14.つづく日常
落ち込んで仕事に影響が出るのでは、と彼なりにユーリのことを心配していたクレットだったが、その予想はいい意味で裏切られた。昨日とあまり変わりない様子で出勤したユーリは、昨日より少しだけ慣れてきたペンを手に、せっせと翻訳作業に勤しんでくれている。
(まさか、フィル兄上がうまく慰めたのか? いや、あのフィル兄上に限ってそれはないだろう)
クレットの知るフィルは、身も蓋もない言い方をすれば『脳筋』で、「とりあえず身体を鍛えれば何とかなる、ぐらいしか考えていない」とかなり本気でそう思っていた。
(やはり、番を持つと考え方そのものが変わるのか。そういった研究資料はあっただろうか。いや、軍部の誰かに頼んで、フィル兄上の観察をしてもらう方がいいか?)
あの兄にしてこの弟である。クレットにとっては、実の兄も研究対象でしかない。
「あの……、クレット殿下?」
「あぁ、どうしたの?」
研究の進め方について思いを馳せていたクレットは、呼びかけられて我に返った。もちろん、呼んでいたのは、目下の研究対象であり便利な翻訳者であるユーリだ。
「この本の翻訳が終わったのですけど、確認していただけますか?」
「あぁ、うん! ありがとう!」
翻訳が終わったと聞いて満面の笑みを浮かべたクレットは、拙い文字で綴られた訳文と原本を受け取った。
「ちょうどいい時間だし、ちょっと休憩にしないかい?」
「え、いいんですか?」
「ずっと座りっぱなしの書きっぱなしは疲れるでしょ。僕がこれを確認してる間だけでもいいから、付き合ってよ」
「わかりました」
執務室の一角にある応接スペースに案内され、お尻の沈み込む柔らかいソファに身体を預けたユーリは、控えていた侍従にお茶を出されて、恐縮しきった表情で「ありがとうございます」とお礼を言う。それが仕事なのだから気にする必要はないとクレットは言うが、仕事でも給仕をしてもらっているのだからとユーリは断っていた。
「あの……、本当にその本を訳してよかったんですか?」
「ん? どういうこと?」
「内容が、どう表現したらいいか分からないんですけど、歴史書や論文というより、俗な感じだったので」
ユーリが最初に訳すよう渡された本は『あがり症のあなたに教える3つのこと』という、ビジネス書の近くに置かれていそうな自己啓発系の本だったのだ。てっきりお堅い系の本を訳すと思い込んでいたユーリは拍子抜けしてしまった。
「あぁ、だからいいんだよ。歴史書や論文みたいな高尚なものは、どうしたってその時の権力者の手が入りやすい。こういうものの方が、当時の文化を知るには重要だったりするんだ」
「なるほど」
確かに歴史改竄って聞いたことあるなぁ、とユーリは頷いた。そうなると、本を渡されたときから抱えていた、もう1つの疑問もこの機会に解消したいという欲求がぐんぐん強くなる。
「あの、直接この本とは関係ないんですけど」
「ん、何?」
「この本って、手書きですよね? 手書きだと数も作れないし、あまり流通しないんじゃないですか?」
ユーリの質問に、きょとん、と目を丸くしたクレットだが、その表情が徐々に興味深いものを見つけたようなものに変わっていった。
「すごくいいところに目を付けるね。確かに、今現在、巷に流通しているのは手書きで複写された本ばかりだよ。おかげで、なかなかに高価なものになっている。でも、この本ができた頃は、『複写魔術』っていうのがあったんだ。今はもう失伝してしまっていて、そういうものがあったとしか知られていないんだけどね」
まぁ、もしかしたらエルフの中ではきちんと継承されているのかもしれないけどね、と少し肩をすくめて付け加えるクレットだったが、すぐに表情を真面目なものに戻した。
「それで、ユーリさんは手書き以外のどんな本を知っているのかな?」
「え、本って手書きのものしかないんですか?」
「そうだね。さっきも言った複写魔法を除けば、基本的には手書きだね。本の複写を専門とする職業があるぐらいだから」
ユーリは口の中で「中世か……」と呟いた。仕方なく記憶の底から活版印刷について引っ張り出して説明を始めたユーリだったが、思わぬ障害に悩まされることになった。なんと、判子や版画の文化がなかったのである。この後、彼女は終業時刻まで延々と説明し続けるはめになった。しかもうっかり「ゴム印」という単語を漏らしてしまったばかりに、ゴムがどういった素材なのかまで追究されることになる。これに懲りて、うっかり元の世界の知識を説明するときには注意深くなっていくのだが、それはまた別の話だった。
・‥…━━━☆
新しく翻訳の仕事に従事することになったユーリにとって、毎日はあっという間に過ぎていった。
元の世界に帰れないという衝撃はまだ受け止めて消化することはできてないものの、仕事に没頭することによって、少なくとも周囲に心配をかけるような表情を浮かべることはなくなっていた。もちろん、心の奥では、まだ納得しきれていない。それでも、まずは生活を安定させることが先決だと、ユーリはせっせと仕事をこなしていた。
(なんて、自己欺瞞だってことは分かっているけど)
ようやく慣れてきたペンを滑らせながら、ユーリは小さくため息をついた。
あれだけ一方的に、重苦しく、庇護したいと声も高らかに、公言して憚らないフィルがいるのだ。彼が結局、軍部の長官という元の役職に戻ったこともあり、彼を頼れば生活の安定など考えなくて済むことは分かっている。
それでも、彼に素直に頼れないのは――――
「ユーリさん、今日は昼を一緒にできそうだと、伝言があるんだけど」
「あ、はい、分かりました」
こうしてクレットを経由してフィルから昼食の誘いがあるのも、もう何度目か。
さすがに毎日というわけにはいかないが、彼がうまく仕事を捌けたときは、こうして昼食を一緒に取ろうという誘いがある。なお、直接フィルとやりとりしないのは、フィルの暴走を阻止する意味合いと、ユーリが魔力を介した伝信ができないという技術的な理由がある。
「毎回承諾してるけど、たまには断ってみてもいいんだよ?」
「それはさすがに……」
ユーリはクレットの提案に言葉を濁した。フィルの誘いがない日は、基本的に執務室でクレットと食事を取っている。ただ、同じ空間で食事をとっているだけで、別に差し向かいに座るわけでもないのに、フィルの嫉妬がすごいのだそうだ。
ユーリは食事中もときどき飛んでくるクレットの質問――主に元の世界の技術に関するものだ――に対応しなければならないため、どちらかというとお互いの日々の報告をするようなフィルとの食事の方が気が楽だった。もちろん、それを口にすることはない。
「正直なところ、ここまで女性に対してマメな行動を取るとは思ってなかったよ。もう少し、過去の文献を洗ってみようかなぁ」
・‥…━━━☆
「……というような状況だったんだ」
「すごいですね、皆さん。とても丈夫で羨ましいです」
ユーリは中庭の東屋で、フィルと向かい合って座っていた。初めてこの場所で昼食を一緒にとったときに、すぐ隣に座ろうとしたフィルを「なんとなく恥ずかしいから」というふわっとした理由で断ってからは、毎回このポジションである。
「そういえば……あら?」
ユーリはフィルに次の話題を振ろうとして、その人影に気がついた。中庭は基本的に王族しか使わないと聞いていたので、まだ対面していない王族がいるのだろうか、と純粋に考える。
(確か、フィルさんは三男で、お兄さんが二人とお姉さんが一人、弟妹は一人ずつ、という話だったっけ?)
やって来たのはすらりとした体格で背の高い……おそらく女性だ。竜人と一口に言ってもピンキリで、竜の因子が強く顔に出ている人だと顔の区別もつかない。それでも、ユーリは最近になって、ようやく男女の顔つきの印象の違いが分かるようになってきたところなので、あまり自信はなかった。確かに力の強い者はその顔が人間に近くなる傾向があるらしいが、あくまで「傾向」ということなので、勿論、例外もある。確実に言えることは、現在の王族の顔が人間に近くて助かった、ということぐらいか。さすがに国王や直属の上司、そして恋人の顔の区別がつかない、という最悪のパターンは免れている。
(ただ、竜人の年齢って正直分からないから困る……。寿命そのものが人間と大きく違うらしいから、仕方がないんだけど)
百歳まで生きれば十分長生きだという認識しかなかったところに、百歳がまだ青年レベルだと聞いたときのユーリの驚きは顕著なものだった。
やってくる人影については、確かフィルの姉は既に嫁いでいるという話だったので、消去法で妹だろうかと当たりを付けた。まだ子どもという話だったので、こちらに向かってくる女性がそうだとは言い切れないが、それもまた長命種族あるあるかもしれない、とユーリは強引に自分を納得させる。
「フィルさん。あちらの方も王族の方ですか?」
ユーリが指し示す方向を見たフィルは、ものすごく嫌そうな表情を浮かべた。基本的にユーリには笑顔か真面目な顔しか見せないので、こういった表情は貴重だ。
「俺の……副官だ」
「あぁ、不在の間に軍部を守ってくださったという」
副官は女性だったのか、と意外なものを見るような目で不躾な視線を向けてしまったからだろう。その女性がぺこり、と会釈をしてきた。慌てて会釈を返すと、「別にそこまで気を配らなくていい」と大変狭量なセリフがフィルの口から飛び出す。
こういったセリフに最初こそ「世界が違うと礼儀も違うのかもしれない」と困惑していたが、単なるフィルの独占欲と知った今では無言でスルーすることにしている。
「昼食を邪魔してしまい、申し訳ありません、番様。フィル殿下の補佐をしております、ロシュと申します」
「あの、気にしなくて構いません。急ぎの用事なんでしょう? あと、『ツガイサマ』というのも……ユーリと名前で呼んでください」
ユーリとしては、「番様」と言われると、まるでフィルの付属物のような気がして居心地悪かったのだが、彼女は「とんでもない」と大きく首を横に振った。
「王族の番を名前で呼ぶなどと畏れ多い――――」
「ロシュ、気にするな。名前で呼べ。ユーリはそういう扱いに慣れていないのだ」
正直、フィルに口添えしてもらって助かった、とユーリは思う。どうしても常識に疎いので、自分の要望をどれだけ通していいか分からないのだ。
「分かりました。それではユーリ様、と。――――それで、フィル殿下。こちらなのですが」
「……午後ではマズいのか?」
「フィルさん、急ぎだからこそ、わざわざお昼の時間に来ているのだと思いますよ?」
全身からやりたくないオーラを出していたフィルに、思わずユーリは口を挟んだ。本当は、あまり他人の仕事に口を挟みたくはなかったのだが、元の世界での苦い経験が頭をよぎったのである。
(あのサル上司、今思い出しても腹が立つ! 部下には午前中までにと言っておきながら、上司の確認が遅れるせいでスケジュールがカツカツになるんだって何度言えば理解するんだか! 忙しい忙しいって言いながら、昼休憩超過確定のちょっと離れたカフェにお昼食べに行くし!)
「ユーリ様のおっしゃる通りです。午前に処理していただいた書類にミスが……」
「いや、だが今はユーリと――――」
「フィルさん! お仕事を優先してくださって構いませんよ? それに組織のトップの書類にミスなんて大変じゃないですか。むしろそれを見つけてくださったロシュさんに感謝すべきだと思います」
仕事優先を勧めるユーリだが、やはり脳裏に浮かんでいるのはかつての上司への恨み言だ。普通は上司が部下の尻拭いをするものじゃないのかと愚痴をこぼしながら、同僚と終電間際まで頑張った日々を思い出すと、自然と拳に力が籠もる。
「それに、昼休みを返上してロシュさんが確認しなきゃいけないほど、期限ギリギリの書類が多いんですか? もっと余裕をもって処理していかないと、何かあったときにとんでもないことになりそうで怖いです。やっぱりスケジュールに余裕を持って仕事するのって、大事だと思うんです。こうしてお昼に時間をとってもらうのは嬉しいんですけど、やっぱり仕事を疎かにしちゃ……、すみません、言い過ぎました」
かつての自分とロシュを重ね合わせてつい熱弁してしまったことに気づき、ユーリは顔を赤らめて俯いた。そんな彼女にフィルが声をかけるより早く、動いた者がいた。
「素晴らしい……!」
ユーリに駆け寄ったロシュが、その手を取って片膝をついた。
「フィル殿下に番が見つかったと聞いて、いったいどんな相手かと不安でしたが、今のお話でとても心強い方なのだと分かり、心底安堵しました!」
「え、あの……」
「このトンチキ殿下は書類仕事を本当に面倒くさがって副官であるアタシに放り投げる鬼畜ぶり! このままコンコンチキ殿下の尻拭いを続けなければならないのかと絶望した日もありましたが、今のお言葉で明るい未来が開けました!」
「ロシュさん……?」
「このトンマ殿下は実務やら教練ばかりを考えて、書類仕事の大切さを知らないんです! ですが、ユーリ様が理解を示して下さるのでしたら、百人力です!」
熱のこもった言葉の数々に、ユーリは目を見開いた。そして、理解する。彼女はかつてサル上司に腹を立てながら仕事をしていた自分と同じなのだと。
「そうですね。実務ももちろん大事とは思いますが、書類仕事をないがしろにしていい理由にはなりませんよね。――――ということで、フィルさん。雇われの私ごときが言うことではないかもしれませんが、何事もバランスが大事だと思うんです!」
「いや、その、ユーリ……?」
「それに、腕っぷしが強いのも素敵だと思いますが、文武両道で仕事ができる人の方がもっと魅力的だと思います!」
「ユーリがそう言うのなら! よし、ロシュ、その書類はどれだ?」
素敵、魅力的、という言葉に踊らされたフィルはこれ以降、より一層机仕事に励むことになる。夕食の席でちょくちょく前倒しして仕事をこなしているアピールをすることも増えて、ユーリとしてはちょっと鬱陶しいと思うこともあったが、それも全ては部下の人たちのためである。にっこりと「さすがですね!」とヨイショすることを忘れなかった。
また、ロシュからは感謝の意をしたためた書簡とともに定期的に菓子類が届くことになった。気遣いのできる人はすごい、とユーリはロシュに好感を抱き、ロシュもユーリに感謝しきりで、成り行きのままに手紙の交換をする間柄となった。




