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第54話 テニュアトラック

 マリさんはハンハーブル大学(ハン大)でテニュアトラック講師をしているらしい。

 テニュアトラック制度とは、まずは任期付きで教員として働き、十分な評価を得られれば任期の定めのない職(テニュア)に移行するという制度である。


 テニュアトラック期間は5年が多い。


 ちなみに、任期の定めのない職(テニュア)というのは、わが国では一般的に65歳の定年まで雇用される職を指す。


 テニュアトラック期間の最終年には審査があるため、テニュアを取得するにはそれを通過する必要がある。


 審査時の評価基準があいまいだと問題が起こりやすいため、数値で基準を設けることもある。例えば、5年間で競争的外部資金を合計1千万リブラ以上獲得するとか、筆頭著者(ファーストオーサー)責任著者コレスポンディングオーサーとして論文を5本以上発表するとかである。


 講義などの教育活動や学内の各種委員といった運営業務ももちろんするし、それも評価対象である。


 かなりハードルは高く、テニュアトラックの後、テニュアに移れない事例も多い。

 その場合はもちろん契約更新はないため、ほかの仕事(ポスト)を探さないといけない。


 海外では、テニュア審査に落ちた教員が審査した先生方を惨殺するといった悲惨な事件も発生している。


 そんな状態だから、きっと毎日忙しいだろうし相当なプレッシャーがあることだろう。


 ---


 シラテア先生はマリさんに速達で私が訪問する旨、連絡してくれた。


 私はマリさんと再会できる期待と、少しばかかりの不安の両方を抱きながらハンハーブルに向かった。


 ハンハーブル大学(ハン大)は国の西部にある宮廷大学の一つである。

 大学には白い巨大な塔があり、それが象徴(シンボル)となっている。ハン大は研究業界で当然ながら有名であるが、特にマリさんの所属する基礎魔工学部は単位取得の難しさでも有名である。留年率は20%もあるという。


 ちなみに近くにはキョーミャーコ大学(キョー大)がある。そちらでは学生は学生らしさを自由に表現しているが、ここハン大では講義で出される課題の多さからそのような余裕はあまりないようだ。


 ---


 トオヴェルロから乗合自動車(バス)で移動すると、既に日はだいぶ傾いた時間になってしまった。

 急いで校内を移動し、マリさんの研究室へと向かう。

 講師だけあって、個室があるようだ。


 マリさんの研究室の前に来ると、『マリ・アルキュミア』と刻印された魔石が目に入った。

 青く光った魔石を見ると、自然と鼓動が早くなる。


 深呼吸を一つして、ドアをノックする。


 ……トントン


 ん?


 反応がない。


「すみません! カイ・ウェントスです。先生、いらっしゃいますか?」

 しょうがないので大声で呼びかけてみる。


 すると部屋の中でドタドタと音がして、ドアが急に開いた。


「ゴメン! お久しぶり、カイくん!」


 ドアを開けてくれたマリさんは――なんと眼鏡をかけている!


「ゴフッ……!!」


 心臓が急停止し、内臓が口から飛び出した――ような気がした。

 実際は咳のような不思議な音を出しただけであったが。


 笑顔のマリさんに眼鏡だと?


 それは反則だ。

 反則過ぎる。

 眼鏡女子耐性が付いたはずなのに――――、一瞬でそれは突破され、致命傷を負った。


「だ、大丈夫? まあ入って入って!」


 そういうとマリさんは私を部屋の中へとエスコートしてくれた。


 ダメだ、落ち着け。落ち着け。落ち着け。落ち着け。


 チラッとマリさんを見ると、机の上に眼鏡を置くのが見えた。


 えっ!?

 眼鏡とっちゃうの?


 い、いや、そうしてもらわないと落ち着けないのは確かだけど……。


「わざわざ来てくれてありがねー。遠かったでしょ?」


「い、いえ、それほどでも」


「それにしても、またカイくんと一緒に研究できるってうれしいな。魔力吸収材、なんとか実用化まで持っていこうね!」


 そ、そうだ。今日は魔力吸収材の話できたんだ。


「そ、そうですね。で、でも正直わからないことばかりです。その魔力吸収材というものがまだよくわかりません。もちろん魔物濃縮という原理で魔物が強くなっている話もよくわかりません。あ、それにマリさんがなんで私の状況を知っていたのかも……」


「そうよね。じゃあ、何から話そっか?」


「な、何からでも――」


「よし、せっかく研究室にいるんだもん。まずは魔力吸収材からにしよっか?」


「は、はい。魔力吸収材について論文検索したんですが、1件もそれらしい文献はありませんでした。名前から想像すると魔畜器(まちくき)のようなものかと思ったのですが」


「おおー、さっそく論文検索したんだ。ちゃんとしてるね。エライッ! ――あ、ゴメン。もう博士なんだよね。それぐらい当然だよね。失礼しました」


「い、いえ、ぜんぜんです。昔と同じでお願いします!」

 マリさんの中では私は修士2年(M2)で時間が止まっているのだろう。実際、そんなに私は成長してない気がするから違和感はない。『エライ』と言われて素直にうれしい。


「わかりました。ええっと、魔力吸収材のことはね、まだ魔石学会で口頭発表しただけだから、論文にはなってないの。論文としては査読中なのよね」


 マリさんは続けた。


「でね、魔畜器(まちくき)とは違うの。魔力学の第2法則は知ってるよね?」


「もちろんです。だからこそ、疑問なんです」


 マリさんは笑顔を深めた。

「第2法則には『孤立系においては』って注釈が付くんだよ。私たちの住む世界は孤立系じゃないよね?」


「どういうことですか?」

 疑問が頭の中をぐるぐる回るが、マリさんの問いかけ口調が心地良い。大学院生時代と同じだ。


「つまり、太陽がある。太陽の光は魔力じゃないけど、常に系外から光はきているよね。あれを使えば余計な魔力を使わずに大気中の魔力を魔材に吸収できると考えたわけ。で、実際にできたってことね」


「な、なるほど!」

 具体的な原理はわからないが、確かにそれなら成り立ちそうだ。


「でも性能はまだまだ。大気中の魔力濃度よりほんの少し高い濃度の魔材が作れる、といった程度。これだと魔材が大量に必要だから、実用化には程遠い状態。もっと魔材中の魔力密度を高められる仕組み考えないといけないの」


 そういうと、マリさんは硬貨(コイン)サイズの魔材を見せてくれた。


「これがその魔材()。今日はもう日が弱いから、もう実験できないね。明日も来れるの?」


「はい、明日の午後にこちらを発とうと思っていますので、午前中は空いています」


「よし、じゃあ明日天気が良かったら実際に見せてあげるね。ちっちゃいけどすごいんだから。感動するよ!」


「ありがとうございます。それは楽しみです!」


「じゃあさ、そろそろ研究室での話はこれぐらいにして、どこか夕ご飯でも一緒に行かない? まだまだ話したいことが一杯あるよね?」


「も、もちろんです!」


 マリさんは白衣をさっと脱ぎ、鞄に詰めた。

 相変わらずシンプルな生活をしているようで、準備は一瞬で終わった。


 私たちは繁華街にある居酒屋(パブ)に向かった。



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