01.世界は救われた
――――その日、世界は救われた。
五年前に突如始まった魔物の大侵攻は、平穏な営みを送るものたちを恐怖のどん底に突き落とした。
原因が何なのかも分からない。それまでも魔物が人の生存圏を脅かすことは度々あったが、それも一つの群れが侵す程度、悪くても村落が地図から消えるぐらいの被害しかなかった。
だが、五年前は何もかも違っていた。西の果てと呼ばれる荒野には、強力な魔物が住まうとされていたが、人が踏み入る理由もなく、そこから先は魔物と領域として区分けされていた。その西の果てから大量の魔物が東進してきたのだ。
西の果てに接しているいくつかの国は壊滅し、いがみ合っていた人や亜人も手を取り合い、溢れるようにやってくる魔物を倒し、屠り、切り捨て、殲滅し続けた。もちろん、人側の被害も大きく、各国から呼び寄せられた精鋭たちがいくつもその命を散らす結果となった。
永遠に続くかと思われた魔物の侵攻ではあったが、いつの頃からかゆるゆると数が減り始め、今日この日、とうとう収束宣言がなされたのだった。
最終的に最前線となったここシュルツの王城では、収束を祝う宴が開かれていた。前線で戦った英雄達を褒め称え、東の国々から送られた援助物資を余らせないようにとばかりに、馳走が並ぶ。宴には主催者であるシュルツの王族を筆頭に、前線で生き延びた英傑が思い思いの姿で談笑し、舌鼓を打っていた。
英雄、英傑と呼ばれる中でも、特に活躍目覚ましかった五名は『救世の五英傑』と称され、宴の席だけでなく、危機からの解放を喜ぶ一般市民たちも賞賛の声を上げていた。ここぞとばかりに、吟遊詩人が即興で歌を紡いでいく。彼らの作った歌が、やがて大陸全土へと広がり、その勇姿は永遠に語り継がれるのであろう。
一人はシュルツのすぐ東側にある人族の国セヴェルマーツの騎士。彼の操る槍は、一振りで何百もの魔物を屠った。
一人は遠い東国、叡智の図書館と呼ばれる古代図書館を有するエルフの国サランナータの魔女。彼女の呼び出した雷は闇夜を照らし、蠢く魔物共を殲滅した。
一人は西の果てに面していた亡国トゥミックの獣人将軍。愛馬に跨がり振るわれる長柄斧は疾風を巻き起こし、仇為す魔物を切り伏せた。
一人は地下に住まうというドワーフの勇士。自ら作り上げた新種の火薬武器は、遠くの魔物を貫いた。
そして最後の一人は大陸の中央に位置する竜人の国シドレンの第三王子。その膂力はすさまじく、ハンマーで魔物をすり潰すだけでなく、自身の翼で空を駆け、魔物の中でも特に巨大な魔物を一人で絶命せしめた。
「フィル殿、フィル・リングルス殿!」
振る舞われたワインを堪能していた青年が、呼びかけに応じて振り向いた。ここに集った人達の中でも頭1つ抜きん出て背が高く、彼を探すのは容易だったに違いない。だが、声を掛けるとなると別の障害が存在する。彼は竜人であり、肌にいくつも浮かび上がった白銀の鱗や頭から生える見事な角など、人間とは違う差異が宴の中でも彼を一人にしていた。
「これは、魔女殿ではないか」
魔女殿、と呼ばれたのは、小柄な少女だった。故郷に戻るまでは、脱ぐ気はないと言っていた黒いローブには、同じ黒い糸でびっしりと魔法陣が縫い付けられている。これによって万が一の防御や魔力の底上げなどをしているという話だが、門外漢のフィルにはさっぱり分からなかった。
「そんな他人行儀な呼び方はいらないよ。戦場ではお互いに呼び捨てだったじゃない」
「だが、先に『殿』とくすぐったいものを付けたのはそちらだろう?」
「うー……、じゃぁ、フィル、アンタこれからどうするの?」
「どうするもなにも、ただ国へ帰るだけだが」
彼が母国を離れてシュルツまでやってきたのは、あくまで魔物の大侵攻に対処するためだ。竜人ばかりの国の中で、それなりの地位があり、万が一命を落としても国にとっては痛手にはならない、ついでに腕も立つ――そんな選抜基準で送られた彼は、当然のように予定を告げる。
「じゃぁさ、あたしがアンタの国に寄ったときに、調べ物をする許可をもらえないかな」
「……イングリッド、書物を調べる程度なら俺の権限でなんとかなるが、さすがに試料は融通できないぞ」
「うぐ! べ、別にいいもん。個別に交渉するから!」
「怪我や自然に剥がれた場合なら、鱗の提供もできるだろうが、それ以外なら、皮膚や爪を剥ぐようなものだからな?」
魔物を食い止めている最中にも関わらず、何度も「鱗ちょーだい」と絡まれた覚えのあるフィルは、ガッツリ釘を刺した。
それも、魔物の侵攻を食い止めるための何かになるのなら提供もいたしかたないと思えたのだろうが、イングリッドの場合は完全に個人の興味、研究のためだ。とても痛い思いをしてまで渡そうとは思えない。
「えー!? レーベ将軍は髭と爪を快く提供してくれたのに!」
「……生え替わるものだからだろう」
遠くで別の人と話をしていたレーベ将軍は、小麦色のたてがみに埋もれた丸い耳をぴくりと揺らしたが、どうやら無視することに決めたようだ。彼もこの厄介な魔女の探究心には辟易していたらしい。
「とにかく、書物だけなら王族権限でどうにかしてやる。それで我慢しろ」
「ぶーぶー」
文字通りぶすくれた魔女を置いて、フィルは人の行き交う広間を抜け、バルコニーに出た。
夕刻に始まった宴だったが、いつの間にか星が瞬く時間帯になっていた。
(久しぶりに落ち着いて星を眺めたな)
そんな時間も自分たちが戦ったことで取り戻せたのだと思うと、あの地獄のような日々が報われた気がする。人間だの竜人だの亜人だのエルフだの、いがみあっていたことなど嘘のように、出身や人種関係なく、魔物との戦いを続けていた。その戦いの中で何度別れを経験したかも分からない。ただ、ほんの僅かな立ち位置、半歩程度の踏み出し、それが生死を分けるような状況だった。
運良く生き残り、五英傑だのと謳われるようになってしまったが、フィル自身は大侵攻を食い止めたという達成感と、一つの大きな仕事を終えた空虚な想いの間でゆらゆらとしていた。
「国に帰ったところで、兄上の補佐もできないだろうな」
ひたすらに武を磨き、周辺諸国を睨み付ける役割を担う予定だった彼は、魔物の大侵攻という局面で武功を立てることができた。ただ、今後はどの国も復興に力を入れるだろうし、そうすると彼の武力は無用の長物になるのは想像に難くない。ならば、別の道を模索するのが妥当だが……残念なことに、フィルにはその意欲がさっぱり湧いてこなかった。燃え尽き症候群と言ってしまえばそれまでなのだろう。
「あー……、いっそのこと帰らずに諸国を放浪でも――――、ん?」
それに気がついたフィルは、まるで睨み付けるように何もない空間に視線を定めた。微かだが、彼の鼻はその匂いを嗅ぎ取っていた。甘く、虫を誘う蜜のような、甘美な香りを。
「まさか……?」
宴の途中であることも忘れ、フィルは空高く跳躍した。背中に畳んでいた翼を広げ、上空でシュルツの城下を見据える。
「あのあたりか!」
匂いの元を探し出したフィルは、まるで魔物に立ち向かうときのような速さで急降下する。それを見ていた見張りの兵士が、魔物の残党か、と慌てて報告に走ったとも知らず。