第2話 灰塵の理想郷
少年は燃え盛る炎の中を駆け抜けた。幼い妹を火の届かないところにいる様に口止めして自らは火の海に飛び込んだ。
知り合いの死体と、今まで見慣れた光景が全くの未知である事を受け入れられずに叫んだ。
誰かいないのかと叫んで、返ってくる事のない返事に歯を食いしばって。妹と帰るはずだった家路を一人で駆け抜けた。
いつも見ている光景は焼き尽くされて、当たり前だった光景は崩壊している。
ハクは喉に迫り上がる感情を今だけは吐きださずにいるために押さえ込んだ。燃え上がる炎は木々を焼き尽くし、地面に生えた小さな雑草でさえも焼き尽くす。
燃え広がる炎によって木造建築だった民家は焼け落ちて崩れ落ちる。今日の朝まで見た光景が、まるで夢のように崩れ去る。
ハクと同じ村に住んでいるのだから、顔を合わせた事も会話をした事だってある。
だがそんな事は初めから幻想だったかのように、情けなど無いとばかりに仲良く喋った事もある人達の家が焼け落ちた。
そして崩れた隙間から覗く人型の黒炭が惨劇を深く表していた。
知り合いが死に絶えている光景に震える膝を叩いて動かした。
涙で前が見えなくなりながらも家に走り、両親の安否を確認しようと戸を開けたとき。
「なんで、どうして……」
戸を開けたとき、ハクの目に飛び込んできたのは血塗れの両親だった。その絶望とまで言える光景に耐えきれず半狂乱になって暴れ出したい感情が込み上げてくる。だがそれを止めたのも彼の両親だった。
目を背けたい衝動に駆られながらも現実を受け止めきれずにいたが故にハクは両親の腕が動いたことを見逃さなかった。
燃え盛る炎の中で横たわる両親に駆け寄り、家が崩れる事など忘れて声をかけた。
「父さん!母さん!」
動いた事が幻でなければと願いながら、ハクは両親を引きずって家から出た。
大人2人分を背負って運ぶ力も時間もなかったが、それでも生きているなら助けられると信じて。またいつもと同じ様にと願って引きずった。
だが引きずられる事へ何の反応も示さない死体をハクは直視できなかっただけ、時間と共に軽くなっていく荷物に、涙が溢れ返る。
「遅くなった事は謝るから……、これからは畑仕事も手伝うから……。父さんの自慢していたトマトを僕もちゃんと手伝うから、母さんの手料理を残したりしないから……」
家が音を立てて崩れ去った。
吹き荒れる火の粉を力の限り払って、ハク自身の服が燃えていようと動かない両親だけは燃えるなと叩いて散らした。
「だから……、だから目を開けてよ!」
助けを呼ぶにも人が居らず、登る煙を見て助けに来てくれる人などいない。
火消しは街にしかいないので、今この辺境にある村程度に都合よく現れる事もない。ハクがいくら頑張ろうとも、たかが少年如きが身を粉にして動こうとも、
救えない物は救えない。
この村を立て直す事も、既に死んでしまった人を生き返らせる事も、
そして既に死んでしまっている両親は医者に見せようとも直りはしない。
「死なないで……隣村には薬士がいるんだ」
荷物から重みが失われていく。大切な何かが失われていく感触がして止まない。
泣きはらしながら引きずって、何度も死体に向かって声をかけ続ける事だけを繰り返した。気づいていながらも、それを真実だと認めずに意固地になって進んでいた。
「きっと治る。そうすればいつも通り……」
完全に失われた。
それは家族であるハクが一番よくわかっていた。
「なんで、なんで……!どうして……こうなった」
ハクには見当もつかない出来事。学び舎に通っていない少年に理解できるほど世界は優しくできてはいなかった。
「こいつか?例のガキは」
黒ローブを着込んだ人影がいくつも立ち並んでいた。
この村には存在しない人だと直感で理解し、助けに来てくれたのかと淡い希望を抱こうとするが、それな物すぐに打ち砕かれた。
黒ローブの者達の手にあったのは、松明。
火をつける用の炎を纏った木の棒で、この惨劇を生み出した元凶だったからだ。
「お前がぁぁああ!!」
この村を焼き討ちにした者達への憎悪、だがそれ以上両親を殺された事への怒りでハクは掴みかかった。
全力で相手を殺すつもりで飛びかかり、黒ローブの者たちの1人を殴りつけた。
このまま嬲り殺してやると物語る形相で飛び掛かったが、相手もたかが子供の攻撃を二度食らう馬鹿ではなかった。
不意打ちや初見でない限り子供の感情任せの攻撃が通じるはずもなく、瞬時に組み伏せられて地面に這いつくばった。
「久しぶりだな、ハク」
こんな奇妙な知り合いがいるものかと突っぱねたかった、だがフードを取り露わになった顔を見て怒り以外の感情は出てこない。そして冷静になることなどできずに暴れ始める。
「ふざけるなぁあああ!」
そこにいたのは邪悪な笑みを浮かべたダミアンだった。
ハクと同じ屋根の下で暮らし、最も苦手とした人間である彼がこの惨劇の首謀者。
その事実は何よりも耐え難く、この場で喉を切り裂いてやるとハクは腕を伸ばす
「お前に用はないが、お前が隠した妹に用がある」
だから生かしてやると言ったダミアンにハクは自身の歯を噛み砕いた。
憎悪と恐怖と絶望と怒りが全てまとめて敵意と成してダミアンを殺すべく身体を起こそうとする。だが子供の力で押さえ込んだ大人2人分を退かす事などできず罵詈雑言を怒鳴り散らした。
「流石に驚いたさ、まさかなりすました男の家族に使徒がいるなんてな」
高笑いを始めるダミアンを見上げながら、話が全く頭に入ってこないが、ティアが危険にさらされている事だけは理解してハクの表情はより深く絶望に沈む。
「ちょうど金だけ奪って逃げてやろうと思っていたが、使徒がいるとなれば話は別だ。国に売った方が金になる」
「お前……そのためだけに!金のためだけにこの村を燃やしたのか!」
金のために身分を偽って家に入り、その上家族まで奪っていった男に憎悪のこもった罵倒を投げつけた。
「そんな事はどうでもいい」
だがそんな物は関係ないと、聴きなれない単語を出してハクの首を掴んだ。
「使徒を出せ」
ハクは使徒と言う言葉に聞き覚えはなかった。今初めて聞いた言葉で何一つとして理解できなかった。だが掴まれた腕に力が入り、何も答えなければ首をへし折られると予期した。
「そんな物は知らない……」
本当に知らなかったが、それを聴きたいダミアンの表情は酷く怒りを露わにしており。ハクを蹴り飛ばした。
「はあ?お前がいつも一緒にいただろ」
「何の事だ」
「白髪の女、白い髪は使徒の証」
白髪の女、それが誰を指していて。誰のことがなどハクにとって分かり切っていることだった。この村にいる物で白い髪をした者など1人しかいない、そして女ならばより一層ただ1人を断定していた。
「お前の妹だ」
狙われているのはティアであり、ダミアンはハクに妹を差し出せと言っている。
家族を、残っている最後の血縁者を差し出せと首を掴んで持ち上げた。
「家を燃やしても破壊しても出てこない、どうせ前みたいにお前が隠したんだろう」
苛立ちと腹いせに蹴り飛ばされて口内から血を吐く。
大事な骨が砕かれる音と共に地面に叩きつけられてうずくまる。
「居場所を教えろ、そしたら殺さないでやる」
妹を売ればハク自身は助かる。
残された家族を目の前の犯罪者に売り払えば命だけは助けてもらえる。
その現実を理解しながら燃え尽きて崩れ去る建物に目をやった。もしもここで「嫌だ」と言えばこのまま殺されるのだろうと、素直に森の中に隠したティアを差し出せば殺されずに生き残れるのだろうと、そうやって自己保身を組み立てた。
ティアを差し出して命を拾って、そのままどうやって生きていくのか。
ハクには家族はいなくなり、これから1人で生きていくことになる。
目の前のダミアン相手に何もできずに嬲り殺される自らを可哀想だと思わないのか、死んでもいいのか、そして1人だけのうのうと生き残る事が正解なんだとハクは理解している。
命を自ら投げ出すほどの馬鹿を理解できずにいる、骨まで折られてこれ以上暴行を受けるのならいっそ溢して仕舞えばいい。
世界は優しくないのだから、
どちらも生き残れて、どちらも幸せである。
そんな理想じみた戯言を世界は許容しない。
世界は現実だ、紛れもない理想の破壊者なのだ。
いきなり力を得ることもなければ、目の前の憎き相手を皆殺しにできる力が降って湧くこともない。
理想を語る事はできても、理想を説く事はできない。
選ぶしかなかった。ただの少年にとって自身の命が一番近い他人の命か、選ぶしかなかった。
ここで無残に死に絶えるか、それとも汚く生き残るか、
2つに1つで選ばない事はできない。
世界は優しくなかったけれど──
──それでも世界は、平等に作られてもいる。
『ハク……この子をよろしくね』
いつか聞いた言葉が木霊した。
ハクにとって聞き覚えがある言葉であり、そして忘れてはならない言葉でもあった。
『ティアを守ってあげて』
──その時返した言葉をもう一度ここで放とう。
「僕はティアを守る、絶対に!誰にも傷付けさせない!」
痛む身体を無理やり起こして、臓器に突き刺さった骨から血が吹き出しながらも立ち上がる。命など惜しくない、やるべき事は決まったのだから、
「取り押さえろ!」
響き渡る怒号と共に大人達の腕が迫る。
殺しはしないが、腕の一本は斬り落とせと刃を向ける者達を殴り飛ばした。
「絶対に!僕が守ってみせる、例え死んでもあいつだけは守り抜いてみせる!」
振り抜いた拳がダミアンの顔面を捉えた。
子供の攻撃など不意打ちでない限り喰らわない。だがうこの状況は勝ちを確信したがための油断。勝戦ほど弱く脆い。
ダミアンを殴り飛ばし、後退した彼へ再び拳を叩き込もうと振り上げたとき。
両腕が掴まれて再び組み伏せられてしまう。
「もういい殺せ、使徒を探すのは厄介だが王国から兵士を徴収すれば何とかなるだろ」
生かしておく意味もないと剣を抜き鋭い刀身を振り上げてハクに死を叩きつける。
(ティア……逃げてくれ)
最後の望みを抱きながら生涯を終えるはずだった
「そこまでだ」
どこからか聞こえてきた声とその方角から光の球が放たれ、黒ローブの者達を貫通して絶命させる。ハクを押さえつけていた者達も例外なく死に絶え、拘束のなくなった身体を起こして助けてくれた人物へと顔を向けた。
「ダクスレ王国の密偵とは貴様らのことか」
宙に浮く四つの魔道具を構えて、黒髪の男はダミアンを凝視した。
魔道具の穴から先ほど放たれた光の球が射出体制に入っており、いつでも人体を貫く攻撃ができると威嚇していた。
苦虫を噛み潰したような表情をあらわにし、一時ハクを殺すことを諦めて黒髪の男から距離をとった。
「まさかこんな大物が……」
ハクの時のような油断は微塵もなく剣を構えた。戦いに関して素人であるハクでさえ理解できる実力とダミアンが絶対に勝てないと言うプレッシャー。
放たれる殺気にダミアンの方が押されている、どう足掻いても勝てない戦いが再び行われる。
「邪魔だ」
油断をしていなかったダミアンでさえ、たった一撃で貫かれる。
貫かれた痛みを食いしばって前に踏み出た彼を魔道具が光弾を連続発射して、蜂の巣にして絶命させた。
「あの……ありがとうございます」
ハクは使い慣れない敬語を使って感謝を表したが、
「通りかかっただけだ」
ぶっきらぼうに言い放ち、背を向けてどこかに行ってしまう。
その後ろ姿を眺めてからティアの安否を確認するために足を動かした。
■
死んだ者は帰らない。
そんな事は子供だって知っており、ハク自身も理解しているつもりだった。
死に絶えた虫が地面に転がっているのも、殺された家畜を見るのも同じこと。その対象が人間になっただけで、知っている人達に変わっただけのことだった。
燃え尽きた瓦礫の中から死体を一つ一つ探して地面に埋める。
村の共用墓地に埋めてハクなりの供養を施した。本来の作法や手順などは知らなかったのでただ地面に埋めるだけだったが、これでも放置するよりは良かったのだろうと。そう思うことで締め付けられる胸の痛みを緩和した。
思い出が詰まって、今はもう形を保っていない家を眺めて、そして返事すらしてくれなくなった両親を土に埋めた。
ハクは出来るだけティアには見せないように彼女が寝ている間に全てを済ませようと、夜が明ける前に片付けを終わらした。
炭となった木の柱に手を当てて、自身が着くまでよく保ってくれたと礼を言う。
すぐに家が大破してしまえば死んでいたとしても、顔を合わせることすら出来なかった。
そうしていつまでも泣いてはいられないと涙を拭って、壊れかけた室内の金庫から硬貨の袋を取り出す。ハクが毎月両親に渡していた金が丸ごと入った袋。
家庭のためにと入れた金が一切手をつけられていない事、そしてその理由がすぐに察せてしまえた事にずっしりと思い袋を握り締めた。
もうこの村にいる事はできないのだろうと、昨夜の出来事を思い出す。
ダグレス王国はハクの住む魔導帝国サクリファと隣接する国。
何十年も前に大きな戦争があった事は知っているが、その後の動向は辺境の村人が知る事はない。だがハクにとって最後の家族を守るためには目をつけられてしまった村に居座る事はできない。
それがどんなに思い出深かったとしても、ティアの事を考えると戻ってこない方が良いと結論付けるしかなかった。
ハクは貯めてあった硬貨袋を焦げ掛けの鞄に入れ、最低限の物だけを掻き集めて外に出た。行き先は決まっていなくてもどこか遠くに行かねばと思い、ティアを背負う。
『使徒を出せ』
そう言ったダミアンの後ろには国がいると仄かしていた事をハクは聞いている。
相手が王国である以上安息の地はない、それも同じだけの戦力がない限り守る事などできない。
使徒というものが何か理解していなくとも、村を焼き尽くして両親を殺した奴らに渡すわけにはいかない。
「お前の髪は……使徒の証らしい」
寝ているティアへ聞こえないからそう呟いた。
「物語の姫も王子も白い髪だったな、だからお前が私は姫だって言い出した」
幼少の頃に聴かせた物語、大抵の創作物は白い髪の人物が主役になっている。
偉業をなす者は決まって白髪だと言われており、ハクもその事を知っていた。
だからこの事実は必ず隠さなければティアが報われない、小さな子供のせいで家族と村の人を失った悲しみを背負わせたりはしたくなかった。
「埋葬は終わったか」
下を向いて歩いていたハクに声がかかった。
何事だと顔を上げると、先程助けてくれた黒髪の男が気にもたれかかっていた。
「邪魔しないでくれてありがとうございます」
両親との別れと来るかも知れなかったティアを狙う輩から守ってくれたのでは無いかと礼を言ったが、それ以上の言葉は出てこなかった。
他人に気遣う事も、他人を見る余裕も今のハクには欠けていた。
「おい」
今すぐにでも離れて、どこか遠くの地に行かないとティアが危険にさらされる。
国境付近にいてはいつ追手が来るか分からない、ならば都心部に行くかと。
そうやって逃げる算段を出来るだけ多く立てていた。
「その女……使徒なのか?」
ちょうど男の真横を横切ったときにその言葉が聞こえた。
『使徒』
それが何を表しているかを理解しているわけではない。だがダミアンの口からティアの事を指しているとだけは理解できた。ハクにとって使徒は守るべき妹で、それを狙う奴は全て敵だ。
ティアを抱えたまま地面を強く蹴って距離を取る。光弾が発射されれば勝ち目はないといつでも走り出す準備をしていたが、男の表情はダミアンとは違って驚愕だった。
邪な笑みでもなく、物を奪い取ろうとする略奪者の物ではない。面食らった者の表情だった。
「なんでそこに使徒がいる……、まさか奴らは」
「お前も仲間か!」
男が何かを言い終える前に遮った。
「……その女をこちらに預ける気はないか?」
話を聞かないハクの様子を無視して近づいてくる。今すぐにでも逃げ出す準備をしているハクに対して無防備に、光弾を撃ち出す魔道具の一つも起動せずに近づく黒髪の男に警戒して腰を落とす。
手をだして話を要求してくる相手を受け入れる余裕が今のハクにはなかった。
「ふざけるな!ティアは誰にも傷つけさせない、誰であろうと絶対に」
そう誓った、そうするように託された。
最後の家族を守るために戦うのだと心に決めた。
「お前が守れるのか?」
だがその意思を尊重する事もなく現実を叩きつけた。
【ハクにはティアを守れない】
これはもうすでに結果は出ている。
今の今まで剣を持った事も、魔法を使った事もない。
人を守れるだけの力を持ち合わせていない少年には誰も救えない。そして今、誰も救えなかった。
今から努力して剣を振った所で、今まで努力してきた者に勝てるわけがない。
そしてティアの存在はもうバレている。追手が来るのも時間の問題。
「僕が守ってみせる、そう誓った!」
それでもやらなくちゃいけないと叫ぼうとしたとき、
大事な重みがまた消えた。
「これでもか?」
黒髪の男の抱えている物が、そいつの持っている物が見覚えがあった。
そして今ハクの一番大事な物が失われた。
「っつつ!!」
「お前には守れない、そんな物では使徒は守れないッ!使徒は軍事兵器だ!ダグレス王国の惨劇をしっているだろ!使徒は国にとっての最大戦力、国が総力を上げて捉える物だ!」
ハクには知らない事ばかりが飛び交った。だからこそ、知らない事だらけだったからこそ感情だけは理解できる。目の前の男がどんな悲惨な表情をしているのかが分かってしまう。
「守り……」
ハクが言い終わるよりも先に黒髪の男が蹴り飛ばした。
最も容易く転がされ、木々の幹に打ち付けられて肺の空気を全て吐き出す。
「そんな強さで、この俺一人に負けて使徒が守れるか!」
「それでも託されたんだ、僕が守らなくちゃいけないんだ」
「そんなに守りたいのならこちらに渡せ、俺が責任を持って保護してやる。その方が安全だ」
少なくともお前よりはな、と付け加えた。
ハクには受け入れがたい事だったが、それは事実だ。
ダミアン1人に殺されかけたハクよりも、その仲間達ごと皆殺しにした奴の方がティアを守れる。力がある方がティアを守ることができる。ティアのためにもその方がいいと、理解できる。普通なら、現実を見るならばそうなるのだ。
「この使徒の兄として、この女の未来を思って決断しろ」
ティアにとってハクは兄だが守ってくれる者ではない。家族だがハクに守り切れる確証はない。けれど赤の他人だが守り切れる者はいる。兄でもなんでもなくとも守れる者はいる。ティアをこの先長生きさせたければ、永遠で繰り返される逃避行に連れて行く辛さを思えば。彼女をここで守ってくれる者へ渡した方がいいのではないかと過ってしまう。
兄として妹を投げ出すのは無責任だと分かっていても、妹を死なせてしまう方が無責任なのだ。守れる力もないのに連れて行く方がよっぽど悪いことなのだから。
「僕は……僕は……」
ティアのためにティアを見捨てる。
矛盾しているようで辻褄が会うそれをハクは思考し続ける。
ハクには守れなくても相手は守れる。
ならば取るべき答えは決まっているのに、決断できなかった。
「……分かった、……ティアを」
言うしかなかった。言わざるを得なかった。
そうしなければティアが死んでしまう。
ハクの兄としての最後、最初で最後で妹を守ることができるはずだった、
「お兄ちゃん」
寝ているはずのティアからこぼれ落ちた。
俯いていたハクを奮い立たせ、顔を上げさせる。
起きたのかと思って見てみれば寝言、ただの寝言。
無意識に出た言葉だった。
(それでいいのか?僕はそれでいいのか?ティアを捨てて生きるのか?母さんと父さんに託されたんだろ、守ってくれと言われたんだろ、そう誓ったんだろ。あの時あの場所で僕はティアを守ると言ったはずだ)
「どうするんだ、何も言わぬのなら俺はもうこいつを連れて行く」
痺れを切らしてその場を離れようとする男に、
「僕はティアの側にいたい、家族として、兄として、そうしたいから」
「守れないと言ったはずだ」
「だったら力を寄越せ!」
そうするしかない、それ以外は考え付かなかった。
まったくもって馬鹿な事を言っている資格はあった。敵に力を寄越せと言う馬鹿がどこにいるのだと笑われることだと理解していた。
だけどハクにはそうするしかなかった。
それ以外の手段は無いように思えた。
「お前が僕を強くしろ!ティアを守れるんだろ!だったら僕1人くらい強くして見せろ!」
馬鹿馬鹿しいと切り捨てることのできる物だった。
言っていることは戯言で、なんの意味も成さ無い低俗な言葉。
それにて着飾り並べただけの文とは違い、感情だけを多く含んだ物でもあった。
「その力で僕はティアを守る、だから力を寄越せ!」
切り捨てることはできる、相手は戯言だ。
そう分かっていても、
(俺はこういう者だったのか……)
必死に純粋に力を求める姿を男は知っていた。
それが馬鹿にできる物でも無いと知っていた。
「お前が逃げぬと言うのなら、俺は力を授けよう」
「え?」
「使徒の機嫌取りだ、その方が都合がいい」
何がなんでも奪い返そうと力めていたハクは拍子抜けのような気もしながら、地面に膝をついて倒れた。
傷だらけの身体を動かしていた原動力である感情の紐が解けてしまった。
「力をくれるのか?」
「お前が言い出したんだろう、要らないならいいが」
まさか了承が得られるとは思いもしなかった。自ら言い出したことではあったが、すんなりと話が進むとは思ってもいない。
一瞬の内に望んだ状況に切り替わり、強張っていた身体から緊張がほぐれて意識ごと手放した。
2時間後に3話目が投稿されます、ぜひ寄って見てください。