08.竜人の戦闘能力
「うぅ……、ここまでありがとうございました」
ユーリがウィングタイガーの耳の辺りを強く撫でながら感謝の言葉を告げるのを、フィルは一歩離れたところから眺めていた。
初日こそ自分の何倍もある巨体に怯えの色を見せていたユーリだったが、どうやら知性ある者なら騎獣とも言葉を交わすことができるようで、ウィングタイガーとも打ち解けてしまったのだ。どちらかというと、その毛並みに癒されていたようだったが。
「ユーリ、そろそろいいだろうか」
「あ、はい、フィルさん」
フィルが王子だと知られた直後は、「フィル殿下」「フィル様」と呼んで、せっかく少しは縮まった気がした距離が余計に開いてしまって泣きたくなったが、何度も頼みこんだ結果、再び「さん」付けに戻してもらえた。ユーリは畏れ多いと何度も言ったが、懇願するフィルに押し負けた形だ。
店を出て少し歩けば国境の町を出る。そこからはすぐにフィルの国――シドレンへ入ることができるのだ。シドレン側の国境の町は丘を一つ越えた先だが、国境線まで彼の相棒は迎えに来ているはずだ。
「国境の町から歩くのって、なんだか不思議です」
「そうか?」
「だって、商売している人の行き来とかを考えたら、国としては出入りする人のチェックとか、通行税で稼いだりとか、そういう人を置くことで大きな街に発展していったりしませんか?」
「ユーリの言う通りに発展している街もあるが、ここは滅多に往来がない上に、そもそも国同士の関係も微妙だからな。摩擦を避けるために物理的な距離を置いているんだ」
なるほど、と素直に頷くユーリと手を繋ぎながら、フィルは馬車が一台通れるかという狭い道をゆっくりと歩く。ユーリを疲れさせたくはないフィルにしてみれば、国境線になっている丘の頂きまで彼女を抱き上げて運びたいところなのだが、そういった好意を「申し訳ないから」の一言で拒絶するユーリの自主性を尊重している。もちろん、疲れた素振りを見せればいつだって運ぶ気満々である。
「ユーリ」
「はい」
「ちょっと厄介な魔物がいる。ここで待っていてくれるか」
「え!? 魔物がいるんですか!」
「俺がいるから襲っては来ないだろうが、ここまで街道近くをうろつかれると、今後被害が出る可能性がある。早めに駆除しておきたい」
往来が少ないといっても、ゼロというわけではない。魔物の大侵攻が収束し、各国がどう動いていくのか分からない以上、国境のしかも相手国側であっても、危険な魔物は駆除しておくべきだろう。
「わ……かりました。でも、大丈夫ですよね? 怪我とか気をつけてくださいね」
「その言葉だけで十分だ。ここに簡単な防壁を張っておくから、待っていてくれ」
彼女が心配してくれるだけで、問題の魔物が潜んでいる林全てを焼き尽くせそうな程に力が漲ってきたが、あまり荒事に慣れていなさそうなユーリを不安にさせるわけにはいかないと思いとどまる。たぶん、こういう気持ちの働きをさせるのが番なのだろう。
「――トライホーンベアか。もう少し山奥にいる種のはずだが……同族との縄張り争いに負けた個体か?」
藪の中に潜むベアに向けて、フィルは足下から拾った小石を投げつける。小石をはたき落としたベアは、格上であるはずのフィルに対して、後ろ足で立ち上がり、威嚇をしてきた。
「ベア種は本当に好戦的だな」
大侵攻の折りにも、ベア種を挑発して同士討ちにしていくらか負担を減らしたことを思い出し、フィルは苦笑いする。後回しにせず、ここで狩っておく判断は妥当なものだ、と。
「さて、ユーリに心配をかけないように、とっとと終わらせるとしよう」
威嚇のポーズをとったベアは、立ち止まったまま観察しているフィルに対し、先手を打つべきと考えたのか、四つ足で突進してきた。名前の通り、頭に生えた三本の角を突き刺すべくどすどすと足音を殺すこともなく一直線にフィルに向かう。
「……これだから低脳な魔物は。――――身の程を知れ」
四つ足でもなお、その頭の高さはフィルの肩ほどもある。迫り来るその巨躯を目にして、防壁の中のユーリが小さな悲鳴をあげたのが聞こえた。
だがフィルは避けるでもなく、無造作に右腕を持ち上げただけだ。それなのにフィルの右手は的確にベアの喉を掴み、持ち上げていた。ボキリと骨を砕く音が響いた直後、弛緩したベアの巨体が首から徐々に氷に覆われていく。
(角と内臓がいい素材になったはずだし、肉と毛皮も普通に換金できるだろう)
傷めないよう氷で覆ったトライホーンベアを、フィルは街道沿いの木に巻き付いていた丈夫な蔦でぐるぐる巻きにする。それを苦もなく引きずりながらユーリのところに戻ると、真っ青な顔の彼女に迎えられた。
「えっと、フィルさん……傷、そう、怪我はないですか?」
「この程度なら問題ない。徒党を組んでいたわけでもないから」
「やっぱり、その、強いんですね?」
「そうだろうか? 確かに、大侵攻の折りにはあのクラスがごろごろしていたから、対処に慣れたのかもしれないな」
大侵攻の際には、素材のことなど全く配慮する余裕はなくて、ひたすら目につく魔物を効率的に鏖殺していたのだが、血生臭い話をすることもないだろうと、その辺りはぼかす。
「それ、どうするんですか?」
「これか? とりあえず持ち帰ろうと思ってな。角が武具の素材になるし、確か肝が薬の材料になったはずだ。肉と毛皮は普通に売れるから、向こうの街で換金しよう」
「重くないですか?」
「ユーリの華奢な身体に比べたら重いかもしれないが、このぐらいは問題ない」
目をぱちくりさせたユーリが「そうですか」とどこか諦めたようすで返事をするのを、フィルは不思議に思った。どこにそんな表情をさせる要素があったのだろう、と。
ユーリにしてみれば、ヒグマ以上に凶悪そうなベアを片手で難なく屠った挙げ句に、その巨体を軽々と引きずるフィルの身体能力について深く考えるのを諦めたのだが、彼はそんなことに気付きもしない。竜人の膂力が人間には及びもつかないレベルなのは、彼にとっては至って普通の常識なのだ。
片手にユーリのか弱い手、もう片手にトライホーンベアを繋いだ即席ロープという奇妙な状況のまま、フィルは丘を登っていく。すると、その耳に相棒の鳴き声が聞こえた。クァゥ、というその声はユーリの耳にも届いたのだろう、ちらり、とフィルを見た。
「あれが俺の相棒だ。ちゃんと迎えに来てくれたようだな」
「連絡したって言ってましたよ……ね?」
ユーリの言葉が不安げに小さくしぼんでいったのは、フィルの相棒が想定外だったからだ。騎獣と言うと、ユーリの常識では馬かロバ、ラクダあたりを想定する。それで言うと、虎――しかも翼を持っている――は、かなりイレギュラーな部類だった。
「鷲……ではないですよね」
猛禽類の頭部を持つ『相棒』は、ユーリの質問に憤慨するような声を上げた。鳥風情と一緒にするなというもっともな怒りだったが、きっと鷲の方も一緒にされたくはないだろう。
鷲の上半身に獅子の下半身を持つその名前は――――
「種としてはグリフォンになるな。俺の相棒ミイカだ」
「えっと、よろしくお願いします……?」
ユーリが礼儀正しく頭を下げるのに、グリフォン――ミイカは鷹揚に頷いた。
「ミイカ、俺の番のユーリだ。くれぐれも粗相はするなよ」
フィルが首のあたりを軽く叩くと、それに応えるようにミイカが鳴いた。そして主不在の寂寥を埋めるように、ぐいぐいと身体をフィルになすりつける。
その巨体で擦り寄られると、ユーリなどでは軽く弾き飛ばされてしまいそうなのだが、フィルはびくともせず、甘えるミイカに応えていた。
「早速で悪いが、これも運んでくれ」
フィルはミイカの足にベアをくくりつける。そして、空いた手でユーリを抱き上げると、ひょい、とミイカの背に飛び乗った。柔らかい革の鞍の上だったが、慌ててユーリはフィルにしがみつく。
「大丈夫だ。ウィングタイガーと一緒だ。鞍の……そう、そこを掴んでくれ」
「……あの、その前に、予告なく抱き上げるのは、できれば避けていただけますか?」
「すまなかった」
抱き上げると予告すると、拒絶されそうな気がしたから敢えての無言だったのだが、フィルはそんなこともおくびに出さず、素直に謝罪を口にする。
「さて、今日中に着きたいし、少し飛ばすぞ」
「え」
「大丈夫だ、風の膜を張るから、冷えることもない」
「いえ、そういうわけでは……わっ、わわっ」
主の意を汲んだミイカが羽ばたき、颯爽と上昇する。あっという間に遠ざかる地上に、ユーリの手が強く鞍のグリップを握りしめた。
「大丈夫か? 絶対に落とすことはないから、もう少し力を抜いた方がいい」
「言われて抜けるなら、抜いてます……っ」
高さにはどうしても慣れないのか、身体を固くするユーリの肩を軽く叩いても、一向に力の抜ける様子はなかった。
「じゃぁ、こうしよう」
フィルはユーリの腰を掴むと、それまで横乗りになっていた体勢を、自分と向かい合わせになるように座らせる。グリップから離れた手は、フィルがしっかりと握った。
「空を飛んでいることを忘れるぐらいに、楽しくおしゃべりでも」
「……できたら苦労しませんっ」
頭から否定され、怒られてしまったフィルだが、これからシドレンの王城に向かうことや、城の中庭を母である王妃が綺麗に整備していること、特産の果実の話を一方的にするうちに、ユーリの身体から少しずつ力を抜くことに成功する。
一方的にフィルが話すだけでは物足りないだろうから、とユーリ自身の話も聞き出すことができ、フィルとしては大満足の空の旅になった。
ただし、騎獣としてのグリフォンはとても優秀で、このままいつまでもユーリと密着して(※重要)おしゃべりをしていたいというフィルの願いとは裏腹に、あっという間に王城に到着してしまった。せっかくだからもっと遅く飛ぶように言えば良かった、と彼が考えても後の祭りである。まぁ、ずっと離れ離れだった主人に会えて喜びの絶頂だったミイカが、張り切って飛ぶのを止められたかというと、それもおそらく無理だったのだろうが。
・‥…━━━☆
「フィル殿下! よくぞご無事でお戻りに!」
城の城壁をあっさり飛び越え、騎獣の発着場とされている一角に到着した一行を見て、兵が喜びの声を上げた。シドレンは竜人の国であり、国民のほとんどが竜人であるのだが、兵とフィルでは体格こそほとんど差異がないものの、顔の輪郭は随分と異なっている。不思議なものだが、竜人としての格が高ければ高いほど、顔は人間に近くなるのだそうだ。フィルは「能力が高ければより人に似せて擬態できる」と説明したが、ユーリとしては、そういうものなのか、と鵜呑みにするしかできない。
「陛下と妃殿下が青の間でお待ちになっています。ミイカが飛んで来たことも伝令が飛んでおりますので、すぐにレータ殿下方も向かわれるかと」
「あー……、うん」
「フィルさん?」
珍しく歯切れの悪いフィルに、隣のユーリが心配そうな視線を向けた。ずっと自信満々に動いているように見えた彼が、ホームであるはずの城に戻った途端にこうなのだ。ユーリでなくとも、心配になるだろう。
「あぁ、大丈夫。心配ない。うん、心配ない。行こうか」
かえって心配になる『心配ない』を口にして、フィルはユーリの手を引いて城内へと足を進める。一国の城なんて古跡を観光で訪れるときぐらいしか入ることのない一般市民には敷居が高い。けれど、だからといって今更フィルの手を振り払うこともできず、ユーリはこわごわとフィルについていった。