第52話 社会人博士
ランスと再会するのは修士課程の修了式以来。
最近はつらい出来事ばかりであったが、今日は自然と笑顔になってしまう。
近くの居酒屋に入り、麦酒を注文。
「今日は来てくれてありがとう!」
「ああ、また会えてうれしいぜ!」
麦酒がこぼれるほど激しくグラスをぶつけて、乾杯。
すると、ランスはいきなり衝撃の発言をした。
「俺、博士課程に入ろうと思ってよ。アダマース先生とも相談済みだ」
「えっ? そんな……中央研究所を辞めて博士課程に行くなんてもったいなすぎるぞ!」
なんでわざわざこんな世界に来るんだ?
「いやいや、誰が辞めるっていった? こんな良いところ、辞めるわけないだろうが」
「そ、そうか」
「上司にも相談して、一応内諾はもらっている」
「じゃあ、工房からお金を出してもらっていくのか?」
工房から安定的な給料をもらいながら、さらに学費をもらっての社会人の博士課程学生。もしそうなら、うらやましすぎる。
「いや、完全に自腹だ。なあ、カイ、工房労働者には有給休暇ってのがあるの、知ってるか?」
「当たり前だ」
特任助教にもそれぐらいはある。使ったことはないけれど――いや、そういえば教員は一律『8月12日から16日は有給休暇』との御触れが出ていた気がする。『働き方改革法』に対応するため、強制的に5日間の有給休暇を取ったことにしていた。研究室にいる教員もいたし、『なぜ出張申請が認められないんだ!』といってキレてる教員もいたような……
「有給休暇は一年で20日あるんだ。もし使わなければ翌年に繰り越される。つまり、2年目は40日になるんだ」
「えっ!? な、なんだその制度?」
単年度契約の労働者にはない仕組みだ。
ランスは勝ち誇った笑みを浮かべている。
「もし1日有給を使うと、昨年分の有給から使ったことにしてくれる。つまり、2年目に20日有給を使っても、3年目にはまた有給が40日になる。繰り越しできるのは最大20日だがな」
「だ、だからってそれが何で博士課程に関係があるんだ?」
「いいか、落ち着いて聞け。博士後期課程は事実上ゼミだけ出席して論文を書けば修了できる。つまりゼミの出席が最低限だ。そのゼミは3年間で何回だ?」
「えっと、前期が14回、後期も14回で年間28回。それが3年間で……84回だな」
「そう。それに対し、有給が3年間で80日もあるんだ。ほぼ有給だけで通えるんだぜ!」
「で、でもそれだと足りないよな?」
「いいじゃねえか、ちょっとぐらい“無給休暇”でも。ちゃんと職場に迷惑かけないよう調整しておけば、日割りで給料が減るだけで休暇は取れるんだぜ。それに、夏季休暇といった別の休暇もあるんだ。これは7月中旬から9月下旬の中で、3日間を好きな日に分割して使うこともできる。これは3年間で9日。意外と休みってあるもんなんだぜ」
「よ、よく職場の許可が出たな」
「ああ、実は俺の部門が数年後に身売りされることになったんだ」
「確か、ランスの部門の名前はフタツ魔材だったっけ?」
「ああ。フタツ魔材は“マジック・マテリアル”を看板に掲げる高機能魔材の専門工房だ。しかし、多業種複合企業なのに相乗効果がないという評価らしい。ウチは研究開発力がウリだが、身売りとなると将来どうなるかわからない。外資系に売られるから、研究部門は縮小されるといった噂もある。だから、今のうちにやりたいことをやらせよう、という上司なりの配慮だな」
「それは良い上司に恵まれたな。でも、ゼミに出るだけでは博士論文を書けないぞ。筆頭著者での投稿論文2本も必要だし。ゼミは午後全部使うから、午前中にちょっと実験しただけで成果を出すのは厳しいんじゃないのか?」
「そうだな。確かに実験する時間は限られる。だから博士課程では『魔法による魔材修復原理の解明』といった理論系の研究をするつもりだ。それなら平日の夜や週末にコツコツやれば進められるさ」
「な、なるほど。でもそこまでして博士号が欲しいのか?」
「博士号なんて『足の裏の米粒』と言われているのは知っている」
足の裏の米粒――気になるから取るが、取ったところで食えない……
ランスは続けた。
「でも外資系では博士号が高く評価されるんだぜ。それにいつ研究所から放り出されるかわからない。だからこそ、博士号を取っておこうと思うんだ。転職するときに博士号があると有利だしな」
そして、
「あと、火曜の夜行乗合魔動車でセンカディンに行き、水曜の夜行乗合魔動車でトオヴェルロに戻るという生活になる。体力のある今しかできない、というのもある」
と付け加えた。
冷静に考えると、相当大変だ。
でもそれに挑戦するランスは尊敬に値する。
「そこまで計画を練っているんなら、俺にできるのは応援することぐらいだな。がんばれよ」
「ありがとう。といったわけで、今日はアカデミック業界の最近の実態を聞きたくてきたんだ。カイはトオ大の特任助教なんだよな? トオ大の様子とか、教えてくれよ、センセイ!」
「あ、ああ……」
そうだよな。ランスはまだ私の現状を知らない。
急に現実に戻ってきた気分だ。
「なんだ、教授とうまくいってないのか?」
さすがランス。平静を装ったつもりだが、簡単に見破られた。
「いや、そういう訳じゃないんだ。プロケラ先生は良い人だ」
「プ、プロケラ先生っ!? も、もしかして、この人?」
そう言うと、ランスは鞄から新聞を取り出し、研究不正を報じる記事を見せてくれた。
「こ、ここに『プロケラ教授が捏造・改ざんによりトオ大より懲戒処分。プロケラ教授は責任を取って退職』と書いてあるが、そ、そこにお前がいるのか?」
「た、退職? プロケラ先生が退職?」
「ああ、そう書いてある」
「そ、そうか……」
「お、お前は大丈夫なのか?」
「大丈夫と言えば大丈夫だし、大丈夫じゃないと言えば大丈夫じゃない」
「く、詳しく教えてくれ」
そう言われ、私は今までの経緯をランスに話した。
---
「そうか、それは大変だったな。まあ、今日は好きなだけ泣け」
……え? いつの間にか俺、泣いてた?
「でもまあ、ちゃんと全国紙で記事になったのは良かったな」
ど、どういうこと?
「これまで疑心暗鬼で採用をためらっていたかもしれないが、これで晴れて無実が証明されたわけだ。これからならちゃんと実力勝負で公募戦線に復帰できるだろうさ」
「そ、そうかな? でもこの程度の業績でいけるかな?」
「いけるさ。国際魔材学会誌の論文を筆頭著者で持ってるんだ。それに、ほぼ1年に1本、筆頭著者でIF付きの論文を出しているんだ。確かに上を見たらキリがないが、下を見てもキリがないんだぜ。自信をもて」
「そろそろこの業界から足を洗おうと思っていたんだが……」
「いや、俺から見たらお前はまだまだ戦える。もちろん民間に行きたいのなら引き留めはしないし、それも悪い選択じゃないと思う。でも、もしまだ未練があるなら、もっともっと足掻けよ。例えば海外のポストとかどうだ? そのカライセンの先生とやらに、ポストがないか手紙を送ってみろよ」
「え? そんなことしたら自己顕示欲の強い人だってドン引きされないかな?」
「いや、海外ではそれぐらい普通だ。公募情報を待つだけでなく、もっと積極的に自分を売り込めよ」
「でも俺、国際語下手だからちゃんとした手紙書けるかな……?」
「いいじゃねえか、下手な国際語でも。熱い気持ちが伝わったらそれでいいんだ。専門性のアピールは論文リストがしてくれる。どうせその先生はお前が国際語下手ってのはよく知ってるんだろ?」
「……まあ確かに」
それにしても、アカデミック業界のことを聞きたいと言ってたが、ランスは詳しいじゃないか。かなり調べてるんだな。
「幸いにも俺らの分野は潰しがきく。研究職にこだわらず、開発職でよかったらいくらでも求人はある。いったん民間工房に行って、そこから再挑戦してもいいんだし。まだまだこれからだ。安心して挑戦しようぜ!」
「そうだな……ありがとう! もう少し足掻いてみるか!」
そういえば、こんなタメ口で会話をするのは久しぶりだ。
先生方には敬語だし、学生へは先生らしく振舞わないといけない。それに、アカハラにならないよう雑談のときも慎重に言葉を選ばないといけない。
そもそも、一日を通して誰とも会話しない日も少なくない。
今日はなんだか人間に戻った気分だ。
ランスには感謝しかない。
居酒屋を出ると、トオヴェルロとはいえ2月の深夜は寒さが堪える。
しかし、それに負けないよう力強い口調でお互いの健闘を約束しあい、再会を誓った。




