり、ぼやけ、そしてくっきりと根付いていきます。赤。何かで見覚えがあります。それは口紅ではなかったとは思いますが、鮮烈に残る赤。そういえば、母の唇はこんな下種な色をしていたでしょうか。いつももっと上品な、開き始めのソメイヨシノのようにほんのりと淡い色をしていたはずです。たとえ普段あまり付けない白粉をはたいているからといって、その時にこんな、血を嘗めた様に赤くしていたでしょうか。
「あら、ばれましたの。」
告白は、あっさりとなされました。私は己の身体から恐ろしい勢いで血の気が引いていくのを感じました。これは母ではない。物の怪の類です。母に化けた他のものです。私の母はこんな風に笑うような女ではなかった。もっと妖艶に、可憐に、つつましやかに笑うはずです。……いいえ、果たして、そうでしたでしょうか。一度逃げた後悔の念から、私が勝手に脆い女を作り出していたのだとしたら。元からこの女はこう笑っていたはずです。私を侮蔑することも簡単にやってのけたではないか。これが母だ。まぎれもない、私の母の姿だ。
では、私が思っていた女はいったい誰?
懐疑を投げかけた途端、私の体の中を何かがとてつもない速さで駆け巡っていくのを感じました。骨という骨にぶつかりながら走り、末端の血管までにも入り込み、私の体を支配するもの。そうして目の奥の狭い神経を押しのけながら脳味噌へとたどり着いたそれは乱暴に、私の脳髄を掻き乱すのです。
夜の街。遠くで光る街燈。若い女。揺れるスカート。
未知の街。ネオンの光。泣き笑う道化師。靡く風船。
こんな映像を、どこで見たのか記憶がありません。ええ、でも。いえ、あります。笑う声はきっと私のものです。そうです、きっと。相違ありません。あれは私の、紛れもない記憶。幼かった頃の私。それこそ、そうだ。六歳以前の……―――
私は、叫びました。
見えてしまったのです。
あれは私。
あの女は、そう。
さあかすがはじまるよ。
おかあさん、はやくみにいこう。
ねえ、あれはなあに。
おかしなぼうしをかぶっているよ。
はんぶんないて、はんぶんわらっているよ。
まるでおかあさんみたい。
さあかすがはじまるって。
あのおかしなひとがいってたよ。
ぼくにふうせんをくれながら。
しろいおかおで、あかいくちびるだけわらわせて。
ゆめがさめるってどういうことかな。
ぼく、ゆめなんてみてないよ。
ちゃんとおきてるのにおかしいね。
あしたにはいなくなっちゃうんだ。
さいごのよるだよ。
たまのりする、くまさんも。
なわをとぶ、ぞうさんも。
そらをとぶ、おにいさんも。
けんでおてだまをする、おねえさんも。
みんな、いなくなっちゃうんだって。
ふしぎだねえ。
ねえ、おかあさん。
さあかすがはじまるよ。
おかあさん、
真実。それが真実です。ああ、あの女は、この目の前にいる女ではない。道化師の風船に纏わりついた私は、あの場所に置いて行かれた!
赤色の涙を右頬に見せた道化師が私を憐れみ、慰めた。
十字の笑みを左頬に見せた道化師が私を嘲り、罵った。
私には母だけだった。家には私以外の男はいなかった。母は私に愛している、と言い、頼れるのは私しかいない、とも言った。
目の前にいる女は、私を傷つけた男は、私のものではありません。
愛を与えてくれるものでもないのです。
「母さん、どういうことですか。私にずっと、あれは愛だと言っていたじゃないですか。」
それならばあの暗示は何のためにあったのでしょうか。私が父に殺意を抱かなかったのは母があれは愛だ、と教えたからです。せっかくここまで生きてきたというのに私のこの心はどうすればいいのか皆目見当もつきません。父の愛を曲がりなりにも信じてきた私の清らかさはどう処理すればいいのですか。母は嘲りにも似た表情を浮かべていました。すべてを知っていた母にとって、私はみっともないことに変わりはないのです。
「うるさいピエロだね。本当にあんたは親の悪いところばっかり引き継いでいるよ。外身はあの男に。中身はあの女に。本当に、最悪な子供に、私からの愛なんて、あるわけない。ましてやアンタとの間になんて。アンタはねえ、私の子じゃないんだよ。もっと言えば血の繋がりすらない。たまたま、あんたの母親と私が友達だったってことで、アンタを押し付けられたのさ。まったく、困った話だよね。こっちだってアンタみたいな子供は願い下げだって言うのに、あの子は聞きもしないで勝手に置いていって。わざわざ迎えに行ってやる羽目になって、もう、本当に疲れたものさ。アンタはずっと母親を探してさ。捨てられたなんてすぐに分かるだろうに。愚図なのは誰に似たんだろうねえ。本当の母親はもう死んだよ。アンタを捨ててすぐ、海の藻屑になっちまった。ああ、あの子は私の最大の理解者だった。もう一人の私を失くしたみたいで心にぽっかりと穴が開いたよ。夫の暴力はアンタが来たおかげで一層ひどくなった。……でもね、私はアンタに感謝しているところがあるんだよ。アンタが来てくれたおかげで殴られる苦しみを分かち合える相手が出来たんだから。私より弱い手駒。使えると思ったよ。夫の暴力をアンタの方に向けて、私に泣きつかせるんだ。そうして私は神様になったみたいにあやして、アンタの目が私にしか向かないようにしたんだ。私の痛みを分かち合えるのはアンタ一人。切なげに見上げられて、私は嬉しかった。寂しくなくなったんだよ。理解者を失った悲しみを乗り越えられるくらいにね」
骨のような手が伸びてきて、私の腕を掴みました。細い指の一本一本が靱やかに纏わりついてきます。頬には一筋の道が出来ていました。媚びたような甘い声色で嗚咽を上げるその姿は哀れさを感じさせました。
「アンタがいなくなって、とても寂しかった。一人で痛い思いをしても本当に、死ぬことしか考えなくなる。なあ、寂しいんだ。分かるだろう? ああ、アンタが置いて行かれた初めの頃は、本当に疎ましくて、愛なんてこれっぽっちも分からなかった。でもねえ、アンタが、あまりにも純粋な目で私を見上げてさ、縋りついてくるもんだから。ちゃんと可愛いと思えたさ。愛してあげようと思ったのさ。なあ、アンタと私は同じ境遇に立たされている。アンタはもう、私の半身。そうだろう?」
私は無意識のうちに作り上げた拳を座卓に振り下ろしていました。男の言葉は本当でした。母の行動は寂しさゆえの行動です。ただそこに、私の思い描いていたような愛はなかったのです。ただの傷の舐め合い。汚らしい、低俗な感情でしかないのです。義母はひっ、と小さな悲鳴を上げました。口からではなく喉が勝手に震わせた声にならない音でした。彼女は私に完全に委縮してしまっていました。くだらない。急に目の前の女が小さく見えました。相手を貶めあうことでしか相手を見れない、浅ましい人間なのです。
そうなると、私を置いて行った本当の母というものも疎ましく思えてきました。もともと女というものに完全な信頼を置いてはいない私でしたが、ここまで裏切りに裏切りを重ねられ、底が見えてしまうと、それこそ嫌悪の情しか浮かんできません。
義母は私が淡々とした目で見つめているのに気付いたのか、急に唇を戦慄かせて怒鳴りました。
「アンタはねこだ。ワタシの手を噛む、礼儀のないねこだ。アンタは私を理解しない、愚かなねこだ。」
次の瞬間、義母は聞いたことのないような荒げた声で私を罵倒しました。私が「自分」の味方でないと分かった途端、私は彼女の中の敵となってしまったのでしょう。クドクドとした重い口調、負けを認めろ、と訴える濁った瞳。自分の思い通りにいかなければ気のすまない、子供のような、弁が立ち頭の切れる、女王のような傍若無人な振る舞いに私は辟易としてしまいました。
女というものは、泣き叫び、気違いになれば相手が許しを請うてくると考えている、狡猾な生き物です。街で恋人と喧嘩する女は何時だってそう。相手の弱いところを針で突き刺し、執拗にうごめかせて苦痛を与え続けるのです。実際女の言う言葉は正論です。しかし、男としてはその女の行動が不愉快極まりありません。許しを請うのは、女を心配しているのではないのです。自己保身。そして、どこまで行っても「可哀想」な立場に立つ女を守らなければならないという、遺伝子に組み込まれた動作からです。
私はこの時、どう動くべきかを考えていました。目の前にいる哀れな女を、私自身がどうしたいのかがよく分かりません。投げ捨てたくもありますし、助けたくも思います。
義母は手近にあるものを次々と私に投げてきました。花器や裁縫の道具、茶の入った湯呑、座布団など、本当に様々のものです。当たりこそはしませんでしたが義母が私に向けてくる狂気の鋭さに、私は「母」という、偽りであっても真実である存在を投げ打つことに決めました。
高笑う声が逃げる私の背中に張り付いて、耳の中を犯してきます。ああ、義母は私を縛り付ける。この声は私を苛むに違いない。太陽に背くことしかできない私を、一生追い回していくのです。
男の家を出てもう一刻は過ぎていました。これからそこに向かうにはさらに一刻ほどかかります。ですが私にはもう彼しか残されていません。そのことに気付くと、今すぐにでも男の顔を見たくなりました。男なら、私をどうにか白日の元へ戻してくれる気がするのです。あの女は本当の父のことは死んでいるとは言いませんでした。これが希望か絶望か判断が下せるのはあの男だけ。早く戻らなければなりません。男が私を見捨てる前に。私が一人で倦む前に。
運よく私は雨に降られることはなく、それどころか厚い雲の隙間から零れる陽の光に見送られながら男の家にたどり着きました。女中は私の顔を見て疑わしげな視線を送りましたが、男から通すように、と言伝られると渋々ではありましたが、私を男の部屋まで連れて行ってくれました。
襖を開けると、右手の壁に沿うように置かれた文机に男は向かっていました。勉強をしていた小さな机はまだ部屋の真ん中に置かれたままで、私が何も手に着いていなかった痕跡が、くっきりと残っているのでした。
なあ、と声をかけると、うん、と短く返事が返ってきました。そうして律儀にも書き物をしている手を止めて私を向くのでした。私は男の前に崩れるようにして座りました。意図してした訳ではなく、男が私に向かって笑みを向けてくれるのに安堵してしまったのです。私には男が、もう一人の私であるように感じてなりません。義母が言っていたような半身、というのとは意味合いが違います。一心同体。完全なる分身なのです。私にはこの男だけ。この男さえいればいいのです。そうすれば、私は生きる糧を得られるのです。
「私はねこなのだそうだ。義母の手を噛む、無礼なねこなのだと。」
自分でも驚くほど軽快に言葉が滑り落ちました。男の形のいい眉がすっと寄せられます。ひくりと目の下側が痙攣し、険しい顔になりました。形相こそ怖いものを感じますが、これがこの男の考え事をする時の癖なのでした。そのようにしてしばらく黙ったまま一通りの思案をめぐらした男は、また元の涼やかな目に戻りました。
「……そうか、ねこか。それはペルシャか。」
私には男の言っている意味が解りません。ですからペルシャ、とだけ言葉を返しました。
「太宰治の『葉』という話の中にそんなような文があった。君の家の者は読書家だな。」
言われて書斎を思い浮かべました。家じゅうの本は全てそこに置かれています。私が置いている本のほかに、母が実家から持ってきた本や父が趣味で読む本がうず高く積まれているのです。確かにその中に太宰治はありました。ただ私には『葉』という話がどんなものなのか読んだことがないので、皆目見当もつきませんでした。
それから私は先ほどまであったことを男に包み隠さず、全て話しました。黙って聞いていた男でしたが、事の次第までを聞き、ここに住まわせてくれと頼むと、そんな事だろうと思った、と言いました。私が出て行ったとき、すでに男は私がここへ住めるようにと部屋を用意しておいてくれたのです。かくして私は男の家に厄介になることになりました。
私に宛がわれたのは男の部屋の向かいにある六畳一間でした。畳の床と、左手の壁際に置かれた文机、重みのある柔らかな布団など、そこにある全てを私の好きに使っていいと言われました。男が私のために、わざわざ和室を空けてくれたのだそうです。後に女中の方からそう教えてもらった時は、それはもう、天にも昇る気持ちでした。
この男は非常に人の中に踏み込んでくるのが上手い男です。私の、隙のあるように見えて隙のない、貝の口のように固く閉ざした心にもいつの間にか酸素のように侵入し、溶け込んでいるのでした。不思議な男。私は今まで生きてきた中で、このように流動的な心の持ち主に出会ったことがありませんでした。未知は恐怖であり、恐怖は興味であります。私は男に興味を持ったのです。捉え難く普遍的で奇怪なこの男に。この男の他に、誰が好き好んで私のように面倒な男の傍に寄り添ってくれるのですか。この男を除いては「私」のように私に近しいものなど存在しません。この男だけが、特別なのです。
興味が関心へとすり替わるのは時間の問題でした。もっと知りたい。傍に居たい。そうして私はもっともっと、と欲深くなっていくのです。欲望が愛になるのに、何の不自然があるでしょうか。いえ、あります。男が男に恋をする。これを不自然と呼ばないで何を不自然と名付けるのか。最大の奇怪なのでした。
神はアダムが寂しくないように、とその肋骨を一本抜いて生み出したのはイヴという女でした。女。男の退屈を紛らわすために作られた、対のもの。神こそが解いています。男と共に苦楽を生きるのは「女」だと。そう、男を支えるのは男であってはいけないのです。あの薄汚くてみすぼらしい、女なのです。
ああ、私は神、貴方こそが真実だと信じておりますが、これに関して私は引くわけにはいかないのです。あの男への心境の変化は息をするように必然的なものであり、私から切り落とすことのできないものです。神への反逆、堕天。正義に生きるためには、私に根付く真実に問うしかないのでした。
夏は暑いもの、とは言いますが、今年は予想をはるかに上回る程の冷夏でした。昼間はほんのりと汗ばむくらい、また夜も似たようなものでした。
人は涼しさや寒さを感じるとほぼ無意識的に熱を求めてしまうのです。ですからクリスマスを目前にすると恋人が欲しいと思う人が増え、バレンタインデーにはチョコレートが貰えるかどうかを競うようにそわそわと待ってしまうのです。
今の私はそれに近い状況下におかれています。
私が男の家で厄介になるようになり、今まで以上に男と共に過ごす時間が増えました。ですから、みっともない話ではあるのですが、私は男のすぐ傍を歩き、出来るだけ隣に立つように努めて行動をするのです。私と男はもともと離れることを惜しむような、互いによき話し相手という間柄でありましたので、特に男に不快な感情を表されることもなく、これといった喧嘩もせずに、時には朝方までずっと話しているなんてこともありました。内容は様々で、学校でのことを話すこともあれば世間の事を話したりもします。ですが、一番多いのは文学の話でした。男は大変な読書家で、自分の書斎を持っているのです。そうしてそこに置いてある本や過去に読んだことのある本のどれにも愛情を持っていて、全ての内容を覚えているのでした。私も本は読みますが、これほどまでの執着は持ち合わせていないので、もっぱら男の語らいにじっくりと耳を澄ませていました。
そう沢山の話をする中でも、私と男が無意識のうちに避ける話がありました。恋愛の話です。男の方は何故だか知りませんが、私の方はというと、ろくな経験もありませんでしたし、誰に恋をしているのかと聞かれても言えるものではないので口に出しませんでした。
言えません。私の中では「真実」の区分がまだ上手くつかずにいましたし、口にすれば今あるこの関係の、すべてが終わってしまう気がするのです。拒絶されたら。敬遠されたら。傍に居られるこの幸せな状態を唾棄するなど、私には怖くてできないのでした。
ただ、迷いはありました。いっそ言ってしまった方が楽なのではないか、という私の内なる声があるのです。そしてきっと男の方も私を好きだという自惚れがありました。私と男は共にいることで精神の安定を図っているような部分があります。大学内では専攻の違う私たちですから、周囲が思っている以上に、ともに行動する場面というのはさして多くはないのです。だからこそ私以外の人間と居る時の男を見る機会がふんだんに用意されているのですが、そのとき、どの場景をとってみても、作り笑いを張り付けてゼンマイ仕掛けの人形のようにぎちぎちと動く彼しか見たことがありません。それが私の前に一度来ると、液体のような柔軟さを持ち、息をするように自然な笑顔を向けてくるのです。これで自惚れない人間など居るでしょうか。自惚れ。そう、この感情こそが迷いの根源です。精神の均等が取れた私は欲を見せ、男の愛を欲しているのです。愛。私の中ではプラトニックな恋愛も良いと感じてはいますが、どうしても肉体的なつながりも欲したいのです。
寒い夏というのは残酷だと、私は最近どうしても思ってしまいます。これから秋になり、冬になり、だんだんと欲深くなっていくのかと思うと、自分を恥じて戒めたくなるのですが、開き直りに近い感情も芽生えてくるのです。
迷い。私はこれが一番怖い。どれだけ気丈な人であっても懐疑を一つでも見出すとそれに捕らわれ、煩悶し、不安という牢獄の中へ押し込まれてしまうのです。
男の元に住まうことは、私にとって幸福でした。現に私は何の不自由も感じずに、借りた六畳の和室で私の世界を作り上げています。しかし、幸福とはいえ、私の中はがらんどうでした。義母と義父が、たとえ偽りだったとしても、彼らが与えてくれた「愛情」というものは確かな重みのある実態だったのだということに、今更になって気付いたのです。友人である男や、その母、女中たちが与えてくれるものとは違います。やはり、親という存在は特別なのでした。あんな親であっても、たとえ血の繋がりがなくとも、親と認識してきた以上、私の親に相違はないのです。
そこへ追い打ちをかけるように、私は焦りを産み落としたのでした。私は、人間としての何かが欠落しているのではないかと思ったのです。私の考えるものはそう、愛。私は愛を受けてはきたものの、今この時になるまではっきりとした愛というものを認識してきませんでした。ですから私は愛の成し方というものをあまり分からずにいて、誰かに愛を与えようとしても体現の仕方が分からないのでした。ですから、ええ、男へのこの感情の伝え方が不明瞭なのです。愛。ああ、無償の愛が欲しい。しかし愛を欲するには私がその相手に誠意を、そう、愛を示さなければならないのです。この世の矛盾。私の世界において愛は大いなる凶手として私に刃を向けてくるのです。
私はどう振る舞えばいいのでしょうか。男が優しさを与えてくれる度に息苦しくなります。私はその一欠片でさえ返すことができないのです。心ある優しさを、このぐずぐずと崩れ落ちてしまっている誠意では受け止めるのがやっとでした。しかもそれでさえ、指の隙間から砂が落ちるようにぼろぼろと零してしまうのです。
苦しい。私は苦しい。しかし義母の寂しさも、義父の心情も、全て投げ打ってきた私に何ができるというのですか。私は歪みの生じた不細工な人間なのです。ポンコツ、ええ、壊れているのです。柔らかな感情に関して蓮っ葉な言葉しか言えない私を、男の方はどう受け止めるのでしょうか。そもそも、手を伸べていてくれるのでしょうか。
男の部屋で、何をするでもなく、私は壁に向かって膝を抱え、鬱々と悩みました。男が前に諭してくれたというのに、物覚えの悪い、単細胞な私はすっかり忘れた様に、一人で考え込んでいるのです。居るだけで空気の淀む、分離して瓶の底にたまった澱のような私を、しかし男は黙ったまま、私の後ろに座るのでした。この日は本を読んでいるようで、からりとした、頁をめくる音だけが一定の速さで聞こえてきます。いっそ罵ってもらえればどれだけ楽だろう。そう期待して耳を澄ませても、安定した男の息遣いぐらいしか他には聞こえてこないのでした。
男は私を嫌ってはいないのでしょうか。こんなになったところで、私をまだ見捨てないで傍に置いてくれるというのでしょうか。崖淵に立たされている私は、男の行動をどう解釈していいのかが分かりません。怖い。苦しい。愛して欲しい。愛。愛。愛。私は義母や義父と居る時、どんな人間だったでしょうか。男と居る時の私はどんなだったでしょうか。やはり迷っているのはいけません。嫌なことばかり考える。余計なところまで思考が飛んでしまう。
私は奥歯同士をしっかりと噛みあわせました。そうして、何でもないようなふりをしながら、男に、私の胸中を吐露しました。
「なあ、その、……なんだ。私は複雑な心境であるのだ。父母と慕っていたのが義理の、なんの繋がりもないものであったし、父の暴力は、愛ではないという。信がすべて偽であったのだ。なんだかもう、私という個体の存在が失われたように思える。私の生きた意味さえ見失うのだ。どうしたら私は、私を、保っていられるだろうか。」
私の言葉に男は何も言わず、背に指を押し付けてきました。そうしてその、ほっそりとした品のよい指先を私の薄汚れた肌の上に滑らせ、肩甲骨の形をなぞるのです。確かそこにはまだ、義父に蹴られた痕が残っているはずでした。触れられたところが柔らかな熱を帯びていきます。そしてその熱が広がっていくほどに、私の体は浄化されていくような、そんな心持ちがしてくるのでした。
なあ、と私は男の、静かなのに耐え切れずに声をかけました。ただ、男は返事を返してくれません。その代わりとでもいうように、肩甲骨の、指の這った痣のうえに、布越しとはいえ、柔らかな唇を押し当てられました。
とたん、私の体は内側から湧き上がる熱に支配されるのでした。どこが火種となっているのか見当もつかないほどに頭頂から足先まで疼くような痛みが私を焼くのです。それは地獄の業火のようにしぶとく体を蝕んでいきます。頭の中は煮えたぎり、白い世界に引きずり込まれそうになりました。
「君が自我を持ちこたえられないというのなら、僕が君に愛を与えよう。そして歩く道標となろう。君は僕を愛せ。強く、僕との境がなくなるように。」
男はそう言いながら私の背へしな垂れてくるのでした。背骨にかかる男の息が、私の体を貫いていきます。そうして悪魔のように巧みに私を誘うのです。何がきっかけとなったのかは分かりません。ですが、私の望んでいたものであることは、すぐに分かりました。じわじわとした温いお湯のような悦楽。しかしこれ程までの欣幸を感じたことのない、哀れな私は、怯えたように委縮してしまうのでした。
「その愛は一方的になってしまう。」
喉が渇き、だらしのない皮膚が互いにべたりと張り付いてしまったために、うまく声が出てくれません。無理矢理に捻り出した声はとても心許なく、カサカサと音を立てていました。けれど男は私をさらに突き落とそうとしてきます。長い腕が私の前で交差されました。私の貧弱な、生白い身体は、男の腕の中に収まり、言い得のない思いに揺すぶられるのでした。人の腕の中というものは、どうしてこうも温かいのでしょうか。春の陽だまりのような、猫の腹毛に手を埋めたような、とろりとした熱が私の体を、そして心をも包み込んでゆくのです。しかし、義母の腕に抱かれたときとはまた違うのでした。丸みのない、確かな硬さのある胸に頬を押し当てると、言いえぬ想いがこみ上げてきます。なんと表現したらよいのでしょうか、同性だから感じえる心の解れがあるのでした。
「そんな事にはならない。僕も同じほど愛すから。」
それはまるで蛇のような言葉でした。アダムとイヴを楽園から追放した聡い蛇が、私を人間という園から追い立てていくのです。私は堕ちました。
ええ、堕ちて。そうして人間となった私は、この現世にようやく二本の脚で立ち上がるのです。愛という硝子細工を携えて。ああ、手を伸ばせば愛しい人がいる、そんな弾む心を私は初めて体感したのでした。ぼんやりとしていた世界が、眼鏡をかけるようにくっきりとするのです。物事がようやく見えるようになったとでも言うのでしょうか。赤子のように見えるものすべてが新しいのでした。皆が私を珍しげにするのが分かります。しかしそれは居心地の悪いものではなく、もっと晒されていたい、そう思わせるような私を高みに押し上げる視線でした。人間の中でも私は頂点に君臨しているのです。全知全能の神・ゼウスの養女として迎え入れられた愛の女神・アフロディーテはまさに今、私の足元に寄りかかり、アネモネの花咲く道を明るい金星へ向けて伸ばしているのです。愛こそがこの世の全て。神さえ采配の許されぬ領域。愛。それを手にした今の私はどんな人間よりも高貴であり、慶福なのでした。
ただどう足掻いても、私たちは人間なのです。繁殖と快楽。これを抜きにした愛を語ることは出来ないのです。私も、男も、上面だけでは善人でありますが、一度化けの皮が剥がれれば、あとは狂った獣と同類なのでした。
私を抱いていた、男の大きな手が一つ離れ、頬をなぞり、そうして顎を上向かせました。男は何も言いません。ただ私を黙って見つめてくるのです。その欲に濡れた瞳に私の体はふるりと震え、瞼が真摯さに耐えかねて閉ざされました。
唇にとろりとした熱が這わされ、男の体が私の上におりてきました。体重がゆっくりとかけられて、男の手が私を蝕んでいくのを感じ、私の心は喜びにうち震えました。唇が血管のように体の隅々にまで巡らされ、体温の低い手が、私を作り替えていきます。
其の侭の私を愛せ。いや、君の好きにしろ。ああ、私を愛せ。私を焼いてくれ!
眼の奥が熱くなり、悲しくもないのに涙が頬を伝い落ちていきます。滲む視界の中でも男は美しいのでした。彫刻のように無駄のない端麗な躰。陽に晒されることのない肌が暗い中でも窓から差し込む月明かりを受けて柔らかな光彩を放っています。どこか怯えのある瞳を獰猛な食慾で隠し、紅いゼリーの様なてらてらとした舌で自らの、弧を描いた薄い唇を湿らせる仕草は、この世の敗者のようにちっぽけでありながら尊大なのでした。
体を開かれ、狭い器官を無理に押し広げる感覚はとても形容しがたいもので、正直言えば気が飛び消えてしまいそうなほどの痛みが私を襲うのです。臓器がせり上がり、吐き気さえ感じます。けれどこの痛みを与えているのが愛しい男だと思うと、裡を焦がす熱も、猛々しい脈動も、愛おしく感じるのでした。男の乾いた手が、私の投げ出した手に重ねられました。別の個体であるその手は、しかし私の手に寸分の隙間なく沿い、体温を統括して、一つの個体へと作り変えていきます。荒々しく腰を穿ち、息を荒げ、餓えた獣になる男を、私は恍惚と見つめました。
彼には私しか見えていません。そして私もまた彼しか見えていないのです。
傍にいてくれ。愛してくれ。
女子供でも言わないような、だらしのない、惨めな言葉が口をついて滑り落ちていきました。意識の外で、私は何度もねだるのです。
壊してくれ。殺してくれ。
皮が、骨が、私の体を作る全てが、愛しい男の前には、ただのゴミと化すのでした。
絶え間なく迫りくる波。倒懸、享楽、愛玩、狂喜……――。声にならない声が喉から滑り落ち、小さな部屋に掠れて、置き去りにされていきます。どちらともつかない息の音。熱。どろどろと渦巻いていた慾をぶちまければ、世界は白に染められるのでした。
愛を受け止めた体は私のものではないようでした。指先まで痺れ、いくら動かそうとしてみても僅かにも動いてはくれません。畳の上、痣の残るみすぼらしい身体を隠すこともできずに転がっているだけです。男はそんな私のために布団を並べて敷いてくれました。言葉を一つもかけてくれなくとも、行動だけで暖かな心がひしひしと伝わってきます。お湯で濡らしたタオルで体を拭われ、寝間着を着せてもらい、手まで借りて布団に寝かせてもらいました。
一人寝するのも好きですが、こうして好きな男と枕を並べて寝るのはまた格別な心持ちがします。こう、綿に包まれているというのでしょうか。滑らかな空気が満ちています。私は仰向けの頭だけを動かして隣を見ました。闇の中で天井を見据えている男の横顔は精悍で、普段の彼よりも人間味に溢れていました。そうして瞳は爛々と輝かせ、遠く、何かをそこに見出しているのでした。
「僕たちの愛というものは、プロレタリアアトのようなものだな。」
男がようやく言葉を発しました。普段よりもその声は艶めいて私の耳に入ります。私はぐたりと四肢を投げだしたまま男の言葉を反芻しました。プロレタリアアト。確かに私たちに似合いだと思います。愛というブルジョアに従えられた私たちがプロレタリア。子をなすという利益も何もないのに、肉欲のままに働く、愚かな蟲けら。この男のことが私も時々分からなくなります。綺麗なものが好きな穢れ物。いえ、皆そういうものです。人間は誰しも汚い。そうして下等です。だから縋るものを欲して、そのために誰かを蹴落とすことさえ厭わない。私たちは皆、風の前の塵に同じなのです。
「いつまでも、君を愛そう。」
男の目が此方を向いた気がしました。暗がりでしたのでそれが真実かは分かりません。ですがもし、男が此方を向いていたとしたら、私はむしろ、愛というものよりも男の方に囚われている気がしてなりません。私は頭を戻すと男と同じように上を向きました。遠くに見える天井の木目が美しく、いつか本で見た天の川のようでした。そういえばこの日というものは、あと七日ほども経てば七夕に差しかかるくらいの日でした。その日に雨が降ると織姫と彦星は会えなくなってしまうのだそうです。私は彼女らが幸せになるといいと思いながら、眠ることにしました。
幸せというものは結局のところ泡沫なのだと、失ってから気づくなど、人間というものは何と浅はかなのかと思います。私は幸せを手放したことはあるのです。だのになぜまた同じ過ちを繰り返しているのでしょうか。ああ、また「私」が戻ってきます。暗く、失意の中でしか生きられない、惨めで、哀れな私。男と居た毎日が幸せだったのがいけないのです。一度その寛大な愛に触れてしまってから、手放すことは難題に等しいのでした。
しかし、人間社会におけるヒエラルキーの上層部を占める、固く、そして古い考え方をする面白味のない人間たちが統べるおかげで、私はこの世の矛盾の上に立つことを余儀なくされるのです。自らに素直に生きようとすると罪だと咎められ、ただその罪深きを知って身を引くと、生きることができなくなるのです。
どうして私を幸せなまま生かしてはくれないのでしょうか。私が何をしたというのです。何もしていない。したことと言えば人を愛したことだけだ。愛の何が悪い。この世には善と悪の二種類があり、どちらかを選べと言われたならば、誰だって善を、すなわち愛を選ぶはずです。それなのになぜ、苦悩を強いられるのですか。ああ。ああ。辛い。誰か一人でもいい。認めてくれ。私が幸せであってもいいと、誰か。
報われない純粋な心のために、私は荒んでいきました。純粋な心。そういえば聞こえはいいかもしれませんが、暴いてみれば私を蔑むものと同じなのかもしれません。そのものも純粋な心から私と男の間柄を認めないとしているのなら? この世の嫌いなところは相容れない状況の二面性。いえ、多角に広がっていくだけなのかもしれません。どう立ち振る舞っても円にはならない、殺伐の世界。私は、どんどん醜くなっていきます。
「飲むか。」
夜も静かになり始めたある夜、くさくさとしていた私に男が酒を勧めてくれました。私は二つ返事で断りました。酒は嫌いです。私の中に義父が根強く生息する限り、あの恐怖の日々を消し去ることはできません。たとえ血の繋がってないにしろ、私はあの義父の元で育ってきています。影響を受けていないはずがありません。私は人間で居たいのです。気違水になど、この体を明け渡したくはありません。しかし男は私が断っているにも拘らずに私の分のコップにも透明な液体を注ぎいれてしまいました。とくとく、と液体がガラスにぶつかりたてる音。芳しい麦の香り。鼻の奥に鈍痛を与えるアルコール。そうして光を反射して七色に煌めくビロウドのような水面。艶めかしいその様子に私の喉が鳴りました。目を上げてみれば男が蠱惑的に笑みを投げかけてきます。見ているだけで性欲を掻き立てる妖気に私は思わず酒を煽ったのでした。
体内に落ちるとともに体がかっとした熱を帯びました。酒を嗜んだことのない私にとって、初めてのこの酒は目の前がチカチカするほどに刺激的でした。頭の、特に脳味噌が強く締め上げられ、私のなけなしである思考能力が根こそぎと言っても良いほどに飛び退ってしまいました。
「男が男を好きになるのはどうして許されないのだ。皆は汚らわしいと口を揃えて言うが、ならば、女を抱くことは汚らわしくはないのか。禁断の園で神の言いつけを破り、アダムを誑かしたイヴの方が、その罰として、身重の際に、死と表裏一体の痛みを授かった彼女の血を根底に持つ、女という生き物の方が、美しいというのか。私は女というものが憎い。甘ったるい白粉の匂いも、胸や尻、さらには腹にまででっぷりと乗っかった脂肪の塊も、愛されることが当たり前というように媚びた仕草も、値踏みするような視線も、鼻にかかる声も、寂しさというものに託けて男を騙すためにつく嘘も、存在というもの全てが私を嫌悪させる。女なんぞの何処が良いのだ。」
強烈な冷気と特有の味が私の中に膜を張るように、濃密に滴っていきます。胃のあたりがアルコールに反応して熱を上げ、それは男に欲情した時のように、狂おしく私を締め上げていくのでした。自分でも自己が倒壊しているのが分かりました。けれど脂ののった、回りの良い舌を、止めることは出来ないのでした。内なる私。今まで保ってきた私が崩れ去っただけで、この変梃な思考回路の持ち主も私なのです。唇が、歪んだ笑みを勝手に作るのを感じます。嫌だ。私はまだ私自身を貶めてはいけないのです。男の手が欲しくなりました。義父のように冷たい手で、私を踏みとどまらせてほしいのです。
男は私の考えでも察したのか、指先で私の髪をかき混ぜていきました。穏やかな笑みを湛えられて、赦されたことを知りました。
「……君の考え方は分からないでもない。だが、女というものはそこまで憎むべきものではないと思うのだ。女というものは生来、淋しがりな、孤独な生き物なのだ。それゆえに少しばかり独りよがりで、穿った見解を持ちかけるが、ただそれだけの事なのだ。」
私はふうん、とだけ返しました。あまりにも面白くなかったのです。想像している以上に私は男の言葉にショックを受けていました。男が女に対してあのようにプラスな考えを持っていることも、私の考えを、気持ちを蔑ろにしたことも。ですが、私の義母のことを言い当てたのは他でもない、彼なのでした。となると彼の言い分を聞き分けない訳にはいかないのです。信じてやる……いえ、信じさせてもらうしかありません。ああ、そうなると男のことが狂おしいほど愛おしく思えてきました。欲情にも似た熱い思い。愛したい。愛されたい。私の思いの丈と同じほど、男に想われて生きていきたい。私は引き返せないところまで来てしまっているようです。私はもう、男なしでは生きられないのです。
「なあ。」
あれは酔っていたのです。平生の私ならあんなことをする訳がありません。
私は這いずるようにして男の傍に寄りました。何を付けているわけでもないのですが、男の体からは甘い花のような香りが立ち上ります。藤の花のように淡く、それでいて金木犀のようにまとわりついてくる香りでした。
「どうかしたのか。」
男の手が降りてきて、私の頬に触れてきました。窘めるわけでもない、親が子をあやすような緩やかな手つきでした。この手はどうして私の一部ではないのか。別々の個体であることが時々恨めしくなります。
「ああ、どうかしてしまった。どうかしてしまったのだ。」
私は男に凭れかかり、そうして柄にもなく彼に縋るように腕をまわしました。町中で女が自分の恋人の腕に纏わって歩くのを嫌悪の目で見ていましたが、今なら女たちの考えが分かるような気がしました。
目の前の、この男しか見えないのです。背景に見えるものは、全て空気と化すのです。生きることに愛が必要だというのは、このことなのだと思いました。愛は酸素であり、命であり、何もかもを投げうってでも手に入れたい、金なんかよりも何倍もの価値を持つものなのです。
「君はいい子だな。」
私はもう、荒んだ私など戻りたくありません。いくら遮られようとも構いません。私は私の信念に沿って、愛に従えられたまま生きるのです。私はようやく人間になりました。愛を知った、心を持つ人間です。抜け殻の死体ではありません。偽りの心、操りの糸を付けられた人形ではないのです。私は誓います。この温もりに、朽ちることのない永遠を。
窓の外を吹く風に、憂いが含まれ始めました。梢は寂しそうにカサカサと音を立て、肌に触れる外気をいっそう寒々しいものにしていきます。
父が帰ってくる、と男に告げられたのは、その帰宅するという日の朝でした。この家に居続けられているのは彼の父が世界中を飛び回って稼いできてくれるおかげですので、慌てて洋装に着替えました。男は畏まらなくてもいい、というのですがそんな言葉を真に受けるほど私も愚かではありません。スーツとまではいきませんが、いつもここに遊びに来るのと同様、私を利口そうに見せてくれる服を着ました。
午前十時。玄関に一糸乱れぬ容貌の女中たちが戸の両脇に並びました。現実離れをしたとはこのことでしょうか。何か他の次元を見るように、玄関の正面、ポーチと呼ばれる部分にゆったりと立つ男の隣で、私は黙って皆の様子を窺っていました。私と、男の他には使用人全てを統括している涼やかな目元の老執事、皺をうまく隠していつまでも少女のような可憐さを見せる男の母が並んで立っています。私は居心地が悪くて仕方がないのですが、女中たち、またはこの家の主たちの後ろに並ぶ庭師やコックなどと共に立つのもばつが悪いため、ここに居るしかないのでした。
ドアが開かれると、皆が首を垂れるので、私も慌ててそれに倣うのでした。されど好奇心というものは非常に厄介なもので、男と血の繋がっている父というものが、どれほどの者なのか気にかかり、私は斜に顔を上げて光を背に立つ男を見てしまいました。初めは眩しさに顔の判別は出来ないものの、歩みを進めるにつれて輪郭が露わになっていきます。そうしてはっきりと顔の造形が見て取れた時、私は面を完全に上げ、繁々と見つめました。
「あれは、お前の血のつながった父なのか。」
小さく男の袖を引き、細やかな声で問いました。すると男は躊躇いなく頷くのです。私は膝が震えてくるのを感じました。
「なぜ、あれは君の父なのだ。あれは……あの人は、私の父だ。」
私は人の底を見た心持がしました。泥の地に私の脚が少しずつ埋まっていきます。太陽は閉ざされ、暗雲が垂れこみ、闇から伸ばされたサタンの手が、私の羽根をもぎ取ろうと力をかけているのです。
嘘だと信じたい。これが嘘だというのならば、考えた人間はなんて利口で高慢なのかと思います。ですが、この男の顔を見て分かります。これは紛れもない真実だと! 目元、口元、鼻筋……。私の愛しい男とそれはもう、大変似ているのは確かですが、一つ一つのパーツは、しかと私とも合致するのです。ああ、それにこの男の、端々に見える細かな皺は、幸せのそのものを溶かし込んでいるとはいえ、蒼白な顔面の、その奥底に沈む道化師のような感情たちは、私が抱え込んできたものと相違ありません。
人の上に立つその男は、慣れた様子で私を指先ひとつで呼び寄せました。氷のように鋭く、冷えた目に、一切の逆らうことを封じ込められました。真一文字に閉じられた唇の、色味のなさが、男をさらに冷淡にさせるのでした。私は、私の半身とも取れる男の影から身を躍らせました。対峙すると、男がいかに背の高いかを感じました。年の割に均整のとれた体躯。鞭のように強靭な手足が今に飛んでくるのではないかと、私は恐怖を感じました。黙ったまま背を向けられ、それがついてこい、という仕草なのだと気付くまでに、僅かな時間を要しました。早足で男の後を歩きましたが、何ら生きた心地がしてきません。見えない糸がぎりぎりと、私の体を締め上げているような錯覚さえ覚えます。この男がもし、まぎれもない私の父だとしたら。私は自らの身の振り方がまったく見当もつきません。
回廊を過ぎた奥の部屋。そこが男の部屋のようでした。促されるままに足を踏み入れると他より一層の寒々しい空気が垂れこめていました。換気のためか、部屋の中でも一番大きな窓が開け放たれています。ですが、寒さを感じるのはそれだけが理由でないことに、私は気づいていました。
黒い革張りの椅子に悠々と座る男の、机を挟んで正面に立ちました。頬に落とされた睫毛の影が、私のようで、なんだか哀しみさえ浮かんできます。
「貴方は……私の父ですか。」
声が私のものではないように聞こえました。私の体を操る、機械のように不安定なのです。声は唯一自分で確認できないものだと言います。とすると私の耳に聞こえたこの声と男の耳に入る声と、どちらが悲愴でしょうか。男は侮慢な瞳を私に向け、外見には似合わない、嗄れた声を絞るようにして出しました。
「私には息子は二人いる。」
男は一人っ子です。そうなると私の質問に首を縦に振ったことになるのでしょうか。すると、やはり、私の中にこの男の血が流れているのです。またそれと同時に、私の男の中にも同じ血が流れているのです。
信じたくない真実に、身体が拒絶の反応を示していました。それと同じように目の前の男も直面したくない光景に震えあがっているのが見えます。こんな変なところで親子だと認識させなくてもよいでしょうに。自嘲を含んだ笑みさえ、零れ落ちてしまいそうでした。苦しみが楽しそうに声を上げています。私を引きずり込めるのがそんなに楽しいのなら、その楽しさの半分を私に分けて欲しいものです。辛い。私は幸せになれると思っていたのに、シャボン玉のようにあっけなく、壊れてしまうのですね。
「私は貴方にとって要らないものですか。」
自分でもなぜそんなことを聞いたのか分かりませんが、どうしてかそんな言葉が口をついて出てきました。男の、老いた目尻がひくりと震えました。そんなところは私の愛した男と似ています。ああ、まるで鏡を見ているみたいだなぁ。ふと、そんな思いがよぎりました。
「お前の母にも、お前にも、悪いことをした。」
机に手をつき、頭をそこに擦り付けるかのように倒す、男の謝辞が、私にゆっくりと圧し掛かりました。そうして私は気づいてしまったのです。私は、謝られるのを望んでいたのではない、と。喉の奥が絞り上げられていく感覚に覚えのある私は頭を下げて慌ててその部屋を出ました。息を吐き出すと同時に声にならない感情が水となって私の中から溢れていきました。
ええ、私は謝罪の言葉など欲しくありませんでした。ただ一言でもいいから、私に会いたかったと言って欲しかったのです。それが高望みだというのなら、少しでも笑顔が見たかった。辛い思いをして生きてきた私に、最後の褒美が欲しかったのです。
私は生きる希望を完全に絶たれました。今までどこかで生きているものだと思っていた父が本当に生きていてくれて、歓喜していた私のこの心は、どこへ行けばよいのでしょう。これでは運悪く吊り上げられてしまった魚です。餌に噛みついたばかりに死を早めた愚かな魚です。父は私なんて欲しくなかった。私は初めから必要なかった。私に愛なんてものはなかったのです。
母はこの寂しさを耐え抜けなかったのでしょう。これでは妾というよりも遊ばれていただけの傀儡人形です。子をなしたと分かった途端、糸を斬られて放られた、哀れな人形。せめて子供だけは愛そう、と命を懸けて産み落としても、その子供、つまり私は年を追うごとに母を捨てた惨い男に似ていくのです。母はどんな心持ちで私を見ていたのでしょうか。毎日育つ我が子の中に見つける憎悪。苦悩。愛、愛。愛!
私の不幸はまさにここから始まっているのです。私は生まれながらに罪を背負って生まれてきてしまったのです。ああ、悪いのは女ではありません。たとえ騙そうと、捨てようと、彼女たちには心があった。善があり、愛があった。それなのに私というものはどうでしょうか。そんな女たちの気遣いの上に胡坐をかいて、生へのしぶとい執着を持ち、勝手に女へ見切りをつけて男を愛し、人間としての義務を放棄した。
悪いのはすべて私です。人間で居たい――いえ、人間になりたいと足掻いた結末です。あれもこれもと欲を張り、天から降ろしてもらった蜘蛛の糸さえ断ち切ったのです。私が悪い。生きていてはいけないものです。化け物、いいえ、名前すら着けることを拒否された下等な物体です。
私は愛されているとの自覚がなかったのです。だからあんなに恥知らずなことが出来たのです。愚かな私。誰よりも傲り高い私。愛されたかった。他の人間が感じているような愛が私は欲しかったのです。円満な夫婦のもと、一心に甘やかされる存在でありたかった。そうして大切な人に、一番大切なものだと、愛を受け、その受けた以上の愛を相手に注ぎ込んでやりたかった。私は人間になりたかったのです。ですから、ここに至るまでの長い年月を、人間の皮をかぶって生きてきた! 自分の中に矛盾が生まれようとも、私は私を欺き続けた!
今考えれば矛盾すら当然の事だったのです。中身と外身が違うものであるのですから、反発が起こらないはずかないのです。ああ、なぜ違和感を得たその時に、私は私を手放さなかったのでしょう。さもしい。意地汚い。滑稽だ!
私は全てのものに詫言をかけたい。ごめんなさい。ごめんなさい。生きていてごめんなさい。この世に生まれてきて、迷惑をかけて、人を愛して、愛されて、幸福に気付かずに嘆いて。ああ、そうです。私は嘆く資格すらないのではありませんか。申し訳なさを言葉にしている暇があるのなら、とっとと死ぬべきなのではないでしょうか。人間らしいことを私はしてはいけないのではないですか。私は塵です。屑です。どうしようもない石ころです。死のう。死にます。死なせてください。ええ、ええ。地獄の業火に焼かれます。二度と私の様な物が生まれてこないように、私は消えます。ごめんなさい。
男を手放すのはとても辛い。私の心体を同一視してくれた唯一の男。私のただ一人の理解者。愛した人。私などが愛してしまって申し訳ない。私の方を向かせてしまってすまなかった。あなたの愛は偉大だった。だからこそ無限に強請り、甘え、溺れた。
愛している。愛しているとも!
君は私の半身であり、私だった。ああ、愛している。この思いはいつまでも持っているだろう。でも君は私を愛してくれるな、いや、愛せ!
私は欄干をまたいで、縁に足を置きました。眼下には宝石箱とも称される夜の町が一望できます。風が私の背を撫でてゆきます。慰めるような優しさでした。同時に、誘うような力強さがあったと思います。私は風の導くままに足を踏み出しました。
こうして哀れな道化師は、舞台の幕を引いたのでした。