2 まさか上司がこんな……。
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一階受付で身分を告げると、眠たそうな職員に、三階にある取締第三課の課長執務室へ行くようにと言われた。エレベーターで三階へ上がった。緊張して身が引き締まる思いだ。
課長執務室を訪ねると、大時代的なマホガニーのデスクの縁に、中学生ぐらいの女の子がお尻を載せ、足をぶらぶらとさせていた。黒髪のおかっぱ頭に白い顔、目は細く、中央にちょこんとした小さな鼻がついている。アジア系だ。日本人かもしれない。身につけた鮮やかな火炎色の制服に違和感を覚え、あらためてよく見ると、背丈が小さいだけで、成人した女性だとわかる。二十代前半くらいか。この部屋の主の秘書だろうか。
「あのぅ、課長はいますか?」
「むう」
「受付で、取締第三課のチャン警部のオフィスはここだと聞いて来たんですが……」
「おまえの目の前にいるこのわたしこそがその本人なのだが?」
おれはあわてて背筋を伸ばし、右手を額に添え、敬礼の姿勢を取った。
「失礼いたしました。わたしは本日火星に入星しました、日本の警視庁刑事部捜査第一課所属、服部悠蔵巡査部長です」
「おまえが服部悠蔵か。待っていたんだ。まあ、そう固くなるな」
女はいくぶん鼻にかかった声でそう言うと、デスクの縁から飛び降りて、手すりスタンドのついた円盤状の機器の上に乗った。円盤は静かなうなりを上げて、五十センチほど浮き上がった位置で停止した。
おれと同じ目線になったチャンは矯めつ眇めつするようにおれを見た。
「火星連邦保安局取締第三課、課長のサザエ・チャン警部だ。明日からおまえはわたしの下で働いてもらうことになる。階級はそのまま巡査部長だ」
まさかこの小さい少女みたいな女が上司だとは……。おれは驚きと戸惑いを悟られないように気をつけなければならなかった。
「かしこまりました」
おれが敬礼の姿勢を崩さずにいると、チャンはにやりと笑った。
「固い、固いぞ。タラバガニの甲羅よりも固いぞ。日本人は真面目すぎるんだ。知ってのとおり、ここは自由の星だ。みんな自由を求めてやってくる。だから、もっと開放的でいいんだ」
「そう……ですか?」
「そうだとも。フランクにタメ口でもいいぞ。もっとも、わたしへの敬意を失しない程度にね」
チャンはおれの反応をうかがうようにじっと見つめてきた。おれは控えめに「わ、わかりました」とうなずくと、チャンはその返事が気に入ったようだった。
「さて、おまえは密命を帯びてここへ送られて来たわけだが、この地でそのことを知っているのは、わたしと保安局の一部の幹部、そして、火星連邦大統領だけだ。だから、他の者におまえの密命が知られないよう十分に注意を払ってほしい。まあ、密命の話はおいおいするとして……、ここでの任務のことだが、詳細は聞いているんだっけか?」
「いや、保安維持としか……」
「まあ、間違っていないが、おおざっぱすぎるな。火星連邦法のことは少しくらい知っているんだろ? いまさっきここは自由の星だと言ったが、殺人や強盗をはじめ、地球で禁じられている犯罪はもちろんダメ。プラス、これは生命倫理的な観点からだが、《科学犯罪》というものが規定されていて、人間を遺伝的、機械的に改変することは固く禁じられている。いわゆる《人体改変禁止法》だ。改変している本人、改変に携わった者も処罰の対象になる」
二十一世紀初頭、科学技術が加速度的に進歩する中、科学至上主義者たちの間で、自らを進化させるべく科学的に改変する者たちが現れた。後天的に新規遺伝子を挿入して、類い希なる身体を手に入れたり、身体をサイボーグ化して超人になってみたり……。
科学によって人間性が失われてしまう――。世界中で大多数の人々がそう危機感を抱いた結果、国際法に基づき各国で人体改変禁止法が施行されることとなった。さらに、一部の科学技術は《違法科学技術》として研究に規制がかかり、《違反科学技術従事者》は処罰の対象とされた。
――科学者には自由に研究をする権利がある。
地球のしがらみが嫌になった一部の科学者は研究の自由を追い求め、火星へ移住した。彼らが火星で研究を続け、その成果を地球に持ち込めば元も子もないので、地球のみならず火星の地でも人体改変禁止法が施行された、というわけだ。
「その違反者の取締りが、われわれ保安局取締課全体の最重要任務だ。とはいえ、懐古主義が大流行中のこの星で、違反者に出くわすことはまずないから、日常的な任務としては、不法滞在者の取締りってところだな」
「オーバーステイヤー?」
「そう。滞在期限を過ぎても火星に居残る悪質な旅行者が多くてな。捕まえて地球に強制送還しなくてはいけない」
チャンはそこでおれのほうにうかがうような視線を寄越した。
「さて、何か聞いておきたいことがあるかね? わたしの年齢以外に」
おれは少し考えてから首を振った。
「いいえ、ありません」
「ならば、逆に白状しておきたいことは?」
「白状? いや、ありませんが――」
「本当に?」
チャンが疑わしそうに目をすぼめた。
「本当にないのか?」
「ありません」
「わたしは知ってるぞぉ~。おまえ、ニンジャなんだろう?」
「ええ、まあ……」
チャン警部もSNSを見たようだ。おれはだんだん気恥ずかしくなってきた。伊賀忍者の血を引いているというだけで、本物の忍者というわけではない。これから先もずっと忍者だと冷やかされ続けるのかと思うと、少しうんざりしてきた。
「オーマイガぁ……」
チャンの二つの目がみるみる見開かれていく。
「まさか火星の地でニンジャを目にするとはな。ニンジャなど映画や漫画の世界だけの話だと思い込んでいたのに……」
チャンは興奮気味に円盤から飛び降りると、さっと両手をYの字に吊り上げ、両手で鳥のくちばしの形をつくり、右足を曲げて持ち上げ、左足でつま先立ちして、ぴたりとバランスを取って見せた。それから、腰をすとんと落とすや、流れるように両手を交互に前に突き出した。どうやら太極拳のようだ。
「ふふ、わたしは背が小さいほうだから、腕くらいは鍛えようと思ってね。一応、太極拳歴は三十年になるかな」
「三十年……!?」
チャンがおれより年上であることに驚愕した。
「あの、おれがニンジャだってこと、内緒にしといてもらえませんか?」
「んあ? ああ、わかったわかった。……誰にも言ってないし、言わないでおこう」
チャンは左手首に巻いているヘプタゴンをちらっと見た。
「十八時か。さて、仕事は明日からということにして、まずは七福の街を知ることから初めてくれ」
チャンはデスク上のインターフォンを押すと、「マルコ!」と一声呼んだ。十秒後、黒々とした髪をオールバックにキメ、浅黒い肌に高い鼻をした、典型的なラテン系の若い男が入ってきた。二十代半ばだろう。なかなかのハンサムだ。細身ながらダブルの火炎色のスーツに身を包み、ネクタイもまた火炎色だった。火炎色が取締課の統一色のようだ
マルコは人懐っこい笑みを浮かべた。
「ちっすぅ。マルコ・ヴェッキオ巡査っす。見てくれと名前のとおりイタリア系っす。マルコって呼んでください。それより、警部から聞きましたよ」
マルコはそこで憧憬とも呼べる眼差しになった。
「マジ、ニンジャなんすか?」
チャンのほうを向くと、ぷいっと顔をそむけ、下手な口笛を吹き始めた。すでに保安局の全職員に知れ渡っていると思ったほうがいいだろう。
おれはマルコに顔を戻し、あいまいにうなずいた。
「ま、まあ……」
「すっげぇーっすね! おれ、ニンジャなんて、ドラゴンやユニコーンやアイアイと同じ架空の存在なんだって思ってましたよ」
「いや、アイアイはいるんじゃないか」
「え、アイアイているんすか?」
「意外とかわいくないお猿さんのアイアイならマダガスカルにいると思うが」
「え、アイアイって意外とかわいくないんすか? それ、軽く詐欺に遭った気分っす」
「マルコ」
チャンが割って入った。
「地球のニッポンから来たニンジャに七福の街を案内してやってくれ。あ、そうそう。七福へ、ようこそ!」




