短編 雪洞
あれから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。時間という定立された概念すら忘却してしまっていた。それ程までに、今の僕は息苦しさを感じている。辺りはまっくらでぽつぽつと淡雪が頬を掠めながら、姿を消していく。
液になったそれはいずれ姿を消すというのに、人の中には延々と残る。こんな詩人の様に頭を使う事に慣れていないから疲弊したのかも知れない。
何故だか分からないが急に眠気が襲う。「よりによってこんな日に遅れなくても良いのに」何時間もかけ最愛の人にやっと会えると思った矢先に電車が遅れるなんて。「もう、ダメだ。寝よう。色々とあり過ぎて何も分からない 」
うつらうつらと頭を上下させながら夢か現か定かではない光景が広がってくる。あの頃の僕と君の後ろ姿がぼんやりと浮かんでは消える。僕が軽口で「近い将来、結婚しよう」と言えば君は、「年収一千万なら考えてもいいよ」こう鋭く返してきたよね。たわいも無く現実味の薄い会話だった。だけどこの頃の僕は、君がそばに居てくれるそれだけで何でも出来る、そう信じていたから
割と真剣に将来を考えていたんだよ。幻想や妄想ではなく子供ながらに本気だった。だからか君のいなくなった隣の空き家を、見る決意がついたこの前までは僕の中では君は今もそばにいて、同じ学校に通っている。だけど年月は許してはくれなかった。大学生になり少しはまともになったのか、ここ最近に別れと無力さを漸く理解した僕は真っ先に、君の引っ越し先の住所と電話番号を親に尋ねた。電話は君も都合があるだろうからしなかった。いや、本当は出来なかった。君がそばにいない現実には変わりがないと思って。独り言のようにつらつらと、心に皺を寄せながら頭を働かせる。不思議なもので、冷静そのものだった。そんな自分に自分が一番驚いているが、冷静になると周りがよく見えてくるもので、鬱々と君のいない現実を逃げるように捉えていたのに、
君が大人の都合でこんな片田舎に引っ越してきて、あまつさえ半年も経っていないのに、また大人たちの都合で引っ越しを強いられた。その事を思い出すだけで我慢ならなかった。あの日、君は僕に「今日でお別れだから、キスぐらいしとく?それとも恋人になる?いや、でも遠距離は続かないからなぁ。やっぱ止めとく。うーん、それじゃ、いつか大人になったらさ追いかけて来てよ。ドラマみたいにさ」と言ったけどあの時は適当に返事したけど、ちゃんと女の子にここまで言わせたんだからこのシチュエーションで言う言葉は一つしかないと分かっていたんだ。けれど当時の僕は挨拶もろくにせず、ただ君がどこかに行くのを待つばかりだった。遅いかもしれないだけどもし君が待ってくれているなら
「追いかけよう。脚があるならどこへでも行けるんだから」幾年の月日が流れても、君が側に居なければ生きてる意味がない。将来への道をこの脚で二人で歩くためには今行くしかない。君は待ってくれているだろうか。不安を押し殺しながら僕は決意を固めた。こんな淡い心をした僕は、周りから見ると昔好きだった女の子に現を抜かしている風に思われるだろう。だけど例外は居るもんで予想に反してそれは母だった。男だ女だ言う気は無いけど、父なら若気の至りでやらかしていたりするかもな、と思えてしまう辺り大概ではあるけど、母からは全くそう言った雰囲気を感じない。だから反対されるなら母からだと思っていたけど、実際の所、父は「若いうちは色恋で悩むもんじゃ一時の迷いじゃろう」とか言う始末だった。やはり、反対されるか当たり前だなと自分を納得させかけた、しかし流石は母親と言うべきか、母は「素敵ね、好きな女の子を追いかけて行くなんて。ちょっと遅いけどね、色々と。彼方にはママから連絡しておくから直ぐに行きなさい。こうなるかと、思ってメル友なのよ穂花ちゃんと。ところで貴方はこんなこと私にしてくれたかしら? 」なんて事を矢継ぎ早に僕らに言うもんだから父は額に汗しながらガサガサ物音を立てつつ自身の部屋に行きしばらくすると何か探し当てた様子で徐に自身の財布をまるごと手渡して僕へ耳打ちしながら一言、頑張れよ。そう言って送り出してくれた。この親にしてこの子ありだと思う。今日ほど、両親に感謝したことはない。玄関先まで見送ってくれる両親に背を向けると同時に着メロが鳴り響いた。「あら、穂花ちゃん今日ゼミの飲み会で遅くなるって。駅の待合室二十二時位でお願いだってよ」「うん、分かった。よし、親不孝息子ですが行ってきます。 」そう声高く両親に告げて家から出た。少し歩いたところで財布の中身が気になりだして仕舞いにはジッパーを開けて見る事にした。すると平凡な我が家にとっては大金と走り書きのメモが入っていた。「息子へ、これで足りるだろう。ワンナイトを決めてこい、男が居ても挫けるな。 」父に言われたことをとっさに想像してしまい、やがて僕は一人浮ついた顔をしながら駅へ向かった。途中、酔っ払いの男性にジロジロと見られたけど、気にしない。今から穂花の元へ行けるのだから、周りの目なんか目に入らない。
駅に着くと、すぐさま聞こえてくる。ガタンゴトンと、列車が通過する音が木霊している。それに次いで、うじゃうじゃと人が人を掻き分けながら改札へ向かってくる。邪魔になるくらいならと、僕は慌てて、切符を改札へ通してホームへ向かおうとすると、向かいからくる女性とお見合いをしてしまった。すいません、と互いに言い合いながら軽く会釈する。ふと、電光掲示板を見て、もうすぐで電車が来ることを知った僕は、エスカレーターを駆け上がった。一分一秒が惜しい、勢いそのままにホームへ駆け込んだのは良いが息は上がり肩は上下左右に揺らしていた。気付くと僕は何の迷いもなく待合室の中で席に座っていた、後ろを通り過ぎていく電車の音に聞こえないふりをして。今思えば、この電車に乗れていればこんな後悔はなかったのではないか。後悔は先に立たない。だけど待合室からは出たくない。漸くすると息も落ち着いてきた。
ふと、視界の隅に緑色をした公衆電話を捉えた。僕は少々の懐かしさに胸を躍らせながら、緑色のそれへ歩みを進めた。受話器を取っては下げを繰り返してガチャンガチャンと音をさせては懐かしさに浸った。よく考えれば近所迷惑だったはずで、今思うと、忸怩たる思いで胸が弾けそうだ。こんな恥ずかしことをしているうちに次の電車が来た。今度こそは、意気揚々と電車へ乗り込んだ。駅を一つまた一つと過ぎていくうちに人でごった返していっぱいで息苦しさを感じていると何かの宗教なのか流行りなのか分からないけど男性陣は皆吊革に両手で掴まっているのに気付く。「やたら目立つな、座れて良かった。 」僕が彼等を他人事のようにやや、居丈高になって見ていると車内アナウンスが流れ、内容を聞き取れた者から順に悲鳴に似た声を上げる。「当列車は、急な天候不順の為各駅停車をする際大幅に遅れる見込みです。ご乗車のお客様には大変ご迷惑をおかけします。」徐に窓を覗き込むとパラパラと雪が降っていて、辺り一面をそれが覆っていた。辺りからは次々悲痛な声が溢れるようにして聞こえて、次第そこら中からビジネスの香りが漂ってきている。モラトリアムを満喫中の僕には些か早いような気もするが、やはり興味があるのか自然と耳を傾けてしまう。傾聴するばかりでは飽き足らず、辺りを見回す事に執心していたが、その目を奪う男がいた。ギャル男風の男は求愛する為に買ったのだろうか、紙袋を大事そうに抱えながら、額に汗して遅延することを詫びながら電話を掛けていた。「悪いって、ホントマジだって、電車がさ。え、帰るって何だよそれ」男は落ち込んだ様子で、元いた座席に座りうな垂れていた。僕自身、この時は、他人事だと思い、さしたる意味を理解してはいなかった。振り返るとこの彼の姿は神様がいるとして、異常事態に遭遇している今の僕を予兆する一種の思し召しか何かだったのではないかと思う。当時の僕はそんな事を知る由もなく観察に執心していた。観察に飽きた僕は、確か君に会ったら何を話そうか、そればかりを考えていたと思う。「チカッ」
一瞬の光の線が見えたと思ったと同時に僕は目を覚ました。「はっ、いつの間に寝てたんだ。てか、ここ何処だ」電車は止まっていて周りにいた人は誰もいなくなっていて、ただ寒い夜風が開けっ放しにしていた窓から僕に強く当たっていた。不思議に思いながらも電車を降りる事にした僕は、持ち物をチェックしてから君のいる待合室に向かった。その道中には山福駅と書いた看板があり、君のいる町だと確認できた。しかし何故か君はここにいない。あるのは掲示板に君の走り書きの文字で「遅いので、コンビニに行ってきます、行き違いになっても帰らんといてね」時間は二十二時三十分と書いてあったので待合室の時計を見上げると現在時刻は午前一時だった。いつまで、待っただろうか君が来るのを。二時が過ぎて三時、四時と待ったのは覚えている。いつの間にか寝入っていたらしく駅長らしき老人にここに寝泊まりするな、昨日も起こしたの起きないのはどういう事だと詰問され少々、寝覚めの悪い朝を迎える羽目になった。しかし朝になっても君は来なかったから、仕方なく住所のメモを頼りに今朝、君の家を訪ねたんだ。
だけど、君は家にもいなくて何故だか君の家の周りを黒服に身を包んだ人が囲んでいたのを覚えている。僕はその光景を目にしてからの記憶がない、いや、本当は頭では分かっているんだ君がコンビニの帰り道信号無視の車に跳ねられた事、辺りには2人分の弁当と僕の好きだったジュースな二本散乱していた事、既に葬儀は終わって君は石の下に眠っていることも。僕は冷たい人間だから君の葬儀には出なかったし見送りもしなかったから最後に君に会ったのは引っ越して行く前に交わした時になるけど、君はあの日僕とどんな話をしてくれるつもりだったんだろうか、今となってはもう分からないけど、僕は一番に話すことは決めていたよ。「近い将来結婚して下さい。年収は頑張りますから」と。僕は返事を聞きに君に会いには行かないことにするよ、だって君の返事は分かっているから。
「年収一千万なら考えてもいいよ」君はこう言って僕をあしらうに決まっている、だから僕はそれを追いかけて追いかけ続ける。