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千手の湖 Ep.2

チャイムの残響が消えると同時に、うねうね昇っていた煙も消える。彼女はカウンターに居座る灰皿に、煙草の先端を押しつける。


「どこに行くべきかも分かんないんでしょう。案内してあげようか?」


「受付はいいんですか?」


「どうせ、誰も来ないから。二課よね。こっちよ」彼女の歩みは、その気怠げな雰囲気からは想像できないほど、軽やかだった。背中もピンと伸びており、腰や尻も普通の女性より引き締まって見える。彼女は廊下の一番奥、板チョコみたいな木扉を、ノックもなしに開ける。  


「杉野課長、新人さんがお見えですよ」島型デスクの出島に、新聞紙が鎮座していた。開いたそれが二つに折れると、焼きおむすびの並に黒く、角張った顔面が現われた。眉はマジックで書いたみたいに太く、深い皺は年ではなく武勲を刻んでいるようだ。


新しい上司は、新聞紙を机板に投げる。いくつか文房具が押しのけられ、床に落ちる。俺は踵と踵をくっつけ、背筋を伸ばす。


「今日から、怪異対策二課に配属となりました如月蒼太巡査部長です。これから……」


「警視庁からの出向か」課長の視線に焼きごてを押しつけられる熱を感じ、体が動かなくなった。その熱量は、刑事のそれとは違う。視線だけで相手を殺せるような目。敵を殺し、殺される覚悟のある目。その異様な雰囲気から、自衛隊出身なのだと分かる。


「はい……。よろしくお願いします」ようやく捻り出した声は、自分でも情けないくらい震えている。


「お前の席は窓側の一番奥だ。自由に使え」岩を数珠つなぎにしたようにゴツゴツした指が、一台の机に伸びる。その天板には、菓子の空箱、消しゴムの欠片、そして花瓶が乗っていた。


「荷物があるのですが」


「適当にどかして使ってくれ」


「いいんですか」


「ああ、前任の忘れ物だ」俺はクッションが破けた椅子に腰掛けた。他人の物を捨てる気になれないので、ガラクタはとりあえず端にどけることにする。私物を引き出しに入れ終わると、俺は再び課長の席を訪れた。


「どうした」


「早速なのですが、私は何をすればよいのでしょう」


「暇なら、廊下の雑巾がけでもしてろ」課長は新聞から目を離すことすらしない。


「雑巾はどこにあります?」


「お前、現場経験は?」


「三年前まで、交番勤務でした」


「なら、分かるだろ。やる気があるのは結構だが、いざというとき動けないバテて貰っては困る。休める時は休んどけ」


「はぁ」怪異対策庁は日夜、闘いに明け暮れているものだと思っていたので拍子抜けした。だが、出向の身とはいえ警官の仕事が少ないことはいいことだ。


ダン、ダン、ダン、ダン。激しい音と振動が建物を揺らす。一定間隔で鳴るそれは、少しずつ大きくなっていく。緩んだ緊張の綱が、再び引き締まる。これが噂に聞くポルターガイストか。まるで執行を待つ死刑囚の気分だ。怪異を退治して回ってるせいで、各方面から恨まれているのだろうか。脚が脳の制御から外れて、生まれたての子鹿みたいに震え出す。そして、自重を支えきれなくなり、床に座り込む。バタン、と勢いよく扉が開く。俺の喉は高い悲鳴をあげる。  


「遅れて申し訳ありません」部屋に入ってきたのは幽霊ではなく、一人の女性だった。背は高くないが、肩は広く、袖から太い腕が覗いている。彼女は課長の机まで、一人行進する。そして不思議な 生物を見る目で俺を一瞥した後、靴を床に打ち付け、自衛隊式の敬礼を決める。


「本日付けで、怪異対策二課配属となりました黒川鈴奈一士です。よろしくお願いします」その様は凜々しく、なぜか敗北感を感じた。


「ああ」課長は生返事を返す。そして、新聞の上から目だけを覗かせる。


「そうだ、ちょうどいい。二人には班を組んでもらおう。警察で何と呼ぶかは知らんが」


「若手はベテランと組むものではないですか?」俺は定年退職した先輩刑事の顔を、頭に浮かべる。


「この部署は発足して間もない。全てが手探りだ。残念だが、お前を指導してくれる者はいない。流石に、いきなり放り出すような真似はせんがな」


「よろしくお願いします」彼女は俺に笑顔を向ける。そこからは一抹の不安すら感じ取れない。


「こちらこそ、お願いします」差し出された手を握って立ち上がる。思いのほか筋肉質で、人間ではなく、石を握っている感触だ。地べたに腰を下ろしたので、スーツが白くなっていた。埃を払うが、色が薄くなるだけで、元の黒には戻らない。おまけに変な匂いまで付いていることに気付く。これは、煙草の匂い? 


「課長!」


「うわぁ!」人を驚かせるのが、趣味なのだろうか。受付嬢はステルスゲームのように、俺の後ろをとっていた。寿命を縮められたことに文句を言いたかった。  


「山梨県知事より出動要請です」だが、その一言で彼女への不満は一消散する。


「分かった。お前達もついて来い。過去の資料を見せるより、実物を見る方が早い」課長は席を立つ。黒川もそれに続く。


「行かなくていいの?」


「あっ」受付嬢の言葉に正気に戻る。呆けている場合ではない。俺は慌てて二人を追いかけた。

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