1 ディグベア、本気出す
第五章 イーガVSコーガ
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馴染みのある鳥の鳴き声で目を覚ました。あれは何という名の鳥だろう。地球では気にかけなかったのに、今朝は異常なほどその名前が知りたくなった。
サクラがベッドを占有していたので、昨夜はソファの上で寝た。室温と湿度は完璧にコントロールされているので、おれとしては寝られるならどこでもかまわなかった。
ベッドのほうをうかがうと、サクラはすやすやと健やかな寝息を立てていた。
おれはいつまでこの子をかくまい続けるんだろう。
かくまい続けられるだろうか?
身元不明少年少女の殺人事件は、サクラが逃げ出したという研究施設とつながっている。犯人である教官たちを逮捕すれば、サクラはもう逃亡しなくて済むだろう。
そのあとは? 遺伝子を操作されて生まれたサクラに自由は与えられるのだろうか?
いまは思い悩むときではない。おれは取締官としてなすべきことをするだけだ。
起こすのは忍びないので、洗顔と歯磨きを済ませると、リュックサックに必要なものを詰め込んで、静かに外に出ようとした。
玄関に向かおうとしたところで後ろから声がかかった。
「悠蔵?」
サクラがベッドの上で身体を起こし、寝惚けたまなこをこすった。人参色の髪にところどころ寝癖が付いている。
「すまん。起こしちまったか」
「またシュギョウ?」
「ああ、デッド・ソルトへ行く。今日も夕方の六時過ぎには戻ってくると思うから――」
「わたしも行きたい。悠蔵のシュギョウしているところ見たい」
「ダメだ。遊びに行くんじゃない。それにデッド・ソルトにはディグベアというそれは恐ろしい――」
「行きたい、行きたい、行きたい!」
サクラがあまりにも駄々をこねるので、仕方なくデッド・ソルトにだけ一緒に連れて行くことにした。
朝五時のこの時間、通りに人の姿はない。ヘルメットをかぶったサクラを後ろに乗せて、おれはオートフロートを走らせた。
デッド・ソルトにやってくると、昨日と同じあたりにバイクを駐めた。周囲を見渡す。ディグベアが今日も現れて、修行の相手をしてくれるのではないかという淡い期待があったのだ。
荒涼とした大地には生き物の姿は見えなかった。地面の上を砂風が這うように進み、地表に複雑な紋様をつくっていく。枯れ果てた老木は日に日に風と砂に削り取られ、形を変えていくようだ。
それにしても寒く乾いている。後ろを見ると、サクラが毛布にすっぽり身体を包み込んでいた。
「寒くないか?」
「わたしは大丈夫だから、悠蔵はシュギョウして」
気丈なことを言うと感心しながら、おれはスーツを脱いで折り畳んでリュックサックに仕舞った。今日はスーツの下に忍び装束を身につけてきていた。
おれはさっそく老木に向かって手裏剣を打った。最初は一枚ずつだ。次は三本の指に二枚を挟んで投げ、その次は四本の指に三枚を挟み、最後は五本の指に四枚を挟んで、手裏剣を打った。
「すごいじゃん、悠蔵!」
飛び上がってはしゃぐサクラの声援に、おれはまんざらでもない気分になった。
「研究施設の教官と比べてどっちがすごい?」
「……」
「そ、そうか……」
おれはちょっとだけ傷ついたが、まだ修行を始めて二日目だ。仕方がない。
だんだん上手く投げられるようになってきた。もともと運動神経はよいほうだったのだ。やはりおれの身体には伊賀流忍者の血が流れている。
〈なかなか上手く打てるようになったじゃないか〉
はっとして声のほうを見やると、遠くに熊のような巨体が見えた。ディグベアだ。
「いたのか」
〈いたのかとはずいぶんな言い草じゃな。ここはわしの縄張りじゃ。おまえのほうが部外者なんじゃぞ〉
「何だか今日は機嫌が悪いみたいだな」
〈いいやー、別にぃ。ところで、そっちにいるのは誰だ? 少女のように見えるが〉
サクラのほうを見やると、驚愕してぶるぶると震えていた。サクラにもディグベアが見えるのだ。
「あわわわわ……」
「サクラ、こいつはディグベア。怖がらなくて大丈夫だ。この子は、サクラだ。わけあって、おれが保護している」
〈ふむ、ここからだとちょっと見えづらいんだが、未成年なんてことはないじゃろうな?〉
「自分がいつ生まれたのか正確にはわからないそうだ」
〈未成年なんてことはないんじゃろうな?〉
おれは強い口調で繰り返した。
「自分がいつ生まれたのか正確にはわからないそうだ」
〈まさかとは思うが、おまえ――」
おれは即座に言い放った。
「答えは〝ノー〟だ。〝まさかとは思うが、おまえ〟以降に続く疑問にはすべて〝ノー〟だ」
〈すべてかどうかはわからないんじゃないか?〉
「……試しに言ってみろ」
〈まさかとは思うが、おまえ、その子が浸かり終わった浴槽に浸かったり、使い終わったバスタオルで体を拭いたりしているんじゃないじゃろうな?〉
「……逆にそれの何か問題でも?」
〈それでおまえがいい気分を味わっているとしたら、それは問題だと思うがのう〉
「おれが脳内でどんなことを考えていようとそれはおれの自由だ」
「悠蔵……? それ自由じゃないよ?」
サクラが後ろで怪訝な声を上げていたが、いまは無視だ。
おれとディグベアは束の間にらみ合った。ディグベアが苦々しい気持ちでいることはうかがえた。たぶん嫉妬のようなものだろう。
〈まあ、いい。今日も手合わせしてやろう〉
おれは居住まいを正して一礼した。
「お願い申す」
おれとディグベアは二十メートルぐらいの距離で対峙した。今日は昨日より荒れる展開になりそうな予感がした。
「さあ、打ってこい」
おれが手裏剣を手に構えると、後方から黄色い声援が上がった。
「悠蔵、がんばって! 熊のお化けなんかやっつけちゃえ!」
〈ふっ。このわしが熊のお化けか……。火星の大地の主と恐れられたわしもなめられたもんじゃ〉
いまやディグベアの眉間には深いしわが刻まれ、鋭い歯の並んだ大きな口が耳元まで裂け、どことなくあどけなかった顔が恐ろしげに歪んでいた。
やっぱりサクラを連れてくるべきではなかったと後悔しながら、おれはディグベアに向かって手裏剣を打った。
〈甘いわー!〉
ディグベアは突風のごとく動き、手裏剣をみなよけたが、そのぐらいこっちも見越していた。
おれはディグベアが飛び上がったところへ向けて左手に持った四枚の手裏剣を放ち、背に負った刀を抜いて、さらにディグベアが着地しようとするほうへ駆け出した。
ディグベアは空中でその巨体を軽やかに翻し、四枚の手裏剣もまたかわした。その足が地面に着地すると同時に、おれの刀がディグベアの左肩口へ振り下ろされた。それをディグベアの鉄のごとき長い爪が、がっちりと押しとどめた。
おれとディグベアの顔は数十センチのところまで近づいた。互いの目と目がこのとき初めて合った。ディグベアの大きく銀色をした瞳におれの顔が映っていた。半透明の瞬膜が目尻のほうから動き、まばたきをしたようだった。驚いているのか。
〈さすが、伊賀の血を引くだけはある。だが、まだまだ修行が足りんようじゃ〉
ディグベアが笑ったのがわかった。右腕が一閃したかと思うほど、すばやい突きが放たれ、おれの体の中心に衝撃が走った。
〈思い出せ。おまえのDNAに刻まれた記憶を〉
ディグベアの言った言葉がおれの脳みそに沁み込んだ。




