05.滅びればいいのに(意訳)
「あの、大丈夫ですか……?」
「大丈夫だ。大侵攻のときは、数刻しか寝ずに4、5日戦い続けたこともある。それに、急いだのは俺の理由だからな。むしろ、ユーリは大丈夫か?」
「私は抱き上げられていただけなので、大丈夫です」
「そうか、良かった」
国境を越えてすぐの町で宿を取ったフィルは、部屋に入るなりベッドに横になった。宵の口だったが、夕食にパンとスープを提供してもらえたので、あとは寝るだけだ。
ベッドに転がったのはむしろ精神的な疲労によるものだ。飛んでいる間中、抱き上げたユーリから香る甘い匂いにくらくらとして、いっそのこと襲いかかりたいという欲望を押しとどめていたのだから。だが、こうして心配されるというのは、なんだかくすぐったい。竜人は基本的に頑丈にできているので、幼い頃の記憶を手繰ってもこうして心配されるという経験はほとんどなかったのだ。
コンコン
ノックの音に、フィルはがばっと跳ね起きる。
「何か?」
「お客様、湯はご入り用でしょうか?」
「あぁ、桶に2つ頼めるか」
「承知いたしました」
宿の従業員の足音が遠ざかる。フィルの隣で「お湯……?」と首を傾げているユーリに、シャナの『世慣れていない』という発言が蘇る。
「今日も色々とあったことだし、顔や手足を拭いてさっぱりしたいだろう?」
「あぁ、そういう……」
やはり、分かってはいなかったのだという事実に、フィルは彼女の生い立ちについてちゃんと教えて貰おうと決心する。あまり急速に距離を詰めるのもよくないとは思っていたが、逆に後回しにし過ぎて、面倒な問題が持ち上がるのもまずい。着ている服も見慣れないながら仕立ての良さそうなものに見えるし、どこぞの大店もしくは貴族のお嬢様が、護衛とはぐれたという可能性が高いのだ。
「なぁ……」
「あの……」
間の悪いことに、ユーリも何かを尋ねたかったようで、二人の呼びかけは同じタイミングだった。
「先に聞かせてくれ、俺のは急ぎの話じゃない」
「え、でも、私もそこまで急用では……」
「いいから」
「はい」
ユーリが口を開こうとしたとき、タイミング悪く「お湯でございます」と宿の女性が声を掛けてきた。応対に出たフィルが桶を受け取り、小銭を渡す。
「今、衝立を広げるから、その向こうで身体を拭いてくれ。俺もこっちで拭いているから」
「はい……」
「拭く布はあるか?」
「あ、それは大丈夫です」
戸惑ったようにチラチラとフィルの方を何度も見たユーリだったが、結局何も言わずに衝立の向こう側へ入って行った。まさか覗くんじゃないかと疑われているとも知らず、フィルは豪快に服を脱ぐ。
「それで、話の続きだが」
「はい。お城でえっと、王様?と魔法使いの人に言われたことを、ちゃんと伝えておかないといけないのかな、と思ったので」
「二人に?」
つい剣呑な声が出てしまったフィルは、慌てて声色を戻して「聞かせてもらえるか?」と先を促した。
「魔法使いの人が、私には魔術が効かないって言っていたんです」
「魔術が?」
フィルは彼女の傍を離れる前に守護の術を掛けようとして失敗したことを思い出す。そのときは、空腹のユーリのためにと原因について考えることを後回しにしてしまったのだが。
(いや、待てよ……)
そこでようやくフィルは気がついた。魔術が効かないと言ったということは、ユーリに対して魔術を掛けようとしていたのではないか、と。
「ユーリ、その前に魔法使いは何か言っていなかったか?」
「確か、杖を突きつけられたときに……国王の言うことに従え、とか、従属の魔術がどうとか、それを忘れろ、とか、言われた気がします」
フィルは驚いて桶をひっくり返しそうになった。ユーリの言うことが確かなら、あの王はユーリをいいように扱おうとしていたことになる。おそらく、目的はフィルの方だろう。番である彼女を従わせることで、間接的にフィルを取り込もうとしたのだ。そして、もう一つ――――
「ユーリ、魔術言語を聞き取れたのか?」
「魔術言語、ですか? あぁ、それでちょっと響きが違う気がしたんですね」
いわゆる日常で使う共通語と魔術言語は全く別のものだ。響きが違うレベルのものではない。ますますフィルはユーリの持つ謎の深さに目を瞬かせた。
だが、この際それはどうでもいい。
「あの、クソ王……っ!」
これから復興で何かと優秀な人材が必要だというのは分かるが、問題はその手段だ。これは看過できることではない。
手早く全身を拭いたフィルは、昼間にも使った伝言の魔術を操り、複数の場所に向けて一斉に飛ばした。獣人や竜人の知人――その中でもそれなりの地位を持つ人々に向けて、シュルツの王が用いようとした卑劣な手段について注意喚起を行ったのだ。腐っても王族であるフィルは、外交をとりまとめる次兄には比べものにならないが、それでも顔は広い。忠告を受け取った先の対応によっては、シュルツという国が地図から消えるかもしれなかったが、フィルの知ったことではない。番を魔術で操ろうなどと言語道断卑劣千万な下策に頼るシュルツの王が悪いのだ。
(ふん、諸国にそっぽを向かれて焦るのがこの目で見られないのが勿体ないが、まぁ、それはいい)
フィルは深呼吸をして苛立ちを押さえ込む。さっきはつい悪態をついてしまったが、あまりユーリにそんな言葉を聞かせたくない。
「ユーリ、もう寝るか?」
「……そうですね。今日は疲れたので、このまま寝てしまいたいのですが、いいですか?」
「俺の許可をいちいち得る必要はない」
「でも、宿も交通手段も全部フィルさんにお世話になっていますし」
「遠慮する必要はない。番については知らなくとも、家族に対して快適に過ごしてもらいたいという感情なら分かってもらえるだろう? 報奨金を手にしたばかりだから、むしろ使い道になってくれると助かる」
そこまで一気に話したところで、あまり休息を邪魔するのもよくない、とフィルは話を切り上げることにした。
「あまり難しく考えず、今日はもう休むといい。あぁ、服の洗濯を宿の者にも頼めるが、どうする?」
「……いえ、結構です」
「だが――――」
「着替えを持ち合わせていないので、この残ったお湯で洗濯しちゃいます」
ユーリの言葉を耳にした途端、フィルの脳みそがめまぐるしく動いた。
(洗濯? 今ここで洗濯するということは、つまりこの衝立の向こうは全r……いや、待て、不埒な妄想をしてユーリを穢すことはたとえ俺でも許されることではない! しかし、水音が……落ち着け、今まで屠った魔物のことを思い出すんだ。冷静になれ。――――違う! 問題はそこじゃない! 着替えがないのが問題だ! てっきりあの荷物の中にあると思い込んでいたが、流民なのだから、あまり身の回りのものを持ち出せなかったというのも、十分想定できただろう! 俺の馬鹿! さっそく不自由な思いをさせてどうする! ……この聞こえる水音、今、まさか下着を洗っていたり……いやいや、落ち着け!)
ぶんぶんと頭を大きく横に振ったり、天上を見つめたり床を見つめたりと忙しなく動くフィルだったが、その顔は真っ赤に染まっていた。
「……すまない、そこまで考えが及ばなかった」
「え? いえ、あの、フィルさんが謝るようなことではないですよね……?」
「いろいろすまない。少し宿の者と話してくる。――――あぁ、くれぐれも俺以外がノックをしても応対しないでくれ。国境近くの街は、どうしても治安が悪くなりやすい。この宿は大丈夫だと思うが油断はできないからな」
「は、い……?」
フィルは火照る顔を何とか冷やしながら部屋を飛び出し、先ほど湯を届けてくれた女性を見つけ出すと、小銭を握らせてお遣いに走らせた。頼んだのは急場をしのぐための寝間着と下着一式である。フィル自身が買いに走るより、同性の方が的を射た物を選ぶだろう。明日にでも、この街でユーリと一緒に旅に必要なものを揃えた方が良さそうだ。たとえこの先も彼女を抱えて飛んでいくとしても、一日ではフィルの故国にたどり着けないのだから。
(おそらくユーリは断るだろうから、うまく受け取ってもらえるように説得しないとな)
お遣いが戻って来るのを宿の玄関で待ちながら、フィルはそんなことを考えていた。
一方的に色々な物を買い与えられることを、絶対に断ってくるだろう。彼女と出会ってまだ一日だが、そういう反応を推測できるぐらいには彼女のことが分かってきた。
(番、という存在を理解してもらえていないようだし、そこからじっくり説明するべきか。いや、ユーリを俺の国に連れていくのは俺の我が儘なのだから、その侘びと言えばいいか?)
そこまで考えて、フィルは青くなった。
(そもそも、俺の国に一緒に帰ることすら了承を得てないじゃないか!)
城を出るときも、どこに向かうとも告げなかった気がする。ただ、この城は、王が鬱陶しいのだという話をしただけで。
(そうだ。魔物の大侵攻が終わった今、ユーリだって帰る場所、帰りたい場所があるかもしれない。普通は最初にそこを確認するべきだろう!)
生涯会えると思っていなかった番を見つけ出したことで、浮かれまくっていたのは事実。フィルはがっくりと項垂れた。
「お客様! ご要望のものを買ってきましたよ。……お客様?」
「あぁ、助かる……」
息せききって頼んできたときとはうってかわって、しょんぼりと怒られた番犬のように気落ちしているフィルに、宿の者は首を傾げたが、早々に彼を置いて仕事に戻って行った。
残されたフィルはのろのろと部屋に戻り、扉を叩く。
「……はい」
「俺だ。開けても大丈夫だろうか」
「はい」
警戒するような声音が、少しだけやわらかな返事に変わったことに気をよくしながら、フィルは扉を開けた。
「とりあえず、これで今日はしのいでくれ。明日にでも着替えを買いに行こう」
そう言って、できるだけ衝立の向こうに目をやらないように、床にそっと衣類一式を置いた。
「え、でも……」
「ユーリはもっと俺に頼っていい。宿代のことも気にしていただろう? ここまで連れて来たのだって、俺の我が儘なんだ」
「……」
衝立の向こう側で躊躇するユーリを想像しながら、フィルは言葉を続けた。
「受け取ってしまったら、何か見返りを求められるかもしれない。そう思っているのか?」
「……その、少しは」
「人間であるユーリには、番に対する愛情、というのがどういうものか分からないから仕方ない。確かに俺のことを見て欲しいという感情もあるが、それよりユーリが安全で快適に過ごせる環境を整えることの方が優先される。だから、単なる好意だと思って受け取って欲しい」
フィルは耳をそばだててユーリの様子を窺う。その吐息すら聞き逃さないように、と。残念ながら、納得してもらえた雰囲気ではなかった。どうしよう、とばかりに落とした小さなため息まで聞こえる。
「それも無理そうであれば、ユーリが仕事を見つけた後にでも返してくれればいい。ユーリが独り立ちしたいならサポートする。……というか、半ば無理矢理にシュルツから連れ出した俺の義務だな」
「お仕事、紹介してもらえるんですか?」
これには反応するのか、とフィルは相手に気付かれないように苦笑した。
「結果的にユーリが……服屋だったか、そこで雇われようとしているところを邪魔したのは俺だからな。それに、前線だったシュルツより、うちの国の方が治安もいい。だから、このまま同行してくれないか」
「連れてっていただけるなら、確かにその方が良さそうです」
「それなら決まりだ。今日はもう疲れただろうから、もう寝よう。あぁ、さっきの桶を出してくれないか。廊下に出しておく」
衣擦れの音の後、シンプルな生成りの上下に着替えたユーリが衝立の向こうから顔を出した。少しサイズが合わなかったのか、袖と裾を折り返しているのがまた可愛らしくて、フィルが悶絶しそうになったのはまた別の話だ。
「これくらいなら自分で廊下に出しますよ」
「いや、重いだろう。これぐらいは男の俺に任せてくれ」
「ありがとうございます」
ぺこり、と礼儀正しく頭を下げるユーリを見て、(俺の番、謙虚で可愛くてサイコー……)とひっそりフィルは呟いた。