09.(誤)英雄→(正)残念王子
「もしかして、緊張してる?」
「緊張してます。だって、床はピカピカだし、柱は重厚だし、通りすがりに頭は下げられるし、……私、平凡な一般市民なのに」
「平凡な一般市民なんかじゃない。ユーリは俺の唯一だから」
「それも、その……本当に実感がなくて、ですね」
「あぁ、大丈夫。気にすることはない。ゆっくり待つ覚悟はできているから」
「すみません」
ユーリのことを考えれば、何もかもが初めて見るものだらけのはずだ。もっと配慮すべきだろうとは思うが、フィルとしても別の心配に気を取られてしまって、そこまで気を配ることはできなかった。
(まずいな……。やはり母上の怒りはまだ解けていないだろうか)
城を出て大侵攻の対処に向かう際のやり取りを思い出し、フィルは隣のユーリに知られないようひっそりとため息をつく。
「おぉ、フィル! よく無事で戻って来れたな。大変だったのだろう?」
「レータ兄上。兄上も息災で何より」
「大侵攻のことも詳しく聞きたいが、今はそちらが優先だな」
レータと呼ばれた竜人は、フィルの半歩後ろで所在なさげに立っているユーリに視線を向けた。
「レータ兄上、彼女は――――」
「あぁ、気にするな。父上と母上が待っているのだ。そちらを優先しなければな。そちらのお嬢さんも、何度も自己紹介するよりは、一度で済ませてあげた方がいいだろうし」
「やはり、待っているのか」
「当たり前だろう?」
隣で聞いているユーリは、レータの言う「当たり前」を「親なのだから心配で当たり前」と解釈したが、なぜかフィルはがっくりと肩を落とした。そうか、と息を吐くと、先導するレータの後ろをどこかとぼとぼと歩く。
「父上、母上、フィルと途中で合流しました」
「うむ、入れ」
フィルは繋いだ手からユーリの緊張を感じ取り、そっと親指を動かして手の甲を撫でた。すると、少し強めに手を握られる。
(そうだ。ユーリは今、俺しか頼れる者がいないのだ。ここで弱気になって彼女を不安にさせてどうする!)
レータの背に続き、勇気を奮い立たせたフィルが部屋に入る。
「わ……ぁ」
隣から小さな感嘆の声が漏れた。壁や絨毯、丁度品が青系で統一された応接室『青の間』は、フィルにとってはあまりよい思い出がないが、初めて訪れるユーリにとっては、純粋に感動するに十分なのだろう。
ここは、城の中でも特に厳重に魔術的な防御を施されているので、盗聴などが許されない重要な打ち合わせに使われる部屋だ。……というのは公的な話で、その実、激昂した竜人が少しでも落ち着けるよう青で統一された部屋は、竜人の中でも力の強い王族が多少暴走しても大丈夫なように頑丈に魔術障壁が張られている。そのため、年若い王族にとっては「説教を受ける部屋」という印象の方が強い。フィル自身も、やらかしの後に何度カミナリを落とされたか分からない。もちろん、説教と雷(物理)両方の意味で、だ。
「あぁ、フィル。報告は受けていたが、特に怪我もなく五体満足で戻ったな」
「父上、無事に大侵攻を抑える剣となり、役目を果たして参りました」
「堅苦しい話はいい。まずはそちらに座れ。お前の連れてきたそのお嬢さんもな」
心配そうにフィルを見上げるユーリにひとつ頷いて見せ、フィルは二人掛けのソファに腰を下ろす。ユーリを自分の膝の上に乗せたい思いはあったが、さすがにそれはまずいだろうと、かろうじて理性が勝利した。
「戦線はどうだった?」
「一言で表せば『混沌』でした。全体の指揮権を握ろうとする者、それに抗う者、好き勝手に魔術を放つ者――種族も様々、国籍も様々では仕方のないことかもしれませんが、個々の能力を把握する指揮官の重要さを嫌というほど思い知らされました」
「あぁ、シュルツのことは聞いている。お前の報告通りなら、早晩潰れるか、首がすげ替えられるだろう」
「シュルツは後方支援しか担っていませんでしたよ。やたらと前線で命令したがっていたのはセヴェルマーツの王弟でしたね。自国の騎士が活躍していることをきっかけにマウントを取りたがっていたのでしょうが、現場からは総スカンでした。しまいには自国の騎士によって退場させられていましたが」
「そう説明できるほど、お前は周囲を観察できる余裕があったのだな。暴れるしか能のなかったお前も、苦難の中にあって成長したようで何よりだ」
「ありがとうございます、父上」
一通りの報告を終え、フィルはちらりと国王の隣にいる王妃を盗み見た。感情は読めないが、じっとフィルを観察するように凝視していることだけは確かだった。
そして、国王の話が一区切りついたと判断したのか、王妃がゆっくりと口を開く。
「五英傑、と吟遊詩人に謳われているそうね。あなたがそう呼ばれるほど活躍したことで、周辺諸国の我が国を見る目も随分と変わりました」
「そこまでですか?」
「えぇ、大陸全土が壊滅する危機を救った筆頭として、あなた宛てに感謝の書状も届いています。ついでにぜひ婚約をと釣書も付いていたけれど、それは突き返しておきました」
「ありがとうございます、母上」
「――――ですが、あなたがやらかしたこととはまた別です」
フィルは王妃の怒りの波動を感じ、思わず口から出かけた悲鳴を喉の奥に押し込んだ。隣にいる存在がなければ、みっともなくも震えて逃走していただろうが、ユーリにはそんな情けない姿を見せられないと、ぐっと奥歯を食いしばる。
「軍部で責任ある地位にあったにも関わらず、引き継ぎもろくにしないまますべて放り出すように行ったことは、たとえ大陸の命運を賭ける戦いがあったとしても許されることではありません。あなたがここに戻ったということは、そこのお嬢さんとここで暮らしていく心積もりがあるということでしょう。それならば、すぐ軍部に赴き、頭を下げることですね。そうすれば掃除夫の仕事ぐらいは貰えるでしょう」
「……申し訳ありませんでした、母上」
「謝罪はわたくしに言うものではありません。軍部で尻拭いをした者に言うべきでしょう。すぐに向かいなさい」
「はい、それでは失礼します」
フィルは立ち上がり、隣に座っていたユーリに手を差し出した。母がこれでは彼女も居心地が悪いだろうし、軍部に向かう前に誰か信頼できる侍女を探して預けようと考える。
「あぁ、そこのお嬢さんは残してお行きなさい」
「母上!?」
予想外の提案に、フィルは目を剥いた。
「ただの人間、しかも誓約を交わしていないのでしょう? そんなお嬢さんを気性の荒い者の多い軍部になど連れて行けると思って?」
「もちろん、それは俺も考えて、誰かに預けようと――――」
「だから、ここで預かるというのです」
「ですが……っ!」
竜人に比べれば、触れれば折れそうなほど華奢でか弱い存在だ。王妃の言うことは確かに分かるが、それでも、ここに残す理由にはならない。ここで離されてなるものか、と本能が吠える。
「あぁ、うるさい。レータ、フィルを連れて行って」
「はい、母上」
「ちょっ、兄上!」
「悪いな、フィル。これに関しては母上に賛成だ。彼女を下手に連れ回すより、ここの方が安全だ。そうだろう?」
それでも物理的な距離はもっと近くなくては困る――――というフィルの抗議は無視され、彼は長兄に首根っこを掴まれて引きずられるようにして青の間を追い出された。部屋を出る直前に目にした、困惑した表情を浮かべるユーリには不安しか残らない。
「兄上、放してください!」
「いいから。とにかくお前は軍部に行け。それが終わるまでは戻ってくるな」
「ですが」
「フィル、これは王妃命令であり、王太子命令だ」
「……ぐっ」
ずるずると引きずられながら、フィルは青の間に視線を定めて魔術言語を編む。お守りのようなものだからと自分に言い訳をして、こっそり彼女の鞄に彼の鱗を忍ばせておいたので、そこを起点に術を編んだ。
『あらためて、うちの愚息が迷惑をかけたのではない?』
『いえ、とんでもありません。むしろ、色々とお世話になってしまったぐらいです』
場所が青の間なので、うまくいく自信はなかったが、遠耳の魔術は問題なく発動したようだ。
「なんだ、盗聴してるのか?」
「盗聴ではなく、遠耳の魔術です。兄上、静かにしてください」
静かに、と注意するが、魔術で拾う音と自身の耳で拾う音は全く異なるものなので、話しかけられたからといって音が阻害されることはない。単に、集中できるかどうかの問題だ。
『人間のあなたには、番と言われてもピンと来ないだろうけれど、愚息から説明はされたのかしら?』
『はい。竜人にとっての番がどういうものなのかの説明と、あと、誓約についても聞きました』
ユーリの声音が固い気がして、フィルは気が気でない。あくまで音を拾うことしかできないので、表情すら分からないのだ。
『あの子なら、先走って勝手に誓約を結ぼうとすると思ったのだけど、少しは成長したのかしら』
『あの……、そもそも私がちゃんと名乗っていなくて、その、申し訳ありません』
『あら、あなたが謝ることではないわ。でも、人間にしては珍しいわね。名前で縛られることを教わっている、ということは、出身は貴族かなにか?』
『いいえ、偶然なんです。成り行きで違う名前のまま誤解されてしまっていて……、あ、フィルさんには私の本当の名前は別にある、ということは話しました』
『成り行き……? そうね、あの子ったら、シュルツで番を見つけたから連れて戻る、としか言っていないから、詳しいことを聞いてもいいかしら?』
フィルの手がじんわりと冷たい汗をかき始めた。この流れはまずい。だが、今のフィルには止める手立てもない。次兄ならともかく、長兄には勝てないのだ。
『あの、私、客人とか彷徨い人とか呼ばれる存在らしくて……、えぇと、違う世界から来てしまったみたいなんです』
『あらあらあら、まぁまぁまぁ?』
『それは珍しい。いや、大変だったのだな』
『あなたもあの子から聞いていませんの?』
『もちろん、今初めて聞いた。いや、まさか彷徨い人がフィルの番とは……。クレットあたりが喜びそうだな』
『……それなら、今後のことをちゃんと考えないといけないわ。ついでにあなたの世界の話も聞かせてもらえるかしら?』
『はい、私なんかの話でよろしければ』
『そんなに構えなくてもいいのよ。あなたにとって最良の道を模索するためには、必要な情報というだけだから』
『そんな、ご配慮いただいてありがとうございます』
『それに、……そうね、フィル。ここまでになさい?』
『え? フィルさん?』
突然、名前が出たことで驚いたのだろう。困惑したユーリの声を最後に、魔術が強制的に断絶された。
「くそっ」
「おや、母上に切られでもしたか?」
「分かっているなら、わざわざ口にしないでくれないか、兄上」
「まぁまぁ、落ち着け。別に母上は彼女に危害を加えるつもりはないだろう」
「危害は加えなくとも、変なことを吹き込む恐れがあるんだ」
「それは否定できないな。でも、ほら。もう到着したぞ」
長兄の言う通り、ずるずると引きずられて、いつの間にか軍部の建物の目の前までやってきていたようだ。母とユーリとの会話に夢中になり過ぎたことを少しだけ反省する。
「さて、ちゃんと『ごめんなさい』するんだぞ」
「……兄上、俺は幼児ではない」
「そうか? 暴れる良い口実ができたと知ってすぐ、仕事を放り出して飛び出すもんだから、てっきりまだ自分のことしか考えないガキんちょなのかと」
「すみませんでした」
どうやら母だけでなく兄もそれなりに怒っていたらしいと気づき、フィルは頭を下げた。そんなフィルの頭を、レータはぽんぽんと軽く叩く。
「母上も言ってただろう。謝るべき相手が違うと」
「……はい」
王族であることと、何より強さを買われて軍部のトップにいたフィルだが、王妃や王太子が指摘したように、責務を放り出して飛び出した今では、単なる放蕩王子でしかない。だが、国に戻ると決めた以上、仕事をして稼ぐのは当然。それならば、まず古巣にしっかりとけじめを付け、その上で戻れる隙間がないか確認するのが最初にすべきだということは分かっている。
それでも、慣れ親しんだ建物を前に、足を踏み出すのを躊躇ってしまうのは、最もフィルの勝手な行動の余波をくらったであろう副官の怒りを想像できてしまうからだろうか。