一 ~ そんなのできるわけがないだろっ ~ (6)
理性。
理性を保つのが一番なんだと思う。
今はそうだろ。
4
理性。
……そう理性。
いや、怒り?
それとも邪な欲望?
何に感情を任せるべきなのだ、僕は?
いやいやいや。
やはり、ここは理性を保つべきなのである。
しかし……。
憎らしいから、襲ってやろうか。
野菜ジュースで汚れてしまったシャツを眺めてしまうと、そんな欲望も失せてしまう。
それよりも、この染みが目立たないようにと、ハンカチで何度も叩いた。
数分前に起きた出来事。今田姫香に襲われたのは夢なんだと、信じたいのだが、必死に動いている手が現実なんだと訴えてくる。
ふと手が止まり、大きく溜め息をこぼした。まったく、混乱は治まってくれそうにない。
「こいつ、こんなところにホクロなんてあったのか」
丸椅子に座る僕の前にはベッドがあり、今田姫香が静かに眠っている。
先ほどまでの狂気的な雰囲気はまったくなく、穏やかである。
普段の優しそうな表情であり、それまで気にしていなかったが、唇の左下辺りに、小さなホクロがあった。
そんな寝顔がより憎らしさが倍増しそうだ。まったく……。
「……血? 吸血鬼? んなわけないだろ」
ダメだ。急に頭が痛くなり、頭を抱えてしまった。
大体、そんな素振りなかったーー
「ーーうわっ」
思わず声が出てしまい、体を反らしてしまう。視線を落とすと、姫香が目を覚ましていた。
さっきのことがある。体が無意識に拒否反応を起こしてしまった。
姫香は呆然としたまま、虚ろに天井を眺めている。
「……今田?」
怖いはずなのに声をかけてしまった。
すると、数回まばたきをすると、おもむろにこちらに顔を向けた。
その姿はどこか男に怯えているように見える。それならば、先ほどの姿はやっぱり、嘘?
「……古川くん?」
ようやくこぼれた声。怯えていても、透き通る声に僕もホッと胸を撫で下ろした。
姫香はゆっくりと体を起こし、ベッドに座り込むと、掛け布団を腰の辺りまで引き上げた。
姫香はまだ状況を把握していないのか、額を手で押さえたり、黒髪を撫でたりと、執拗に体を確認して唇を噛んでいた。
「あの、大丈夫か?」
動揺する姫香に声をかけるが、耳に届いておらず、忙しなく制服姿の自分を眺めている。
そこで、自分の胸の辺り眺めていた目が止まった。
胸元の汚れに気づいて。
姫香の胸元も僕と同じくオレンジ色の染みが広がっていたのである。
さて、なんでこんなことになっているんだ。
と、疑いの眼差しを僕に向ける姫香。あたかもやましいことをしたみたいに、蔑んだ疑いを鋭くさせて。
そこで、姫香は自分の身を守るように、掛け布団を肩の辺りまで引き上げ、胸元を隠して体を丸めた。
まったく……。被害者は僕だろうが。
さて、どうしてこうなってしまったのか。
疑問は簡単だ。僕が姫香をこの保健室に連れて来て、寝かせたのだから。
むしろ、感謝してほしいものだ。
教室で突然倒れた姫香。気絶か眠っているのかわからない様子の姫香。
教室には僕以外誰もおらず、そのまま放っておくのもしのびなく、仕方なく保健室に連れて来たのである。
三十分ほど前のことである。
それからずっと寝ていた姫香。本当はすぐに帰るつもりでいた。
でも帰れない。
だって、あの出来事。帰るのもどこか怖いじゃないか。
そうだ。忘れていたが、僕はカラオケに誘われていたな。どうやら、それは無理みたいだ。
目を閉じると、それまでの出来事が走るように甦ってくる。心臓が締めつけられそうに痛い。
「……あ、喉渇いちゃった……」
最悪な日に嘆いていると、淡々とこぼれた姫香の声に、背筋が凍り、背筋を伸ばした。
すると、姫香がじっとこちらを見ている。何かを求めるようにして。
いや、そんなに見られても……。
「……えっと、何?」
何を求めているんだ、と叱咤してしまいそうになるが、すでに遅い。
唇を噛む姫香。何かを請うような視線に、僕は息を飲む。
「……ねぇ、咽が渇いた」
先ほどの教室での笑みが蘇る。咄嗟に首筋を手で覆って隠した。
血を吸われる。
バカらしいが、そう判断してしまった。
「……ねぇ」
「いや、無理、無理、無理っ」
すぐさま両手を見せて制した。絶対に血なんか吸わせないと、断固拒否である。
すると、姫香はキョトンとして僕を見ていた。
違うのか、と僕も小首を傾げてしまう。それでも何かを求めるような雰囲気は拭えていない。
大きくうなだれてかぶりを振る。
ややあって、僕はおもむろに立ち上がった。
「……何がほしい?」
「野菜ジュース」
待ってました、と歓喜に似た声を上げる姫香。その声にまたしても僕は大きく溜め息をこぼした。
おい、おい。
被害者はこっちなんだ。
それなのに、従わなければいけないのか……。