20.強いけれど臆病な
「あの、本当に大丈夫だったんですか?」
「あぁ、イングリッド殿の相手はクレットの方が適任だからな、問題ない」
フィルが茶会に乱入して殺気を撒き散らした事件の翌日、彼とユーリはグリフォン――ミイカの背に乗って空を飛んでいた。
昨晩、母から呼び出され、雷を覚悟したフィルだったが、何故か哀れむような表情で、ユーリと二人で出かけて来るように言われたのだ。そこに至るまでの経緯を聞いたフィルは青ざめたり、逆に顔を赤らめたりと忙しなかったが、母と兄の気遣いを素直に受け止めることにした。
ミイカの鞍にはお弁当を含むピクニックセット一式がくくりつけられており、二人は城下から少し離れた山の裾野にある王族の保養地を目指していた。陸路であれば1日かかる場所だが、グリフォンの翼なら小一時間もかからずに飛べる。そういう場所だ。
「ユーリ、寒くはないか?」
「大丈夫ですよ。ちゃんと外套も羽織ってますし、それに風はフィルさんが魔術で防いでますから。それに、ミイカの羽毛があったかいんですよ」
フィルの前に跨がるユーリは、手を伸ばしてグリフォンの首元を撫でた。上半身が鷲のグリフォンは首元の羽毛がふわふわとしていてさわり心地も良いのだ。元の世界では鳥を飼ったこともないユーリだったが、すっかりミイカの羽毛に魅了されてしまっている。
「それならいいのだが。――――あぁ、見えてきたな。あそこに湖が見えるだろう。あの畔に保養地がある」
「すごい、綺麗な場所ですね」
「水は冷たいが、泳いでみるか?」
「ふふっ、風邪を引いちゃいますよ」
「そ、れもそうだな」
まさか本気で泳ぎに誘っていたとは言えないフィルは、慌てて冗談のフリをした。竜人にとってはなんてことのない水温だが、人間にとっては凍死しかねないものだということを失念していたのだ。
(これだから、母上や兄上に心配されるのだな)
うっかり自分の尺度で考えるクセを改めなければ、と決意を新たにしながら、フィルはミイカを降下させた。
「うわぁ……。上から見ても綺麗でしたけど、水がすごく澄んでるんですね。フィルさん、こんな素敵なところにつれて来てくれてありがとうございます。ミイカも、ありがとう」
労うようにグリフォンの首を撫でるユーリを眺めながら、フィルは湖畔に建てられたログハウスに荷物を運ぶ。荷物と言っても今日のランチとおやつ、お茶の類いだけなので大した量ではない。
「ユーリ、湖の中央まで行ってみないか」
「え? 泳ぐんですか?」
「いや、歩く」
促されるままに靴と薄手の靴下を脱いだユーリの素足に、フィルは自然と視線を奪われた。小さな爪と薄い皮膚しかない彼女の足をなで回したくなる衝動にかられるが、そこをぐっと堪える。逆に自分の素足をまじまじと見られていることなど気がついていなかった。ユーリはユーリで、鋭い爪と何枚か浮き出る鱗を持つフィルの足を興味津々で見ていたのだ。
「ユーリ、その、手を繋いでも?」
「はい。……歩けるっていうことは、浅いんですね。もっと深いように見えたんですけど」
「いや、深いぞ?」
「え?」
繋いだ手を引かれるままに湖の方へ歩き出したユーリは、深いという湖へと既に足を踏み出していた。足を深みに取られるんじゃないかと、ぎゅっと身体を緊張させたユーリだったが、何故か足はほとんど水に浸かることはなく――否、まったく水に濡れなかった。
「え? え? これどうなってるんですか?」
「詠唱もいらないぐらいのちょっとした魔術だ。驚いたか?」
「もう! 驚きましたよ! 溺れちゃうかもって思ったんですから」
ユーリの足は水面に乗ったまま、沈むことはなかった。そう、二人は湖面を歩いていたのだ。まるでおとぎ話のような状況に、ユーリの口元が自然と笑みの形を作る。
「ユーリ、……その、謝りたいことがある」
「謝りたいこと、ですか?」
突然切り出され、ユーリはいくつかの可能性を思い浮かべる。昨日の茶会の席でのことか、それとも客人の相手で二人の時間を作れなかったことか、もしくはもっと別の――――
「番の誓約のことだ」
「もしかして、寿命が……って話ですか? それなら昨日、王妃様から」
「そうだが、違うんだ。俺は……伝え忘れていたんじゃない。わざと伝えなかったんだ」
思ってもみない告白に、ユーリは隣を歩くフィルの顔をゆっくりと見上げた。
わざと寿命が延びることを伝えなかった。そう自らの罪を告白したフィルは、今にも自決しそうなほど思い詰めた顔をしていた。
てっきりいつものうっかりだと思い込んでいたユーリは、混乱しつつも口を開く。
「理由を、聞いてもいいですか?」
「少しでも、逃げられる要素を減らしたかったんだ。俺は女心にも疎いし、戦うことしかしてこなかったから、ユーリに好かれる要素なんて、全然ない。だから、卑怯な手を使った」
正直にそのときの感情をそのまま伝えるフィルに対し、ユーリが思ったことはたった一つだ。仕方のない人ね、と。
フィルは考えもしないのだろうが、こうやって自らの過ちを素直に打ち明けられる人がどれほどいるのだろう。今回だって、うっかりで誤魔化そうと思えばできたはずだ。だからこそ、この正直な彼を嫌いになんてなれない。
「驚きましたけど、怒ってはいませんよ」
「本当にか!?」
一瞬前までの悲壮な顔つきはどこへ行ったのか、一転して顔を輝かせたフィルに、ユーリは苦笑する。
「誰にだって、そういう『少しでも……』っていう思いはありますから。でも、フィルさん?」
「なんだ?」
「そもそもフィルさんは、私のことを番だからって、贔屓目で見過ぎているし、自分を低く評価し過ぎているんだと思いますよ? 私だってつまらない女なんですから」
そんなことはない、と即座に否定するフィルに、ユーリはこの世界へやってくる直前の話をした。王妃とクレットには話したが、フィルには話していなかったのだ。数年付き合っていた恋人に振られたこと、家庭的な女の方がと言われて自棄になって散財したことを話すと、フィルは「やっぱりユーリはすごいな」と褒め言葉を口にした。
「その、番だからって全肯定するのはやめてください」
「いや、違うぞ? 自分のことを一方的に切った相手に対して、普通は恨む気持ちの方が強いだろう? だが、ユーリはそんな相手からの指摘を切り捨てずに、しっかり受け止めて自分の技術を向上させようという心意気を持っている。それはすごいことなんじゃないか?」
ユーリ自身が単なる逆ギレだったと認めているのに、好意的に受け止められてしまって、ユーリはがっくりと肩を落とした。
(番のフィルターって怖い! あばたもえくぼどころじゃないじゃない)
少しは幻滅してくれたっていいだろうに、下がるどころかまた上がってしまった評価は天井知らずだ。
「私、自分は百年も生きないと思ってたんですよ。それが千年とか言われたら、きっとその間に性格もねじくれてしまうかもしれません」
「俺は一向に構わない。むしろユーリの性格が悪くなってしまえば、ユーリに惹かれる人も少なくなるだろうから、俺としては独占しやすくなって助かるな」
「性格がねじくれてもですか?」
「あぁ。何度も言うように、俺の唯一なんだ。ユーリがいるから、万が一にも傷つけたりしないよう、俺はもっと慎重に物事を運ばなきゃいけないと思うし、ユーリを守るためにもっと多角的な物事の見方を覚えないといけないと思う。俺の中の全ての発端がユーリなんだ」
とんでもなく重苦しく、とんでもなく直球な愛の言葉に、ユーリの頬がじわじわと熱を帯びていく。
「本当に不思議なもので、ユーリが傍にいるだけで、戦うことばかりを考えていた俺の心に安らぎができたし、ユーリと共に生きたいと思うだけで、色々なことが苦じゃなくなった。――――こんなことを言うと、また相手の気持ちを慮れないと怒られそうだが、ユーリがこの世界に来てくれて、本当に良かったと思っている」
「フィルさん……」
確かにその言葉は無神経だと怒られるセリフだ。それでも、それがフィルの偽りない想いなのだと知れば、そこに沸き上がる感情は全く別のものになる。
「いっそのこと、俺がユーリをこの世界に召喚したのなら良かったのに、とさえ思う。そうすれば、ユーリがいくら元の世界に帰る方法を探しても無駄だって言えるし、万が一にでも帰ってしまっても、また呼び戻せるから」
と、そこまでありえない仮定の話を一方的にまくしたてていたフィルの口が止まる。そして、何を思ったのか、ユーリを囲い込むように抱きしめた。
「まずい。ユーリが帰ったら、って思っただけでもどうしようもなく怖くなる。なんか、ユーリに格好いいところだけを見せたいのに、本当に俺はダメだな」
小さく震えるフィルの腕を、ユーリはぽんぽん、と軽く叩いた。
「ダメなんかじゃないですよ」
ワンピースのポケットから、フィルのために刺繍したハンカチを取り出すと、そっと彼の目元に当てる。
「そうやって想いを伝えて貰えるのは嬉しいです。でも、あんまり『唯一』って繰り返さないでくださいね。そうやって何度も言われてしまうと、増長して散財を繰り返す悪女になっちゃいますよ?」
フィルの目に涙が滲んでいたことをごまかすために、冗談めかして口にしたセリフは、「そんなユーリも見てみたいな」というまさかの肯定をされてしまった。
「ダメですよ。番だからって、甘やかし過ぎないでください。全肯定じゃなくて、ちゃんと叱ってもらわないと困ります」
「善処はする。だが、欲しいものは言ってくれ。俺は多分、察することはできないから」
「分かりました」
確かに、この人に『察して欲しい』は酷ね、とひどい事を思いながら、ユーリはぐっと腹に力を込めた。今朝から言おう言おうと思ってたことを、とうとう言ってやるぞ、と。
「番の誓約については、まだ決心がつかないので考えさせてください」
「あぁ、ユーリが頷いてくれるように俺も頑張って成長する。だから、決心がついたらそのときは、……ユーリの本当の名前を教えてくれないか」
「別にもう教えてもいいと思うんですけど」
「だめだ。うっかり暴走して勝手に番の誓約を結んでしまいそうになる」
「それは困りますね。じゃぁ、それまではお預けで」
刺繍入りのハンカチをフィルの胸ポケットに押しつけ、ついでに腕の中から逃れたユーリは、湖面に触れる自分の足を見ながら、歩いてみる。湖面に波紋が広がり、足の裏にはひんやりと冷たく、けれど硬くない感触が伝わるのが不思議で面白い。
「そういえば、フィルさん。私、水と光の加護があるって言われたんですけど、それって訓練とかしたら魔術が使えるようになるんですか?」
「おそらくは使えないだろう。体内の魔力が少ないから、使えたとしてもちょっと光ったり、ちょっと水を動かせたりする程度で終わる。――あぁ、番の誓約をすれば、その加護を使ってユーリを守れるし、訓練次第で実用レベルの魔術が使えるようになるかもな」
「ぐ、……それは、惹かれちゃいますね」
ファンタジーな世界で魔法が使える。ファンタジー小説をいくつも読んだユーリが、その誘惑に心が揺れるのは仕方のないことだった。
「焦らずゆっくり考えて欲しい、と言いたいが、魔術を行使したいという目的でも構わないから、番の誓約をしてくれると嬉しいな」
「身も蓋もないですね!?」
「それだけ必死なんだ。今だって、ユーリがまた俺の腕の中に戻って来ないか、って思ってる」
「そういうことを正直に話してくれるところは、嫌いじゃないです」
照れくさそうに微笑んだユーリは、フィルの腕の中に戻ると、歩み寄った勢いそのままに、つんと背伸びをしてギリギリ届いたあごの先にチュッとキスをする。
「ゆ、ゆゆゆゆユーリ!?」
「この先はどうあれ、今は恋人なんだから、このぐらいはいいじゃないですか」
「ダメだ! 俺の理性が保たない!」
顔を真っ赤にして反論するフィルに、ユーリは「はーい」と真剣さの欠片もない返事をした。




