13.乱高下の勤務初日
「念のために確認なんだけど、これって読める?」
「はい、ちゃんと内容は理解できるみたいです」
出勤してすぐに案内されたのは、クレットの執務室の端にある小さな机だ。ここが今日からユーリの席になるらしい。ガラスペンとインク壺が置かれ、そして紙の束がどどんと積まれている。
昼休憩以外にも、随時、休んで構わないことや、クレット以外にここに出入りしている文官には「フィルが戦地で拾ってきた人材」とだけ伝えてあることなど、一通りの説明を受けた後、何やら古びた本を渡されて質問されたと思えば、クレットは両膝をついて手を組み、ユーリを拝んできた。
「あのっ、そんな大袈裟な……っ」
「いやいや、大袈裟なんかじゃないんだよ。だって、もう失われた言語だよ? この言語を使ってた文明すら伝説レベルなのに、僅かに残った本や碑文なんて読めるはずもないって諦めてたレベルだからね?」
そんなことを言われても、とユーリは思う。ただ、今の説明を聞いて疑問も湧いた。
「あの、この世界には長命な種族がいると聞いていたんですが、それでも伝説になるレベルって、よほど昔の文明なんでしょうか?」
「あぁ、長命って言っても、自分の国に引きこもってることが多かったりするからね。その有り余る寿命を使って見聞を深めている種族なんて、まず、いないから。いたとしても相当な変わり者扱いだろうね」
「そういうものなんですか……」
この世界にどんな種族がいるかはフィルさんから教えてもらったが、そういった深い知識まではユーリにはまだない。まだまだこちらの世界での常識が足りないな、と自覚する。
「それで翻訳先の言語なんだけど、これを手本にしたら書けそうかな」
「はい。この言語って、共通語、ですよね? 大陸で広く使われてるっていう……」
「あぁ、そういうのは分かるんだね。そうなんだ。共通語に翻訳できれば、他の研究者にも内容を広めやすいからね」
あぁ、翻訳内容を秘匿するわけじゃないのか、とユーリは意外に思った。なんとなく研究者のような雰囲気を醸し出すクレットは、研究内容を隠すタイプに見えたのだ。
「この本……、休憩時間に読んでもいいですか?」
「もちろん、そのつもりで用意したから。――あぁ、翻訳は別に急がないからゆっくりで構わないよ。こちらの筆記具にも慣れていないだろうし、練習のつもりでね」
ひらひらと手を振って自席に戻るクレットを見送り、ユーリは手元に残された本を見つめた。共通語で書かれたその本の背表紙には「彷徨い人の事例集~ビジタ・Cによる聞き取り~」とあった。つまり、ユーリより以前にこの世界にやってきた彷徨い人の資料らしいのだ。すごく内容が気になって仕方がない。
ユーリは視線を本から引き剥がし、気持ちを切り替えるようにひとつ頷いてイスに座った。間に合わせにしては、随分と質の良い机とイスに驚いた。イスの座面と背もたれのクッションが程良い柔らかさで、あちらの職場のイスとは比べものにならない座り心地だ。
(よし、頑張ろう)
渡された本の内容は気になるが、とにかく仕事を優先させようと、古びた本を慎重にめくる。
(でも、この本、本当に翻訳してしまっていいのかな)
伝説扱いされるその文明が、どういった文明なのかさっぱり分からないが、少なくとも本の内容は、学術的な価値がなさそうに思えた。
(だって、『あがり症のあなたに教える3つのこと』なんて、完全に自己啓発本じゃない?)
それでも、もしかしたら全く別の価値があるのかもしれない。そう思い直してユーリは仕事に取り組み始めた。
・‥…━━━☆
一方その頃、フィルはめでたく副官ポジに戻ったロシュに、徹底的に絞られていた。
「ちょっと待て! 明らかにこの量はおかしいだろ!」
「あら、それはアタシがサボっていたとでも言う気ですか?」
「さすがにそこまでは言わないが……」
「副官の権限で回せるものと回せないものがあるんですよ? 一時的に長官代理には任命されていましたけど、1人で2人分の仕事なんてできるわけありませんよね?」
「ぐ、わ、悪かった……」
素直に謝るフィルに、ロシュは思わず身震いした。
「やだ、フィル殿下がこんなに素直に謝るなんて、雪でも降るんですかね?」
「そこまで言うか?」
「これが番効果ってやつですか。成程、その方がいらっしゃるという資料室の方を拝んでおきましょう」
「否定はしないが、ひどい言われようだな!」
クレットの所に預けたユーリが気になるが、とにかく早く仕事を終わらせようと、フィルは書類仕事だというのにいつになく集中力が続いていた。
「あらー、本当に番ってすごいんですね」
「他人事のように言うが、ロシュも自分の番に遭遇する可能性はあるからな?」
「はいはい。出会えたら素敵ですねー」
「聞けよ!」
・‥…━━━☆
「ユーリ? 大丈夫か?」
「あ、フィルさん。迎えに来てくださったんですか?」
自分の仕事を、それこそ副官であるロシュが「ありえない」と目を疑う程の速さでこなしたフィルは、無事にユーリの退勤に合わせて迎えに来ていた。
そうして朝にここへ送り届けたときから顔を見ていなかった彼女が、ひどく憔悴しているのを見て、思わずクレットを睨み付ける。
「フィル兄上、言っておくけど、僕は何もしていないからね」
「だったら――――」
「むしろ僕は、何も言ってなかった兄上にびっくりしたぐらいだから」
「それはどういう」
クレットはこれ以上話すことはないと、ユーリに向き直った。
「ユーリさん、それじゃ、また明日。今日はゆっくり休んで」
「はい」
ぺこり、とクレットに頭を下げると、ユーリは歩き出す。フィルは慌てて彼女を追いかけた。
「その……何があったのかを聞いてもいいだろうか」
「……」
ユーリはフィルの問いかけに、小さくかぶりを振ると、足を止めずに歩き続ける。
「待ってくれ! せめて、……そうだ、中庭に行かないか。何があったのかは知らないが、少しでも心が安らぐかもしれない」
「あの、本当に、大丈夫なので」
小さな声ながら、その誘いを拒否するユーリは、フィルと視線を合わせずにただひたすら自室のある方向へと歩く。だが、それをフィルが遮った。
「……どいて、もらえませんか」
通路を塞ぐように目の前に立ったフィルに、ユーリは怯むことなく告げる。するとフィルは彼女を軽々と抱き上げると、そのまま窓から外へ飛び出した。
ひっ、と小さな悲鳴を上げるユーリを抱いたまま、自らの翼を広げる。だが、いつかのように空高く飛ぶことはなく、まるで滑空するように城の片隅にある厩舎へ向けて下りていった。
「フィルさん……?」
困惑するユーリを抱いたまま、厩舎に向けて名前を呼ぶと、そそくさと一頭のグリフォンが飛び出してきた。もちろん、フィルの騎獣であるミイカだ。
「ミイカ、お前の翼を借りるぞ」
まるで返事をするように一鳴きしたミイカに、フィルは飛び乗った。
・‥…━━━☆
「……ここ、どこですか」
「城の北側に広がる、あー、山の中だな」
ミイカから下ろされたユーリは、ぺたり、と地面に座り込んで、恨めしげにフィルを見上げた。
「どうして、ここに?」
「だめだったんだ」
フィルは、ユーリの目の前にしゃがみ込むと、まるで壊れ物でも扱うかのように恐る恐る彼女の頬に触れた。
「ユーリがそんな顔をしているのが耐えられない。何かつらいことがあるなら教えて欲しいし、吐き出したいことがあるなら、何時間だって聞く。泣きたいなら胸を貸すし、泣き顔を見られたくないなら、しばらく離れたところにいる。だから……頼む。そんな顔で耐えようとしないでくれ」
ユーリはじっとフィルの顔を見た。「そんな顔」と言われたが、むしろそう言っているフィルの方がつらそうな表情を浮かべているように見えるのが、なんだかおかしかった。
そんなふうに思っていたら、なんだか、胸につかえていたものがストンと落ちて、口が自然と開いた。
「……私、すごい勘違いをしていて」
「あぁ」
「ユーリって名前だと誤解されるきっかけになった小説でも、そうだったし、他の色んな小説でも、最終的には……だったから、私もそうだって思ってて」
「あぁ」
認めたくない、その思いにユーリの声が震える。
「なんかの、拍子に、元の世界に、……案外、あっさりと、帰れたりするんじゃないか、って、ずっと、思ってて……!」
ユーリの瞳から、涙がぽろり、とこぼれた。
「だって、おかしいじゃないですか。何の前触れもなく、いきなり異世界に来てしまったんですよ? 帰るのだって、やっぱり前触れもなく、いきなり……なんて、都合のいいことばかり」
「それは――――」
フィルはようやくクレットの非難めいたセリフの意味を理解した。
――――彷徨い人は、元の世界に帰れない。
それは過去の事例を紐解いても、元の世界に戻った例や行方不明となった例はない。さらに彷徨い人が様々な言語を理解できることについて言及された論文でも、全言語を理解できる恩恵が世界を違えたときに付与された恩恵であり、この世界で生きるために心身を作り替えられたという説が有力視されており、世界から恩恵(=祝福)を与えられた以上、元の世界に返されることはないのだと言われている。
フィルは彼女にそれを意図的に伝えなかったわけではない。彼にとって空に太陽があることと同じくらいの常識だったために、わざわざ伝えることをしなかったのだ。
「どうして、私だったの? 職場の同僚にも、友達にも、家族にも、もう二度と会えないの……? こんなのって、ない。ひどい。夢なら醒めてくれればいいのに……!」
とうとう声をあげて泣き出してしまったユーリは、すぐ隣にあった温もりに縋るように抱きついた。
――――グリフォンの羽毛は柔らかく、厩舎の担当が毎日ブラッシングをしているおかげか目立った汚れもない。ふかふかだった。
「……」
思わずジト目でミイカを見てしまったフィルだが、ユーリが泣きついているのを引き剥がして、彼女を抱き込むのも躊躇われる。
ミイカはミイカで、抱きついてきたユーリに迷惑そうな視線を向けた後、なぜかフィルの方を生温かい目で見てきた。明らかに同情されている視線に、フィルの肩が自然と落ちる。
そんな主従の無言のやり取りを知らないユーリは、会えない人の名前を呼んでは泣くことを繰り返していた。
・‥…━━━☆
「落ち着いたか?」
「……っく、はい、お見苦しいところをお見せしてしまって、申し訳ありません」
目元を真っ赤に腫らしたユーリは、フィルの軍服のジャケットを頭から被っていた。泣き顔を見られたくないだろうというフィルの配慮なのだが、軍服という性質上なのか、それとも竜人の頑強さを基準に作られているせいなのか、ジャケットというより布団に近い重さに、ユーリはちょっぴりつらくなってきていた。
「弁解を、させてもらえるだろうか」
「弁解ですか?」
何のことか分からずに、ユーリは目を瞬かせる。
「彷徨い人と聞いた時点で、その、もう元の世界に戻れないことは知っていた。変な期待をさせぬよう、もっと早くに伝えておくべきだった。すまない」
「え? いやいやいや、その、フィルさんが謝るようなことじゃないですよ? だって、別にフィルさんのせいで、こっちに来たわけでもありませんし」
「あと、できれば今後泣きたくなったときには、俺の胸を使ってくれ」
「胸を使って……? え、あ、その……」
「恋人を胸で泣かせてやれないのは、こちらとしても、寂しいんだ」
言うなりフィルは、ユーリの身体を引き寄せた。フィルよりもずっと華奢な彼女の身体をそっと抱きしめる。ふわりと香る甘い匂いに、フィルの本能が瞬間沸騰しそうになる。だが、傷ついている彼女の心の隙をつくわけにはいかない、と必死で理性をかき集めた。
そんな主の様子を眺めるミイカは、やれやれ、と首を振った。
「そ、そうでしたよね。私、まだ、フィルさんと恋人同士っていう実感がなくて」
「遠慮はいらない。ただ、泣きたくなったら呼んでくれればいい。ユーリの元の世界の話でも、会いたい人との思い出話でも、なんでも聞く準備はできているから」
「フィルさんは、私を甘やかし過ぎじゃないですか?」
「このぐらい普通だろう。……あぁ、既に成人しているんだったな。それなら、酒で発散してみるか?」
「あー、お酒はやめておきます。私、一度、お酒で失敗しちゃっているので」
「そうなのか? 良ければその話も聞かせてもらいたいが、そろそろ戻らなければ城の者に心配をかけてしまいそうだ」
「いけない! そうですよ! 食事を用意してくださっている方とか、きっと迷惑かけちゃってます!」
むしろそこは仕事だから問題ないんだが、という王族感覚のツッコミを飲み込み、フィルはそっと抱きしめていたユーリの身体を離した。
「――――もう、大丈夫か?」
「えぇと、あまり大丈夫とは言えないんですけど、でも、おかげでスッキリしたと思います」
すん、と鼻をすすったユーリは、被っていたジャケットをフィルに返すことにした。
「冷えるだろう。そのまま羽織っていてくれて構わない」
「大丈夫ですよ。むしろそのままじゃフィルさんの方が風邪を引いてしまいます」
あぁ、やっぱり俺の番は優しい、と誤解に胸を震わせてフィルはジャケットを着直した。自分では全く重く感じないジャケットが、彼女にとっては文字通り重荷になっていたとも知らずに。
・‥…━━━☆
「――――それで? 何か弁解はあるのかしら?」
「弁解もなにも、やましいことは一切していません」
ユーリと共に、少し慌ただしく、けれど少し距離の近付いた気がする夕食を終えた後、フィルは青の間に呼び出されていた。呼び出したのは王妃、そしてストッパーのつもりなのか王太子であるレータも同席している。
「たとえ、やましいことが何もなくとも、事前の許可を得ずにグリフォン単騎で城外に連れ出すなんて、もってのほかだと思わないの?」
「それは、……その、彼女が落ち込んでいたので、やむをえず」
「……ですって、どう思う?」
話を振られた王太子は、首を横に振った。
「慰めるだけなら、城の外に出る必要はありませんね」
「そうよねぇ。中庭で十分でしょうに。それに、あのお嬢さんは空を飛ぶのを怖がっていたという話なのでしょう? それなのにわざわざグリフォンで連れ出す、なんて、不埒な思惑でもあったのかと勘繰られるのは仕方のないことよ」
フィルはぐうの音も出ない。確かに城の外へ連れ出すのは早計だったかもしれない。だが、彼女のあの表情を変えるには、発散させるのが一番だと思ったのだ。まだ城の中の生活に慣れていないし、城内よりは外の方が耳目もなく、思い切り発散できるだろうという配慮をしたのだが……。
「フィル、そもそもあなたのせいで、あのお嬢さんの存在が広まってしまったという自覚はあるのよね?」
「それは……仕方のなかったことだと」
「あなたの弱点だと狙われているのに?」
「違うんです、母上。あのときは、番の誓約をすれば、彼女に危機が及ぶこともないと――――」
「でも、現実には誓約できていない、そうでしょう?」
がっくりと項垂れたフィルを横目に、王妃は王太子レータに話を振る。
「いっそのこと、代役でも立てる? 番だと他の子を表舞台に出してみれば、そちらに注目も刺客も集まるわ」
「それも手段の一つとして考えておきましょう。人間の女性、あぁ、黒髪であることぐらいは広まってしまっているかもしれませんから、人選を――――」
「待ってくれ! いや、待ってください、母上」
そんなことを進められては困る、とフィルは大声を上げた。
「婚約者とまではいかなくとも、恋人にはなっているんです! それなのに、他の女性の存在が彼女の耳に入ったら……!」
「そうよねぇ、ただでさえ前の恋人から二股掛けられてふられているという話だし、とっとと見切りを付けられるわね」
「それが分かっているのなら、なぜ!」
「フィルが不甲斐なくもあのお嬢さんを口説けていないし、そもそも、あのお嬢さんの方が大事だからよ」
王妃は「彷徨い人が国にもたらす利益を考えたら当然でしょう?」と理由を告げる。冷たいようだが、国を運営する立場として当然の取捨選択だった。
「もちろん、あなたが彼女と番の誓約を結ぶのが最善よ。でも、それが無理そうなら、彼女の方が国にとって重要人物なのだから、優先するのは当然でしょう?」
「……」
「厳しいことを言っているのは分かっているわ。でも、そう言わざるをえないの」
「フィル、母上も家族の情との板挟みになっていることぐらい、お前にも分かるだろう?」
項垂れるフィルに同情したのか、レータが王妃さらなる追撃を防ぐように口を挟む。
「母上も、番を持つ竜人がどれだけ一途になるか、記録を読んで分かっているでしょう。あまり追い詰めないでやってください」
竜人に限らず、番を持った者というのは総じて『一途』になる。ただ、この『一途』という言葉が便利に使われているのは少々問題だった。
ある者は他種族を番としてしまったために、相手の理解を得られず、思い悩んだ挙げ句に無理心中を図った。
ある者は番を守るために一騎当千の活躍を見せた。
ある者は番を失い、発狂して付近一帯を荒れ地に変えた。
ある者は番を得てからは温厚になり、かつての乱暴者の片鱗すら感じさせなくなった。
どれも典型的な例だが、あまりにもプラスとマイナスの振れ幅が激しいのだ。フィルも英傑と謳われるに足りる武力の持ち主だ。マイナスの方向に事態が転がってしまった場合の被害を考えると、恐ろしいものがある。
「フィル、オレはお前と彼女が上手くいけばいいと思っている。今は彼女を守るためにお前と距離を置かせてしまっているが、アドバイスぐらいはしてやれる」
「アドバイス……?」
「彼女は一方的に庇護しなければならないほど弱くもなければ、自立心も強い。もちろん、彼女を守るのは当然だが、彼女の自立心も守ってやるといい。あの手の性格は、一方的に囲って守ろうとしても逃げられるだけだよ」
「あら、レータ。随分を知ったようなことを言うのね? どなたか懇意にしている方と性格が似ているの?」
「母上、そういう詮索はナシにしてください。――――クレットも彼女の真面目な仕事ぶりに喜んでいるし、少なくともこのまま翻訳の仕事は続けられるだろう。彼女はまだ世界を違えたショックから立ち直れていないようだし、とにかく寄り添って、支えて、彼女にとっての第一のポジションを維持するんだよ」
とても的確に聞こえる長兄のアドバイスを、フィルはまっすぐに受け止めた。ただ、どうしても疑念は残る。
(レータ兄上は、どうしてそこまで彼女の心を推し測れるのだろう。……そこまで女遊びは激しかっただろうか?)
女たらし、浮気者、そんな言葉が頭をよぎったが、証拠もないこと、とフィルは不穏な言葉を振り払った。




