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自意識の星  作者: なぎ利元
1/1

僕のこと

「人は誰しもが孤独だという点で、誰しもが孤独ではありえない」

「なるほど、つまり孤独な人間はいない、と」

「そうです、ありうるのは孤独ではない人がその可能性を持っていることになります」




薄暗がりの丸い部屋、何かを失って何かを手に入れた。

上を見ればそこにはぼんやりと月が浮かんでいる。


空が咳をして、三日月の刺さった朝は晴れになった。

早起きの蟻が窓の下を歩いている、誰かの為に甘いものを運んでいく。


晴れでも雨でもが蟻は働かなくてはいけない。

足が一本欠けているからと甘えても砂糖水は落ちてこない。

あの子の為の、あの部屋に砂糖を運ばねば。



グルグルグルグル、楽しそうだな。

ただいまと家に帰る、おかえりの返答はない。僕は孤独の住人だった、コンビニのビニール袋だけがカサカサと鳴く。


どれだけ注がれてもすぐに飲んでしまう。どれだけ飲んでもすぐに乾いてしまう。

「そんな飲み方が出来るのは十代までだから羨ましいよ」

お代わりを入れながらマスターが言った。

「例えばきっと、砂漠に行ったらお前はすぐに干からびちゃうんだろうな」

原田が甘い酒を飲みながら言った。

「そんなところなら行かない」

「例え話だよ」

「じゃ、どこだよ?」

「聞きたい?」

「面倒だから、とりあえず旅の目的を言え」

「先に目的を言ったら物語は面白くならないだろう」

「お前の話で面白いことなんて一つもなかった」

「言ってくれるね。じゃ目的、月の石を探しに行こう」

僕が友達と呼べる人間は原田しかいなかった。産まれてから十八年間で得たものは少なく、不毛な時間が生み出したものは、砂場の山ぐらいの垢の蓄積だけだ。

「前からさ、世界の果てを見たいって言ってたじゃん」

「そんな事言ってない」

僕は驚いた。原田は僕の言葉を真剣には聞かない。聞いているようなフリをして、どうやって次の自分の話につなげるかを考えているだけだと思っていた。原田の話の多くは女関係の失敗談だったが、その手軽さのお陰で男にモテるし、女友達の数も多い。その割に、なぜか僕みたいな目立たない男を遊びに誘う。そして今日は旅に出ようと提案してきた。

「いや、言ってるよ、独り言みたいにボソッと。『世界の果てが見たいな』って」

首を後ろに傾けて、目線を上にして原田は言った。僕の真似をしているらしい。焦点の合わない目をしている。おそらくクラスの連中がする僕の真似を真似しているのだろう。僕は決して原田の前でその言葉は出さない。原田は焦点を戻して僕を見る。

「いいだろ、世界の果ての、もっと向こう側の欠片を探しに行く旅だぜ」

「どこにあるんだよ?」

「知らない。でも、アメリカなんかでは隕石ハンターってちゃんとした職業で、磁石があればそれが宇宙から来た隕石か判定できるって、テレビでやってた」

「なんだ、そりゃ。いかねえよ」

「とりあえずパスポートだけは取っといてくれ」

「海外かよ!?」

原田のした僕の真似は、表情は似ていたかもしれないが、惜しくも僕の言葉とは少し違っていた。


バーを出ると、クーラーで冷えた身体を生暖かい空気が抱いてきた。

誰かと誰かが罵りあう声がする。車のタイヤがアスファルトを踏みしだく音も聞こえる。しかし、耳に水が入った時のように現実の音に聞こえない。全てが安物のスピーカーから聞こえる頼りないラジオの声のように、周りの静けさを強調するだけで、前を歩く原田の足音も遠く聞こえる。

深く鼻から息を吸い込む、湿り気を帯びた密度の濃い空気に、夏にも関わらず寒気を感じる。

僕は世界の果て、ましてや月の石なんかには興味がない。


「君のパスポートなら僕が預かっているから次回持ってくるよ」

拇印を押し終えた書類をバックにしまいながら金子さんはそう答えた。

「作った記憶がないんですけど、作ってあるんですか?」

「うん、有効期限は切れているけど。夏休みだし、どこかに旅行に行くならすぐに持ってくるけど」

「いや、月の石を探しに行こうって俺が誘ったんです」

ソファに寝転がっていた原田が姿勢を変えて言った。昨日、家に着いてから大量に吐き、そのままソファに倒れ、泊まっていた。

「はは、原田君はたまに面白いことを言うね。それなら早めに持ってこよう」

「いや、大丈夫ですよ。原田もどうせ思いつきで言っただけだろうし」

「いやいや、俺はマジだよ」

「一応、高校卒業までは私は後見人だから、どこかに行くなら期間と場所だけは教えてね」

「分かりました、原田から連絡来たらすぐにお知らせします」

「パスポートは、まだ大丈夫です。金子さんの手は煩わせません!」

原田は金子さんのことを尊敬している。将来、弁護士になりたいというのではなく、単純に金子さんのような頼りがいのある存在になりたいと考えている。原田にとって、金子さん以外の概ねの大人は格好悪いようだ。

「はは、ありがとう。じゃパスポートは次回持ってくるよ。あ、その前にお墓参りで会うかもね」

「来週ですからね」

「一緒に車で行くかい?」

「いや、いいです。電車で行くので」

「そうか、じゃ、その時に会えたら」

「はい」

会わないことは分かっていても、そう応えて金子さんを家から見送った。

「偉いよなぁ、お前。よく分かんないけど」

ソファの上で原田は僕を見てボソッと言った。

「ただのイベントだよ」

喪服の確認をして僕は言った。



自分は何者なのか、それを考えるのに充分な年齢に達したかは分からない。それでも考えずにはいられない。毎年、墓前に立ち、同じ思考の繰り返しである。

墓の左側の花立てにはすでに花が挿してあり、線香は燃え尽きているから金子さんはやはり先に来て帰ってしまったのだろう。

喪服で来るには毎年暑すぎる日。太陽は雲に隠れているが、湿気が高く背中のくぼみを汗が伝う。

手を合わせ、頭を下げ、干からびた花を変え、墓石に水をかけ、線香に火をつける。もう一度手を合わせ、頭を下げる。

特別な感情は浮かばない、ルーティンになっている行動を淡々と繰り返す。ただ思考がぐるぐると空転し続ける。僕は何者なのか。自分の明確な立ち位置が欲しい。僕の立ち位置は墓前だけではないはずだ。姿の見えない親の前に立ち、涙でも流せればいいのだが、泣く理由が見あたらない。僕は何者なのか。悲しみすら見当たらない。


涙はまだ身体の内にある。

一昨日、原田と原田の知り合いの女の子二人と映画を見に行った。話題の映画らしく、座って落ち着いたときにはすでに満席だった。恋人が死ぬとか、病気だとか、そういった内容の映画だったと思う。

僕の隣の女の子は可愛くはなかったし少し太りすぎていたが、笑顔の素朴な、いい雰囲気を持った女の子だった。最初は僕に女優がどうだとか映像が綺麗だとか言ってきたが、中盤に入ってからは映画に夢中になり、ラストでは延々と泣いていた。映画が終わり、電気が付いた時に彼女は僕を見て笑った、涙が頬を伝っていたというのだ。映画に関しては感動する・しない以前にほとんど見ていなかった、どのシーンで泣いたか聞かれても答えられず、ヒロインの名前すら覚えていなかった。眠いのを我慢していたから、あくびをして泣いたのかもしれないし、もしかしたら彼女の泣いている姿を見て虚像として泣いたのかもしれない。

涙がまだ枯れていないと分かったことがその日の収穫で、女の子のことは原田に任せて僕は帰った。


胸ポケットから煙草を取り出し、火を付ける。両親が煙草を吸っていたかどうかは分からない、それでも線香の横にそれを置き、今度は自分の為にもう一本火をつける。毎年暑い日で参るが、線香が消えるまでは墓前にいると決めている。おそらく、金子さんもそうしているに違いない。だから僕らは時間を少しずらして墓に来る。

線香が燃え尽きるまで煙草を三本吸った。また今年も自分の存在を見付けられずに線香が燃え尽きてしまった。僕は記憶をなくした幽霊のように、立ち位置も、存在も曖昧な“ここ”にいる。足は、まだある。

墓地から出て、携帯の電源を入れると推し量ったように電話が鳴った。



バスは寝ている内に高速道路を降りたらしい。ここはどこなのか。僕はどこにいるのか。今回ばかりは、しっかりした、物理的な不明だ。出発から七時間かかるというのだから、まだ目的地にはついていないはずだ。しかしバスは田んぼに囲まれた道をひたすら塵を舞い上げて走っている。

僕は取り出し、くわえる。ライターが見当たらないので、前の席に座っている原田を起こす。安物のジッポをよこして、また原田は眠りに落ちた。硬すぎる座席に腰が少し痺れて、再び眠りにつけそうもない。田んぼの道の先に高架の道路が見えた。それに乗り換えるためにバスは高速を降りたのだろう。

煙草の灰を落とそうとした瞬間、ぐらりと揺れてバスの車体が落ちた。


原田からの電話はこんな感じだった。

「今晩行こう」

「どこへ?」

「月の石を探しに」

「どこへ?」

「行ってからのお楽しみ」

「パスポートまだだよ」

「いいのいいの、国内だから」

「妥協か」

「違う。いいから、十時に池袋で」

池袋のサンシャイン下の高速バス乗り場で、行く先も知らないバスに乗せられた。運転手が入り口の前で待っていて、他には誰も乗っていなかった。原田が通路の中ほどの座席に入り、僕はその後ろに座った。混んできたら退けばいいと思ったが、僕らの他には同年代であろう女が一人乗っただけだった。


そうして僕はバスに乗り、落ちた。

おそらく、田んぼの水路に落ちたのだろう。フロントガラスがあった部分には空白があり、その下を車内の非常灯の光を微かに反射させながら水が流れている。

僕らの乗っていたバスは地面と平行に走っていたはずなのに、今では水路に垂直に刺さる直前である。

「参ったな、死ぬかな」

原田が少ししゃべりにくそうに言った。原田は前の座席と原田の座席に、僕は原田の席と僕の席に挟まれている。落ちた瞬間に少し浮いたのか、座席のヘッドレスト越しに原田の後頭部が見える。後部座席はどうなっているか見られないかと身体を捻ろうとしたが、座席がそれをさせてくれなかった。

「さぁ、ガソリンの匂いもしないし俺たちは大丈夫じゃないかな。運転手は死んでるだろうけど」

振り向くのを諦めて僕は答えた。

「そうだな、右前はペシャンコだ。この形はすごいな、新体操なら十点くらい付きそうだ」

水路は跳び箱をひっくり返したような形の土手になっていたらしく、右前だけでなく、左前も潰れていた。そのおかげでバスは衝撃を吸収し、水路に落ちずに済んでいるようである。外からはバスが倒立しているように見えるかもしれない。

「おい、原田。けむいよ、煙草吸うな、煙が上に来るよ」

目が煙に燻られてシパシパする。こんな時にも涙は出るのだ。目をこすって原田を見る。

「俺は吸ってないよ。でも煙草吸っててよかったなぁ。二十歳になるまで我慢して、このまま死んだら馬鹿らしいものな」

確かに原田は煙草を吸っていなかったが、煙は上がってくる。首を伸ばして覗き込む。

「あ、俺は喫煙してて悪いな、と思った」

「なんで?」

「熱くない?」

「いや、熱くない。なんで?」

「今、まさに」

「まさに?」

「お前の首筋で俺の煙草が燃えてる」

「おい、マジかよ」

原田が手で首の後ろの煙草を払った。動きを見る限りでは原田にも何も問題はなさそうだった。火のついた煙草は下に落ちていき、数秒後に水路でジュッと消える音がした。

「怪我は?」

「ない、今ので襟足が焼けた気がするけど」

「じゃ、よかった」

「お前は?」

「とりあえず大丈夫そうだな」

「世界の果てに来た気はしない?」

僕が見たかったのは果てではなく終わりなのだが黙っていた。果てかどうかは知らないが、確かにそれに近い気がする。

太陽は昇らず、見える灯りはバス特有の黄みがかった非常灯だけ。音といえば水の流れる音と、煙草が焼ける音、おそらく近くに森があるのだろう、カラスの鳴き声もする。身じろぎは出来るが身動きは取れない。原田と話している内に終わっていく世界、悪い気はしなかった。

ふと思い出して通路を挟んだ席を見ると、女も煙草を吸っていた。

「まったく、丈夫な乗客ばっかりだな」

「カラスが鳴いてるから、もうすぐ早起きの百姓が来るな」

原田が少し苦しそうに応えた。

「百姓って、変な言い方するな」

「なんていうんだ?農民?」

「農業従事者が正しい言い方かな。もう助かるのか、なんだか、早いな」



年老いた老人の声が聞こえてから、すぐにサイレンが聞こえてきた。

「あらぁ、参ったねー」

原田が第一発見者であろう爺さんの真似をした。隣の席の女が笑う。

「原田、出る時は煙草しまっておけよ。警察に文句言われるぞ。このままじゃ無理だろうから、まだ大丈夫だと思うけど」

「バスごと吊り上げてからかね?大丈夫か?これ、崩れて俺らも水路にまっさかさまとかないかな?昔からことあるごとに頭打ってるから、落下事故とか不安なんだよね」

「たぶん大丈夫だろう」

重低音の大型車の音がする。

世界は日常のまま、まだそこにあった。



結局のところ、当然と言えば当然、世界は終わらなかった。

僕の世界も、原田の世界も。


外の救急隊から、車体をこのまま垂直に引き上げ、水路から道路に持っていくと説明がされた。上部座席から、ワイヤーが車体に付けられる音がして、クレーンのウィンチが引かれる。

バスが引っ張り上げられ、浮遊感を感じる。完全に車体が直立し、浮いた瞬間、お情け程度に残っていたフロントガラスは砕け散った。水面とガラスに反射して朝日が幻想的な模様を作る。

ガラスが水路に落ちるボシャボシャと言う音に混じって、ガンという重く硬い音が聞こえた。僕らは下を向いている。向かざるを得ない。

ガラスに囲まれて、運転手が水路を流れていく。彼は何も言わずに僕らの前を通り過ぎる。水の流れは速く、実際の時間的には三秒ぐらいであっただろう。しかし、彼の抜け殻は悠然と僕らの目の前を流れていった。



「月の石は見付かったのかな?珍しく指輪なんてしているけど、もしかしてそれが?」

金子さんがパスポートを鞄から出しながら楽しそうに言った。

「いや、これは違います。でも微妙に垣間見られました」

「見られたの?」

「えぇ、僕よりよっぽど原田が」

「うるせぇ」

「原田君どうしたの?」

「あいつ、運転手の死体を見て」

「うるせぇ」



「おい!おい!!ふざけんな!ふざけんなって!マジで!もっと静かに上げろって!やめろ!やめろ!一回止めろ!待て!待て待て待て!!」

永遠とも思える長い時間をかけて運転手の死体が流れていった。しばらくは誰も何も言わなかったが、原田は前後の椅子に挟まれた体を震わせたかと思うと、そんな事を叫びながら暴れだした。火事場の馬鹿力というものだろうか、僕を前面から支えている椅子は軋みを上げて外れかかった。


「ふざけんなって!この××野郎!!無理だって!××!おい聞こえてんだろ!バカ!バカ公務員!!クレーン止めろ!死ね!殺すぞ!!×××××!!!」

外からはその“バカ公務員”が落ち着けと叫んでいるが、原田の耳には届いていない。その間にも原田は暴言を吐き続け、宙ぶらりんからの脱出を図り、椅子の間を広げていった。僕は暴挙の被害者の椅子に体を圧迫され、息が出来なかった。バチリと音がして、原田は落ちた。



「原田君、どうだった?」

「まだ田舎で元気に生きてる婆さんが三途の川で手招きしてました」



原田は自分の前の座席を抱きながら落ちていった。フロントガラスのあった部分を通り過ぎて、原田は水路にまっさかさまに落ちていった。僕は自分の体が落ちているわけでもないのに、スローモーションを体験した。



「で、どこに行く予定でそんな所に落ちたの?」

金子さんが何気なく聞いた。

「原田主導だったので僕は知らないんですよ」

「山形です」

「山形のなんてところ?」

「蔵王って温泉です」

「そこに月の石があるって情報があったの?」

「いや、ただ単純に温泉に入りたかっただけです」

「そんな理由かよ。まぁいいけどさ」

「蔵王だったら私もよくスキーをしに行くけどね」

「そうなんですか?」

「うん、学生時代には君のお父さんとも行ったよ」

「そうなんですか」

「でも、池袋からだったら東北道から直接山形道に入れるはずで、下の道路に行くことはないんだけどなぁ」

「そうなんですか?」



原田が水路を流れていく瞬間を僕は見ていない。背もたれと水面が落下の衝撃を吸収したように見えたが、その分バウンドし、原田の体は僕からは見えないところに着水してしまった。



「でもよかったじゃない、君は怪我ないし、原田君は腰を打っただけだし」

金子さんはいつものように書類をバックにしまいながら言う。

「せっかくだから、温泉で湯治出来たらよかったのになぁ」

原田はブスッとしている。

「でも、君はまた生活費を心配する可能性が減ったね。慰謝料とれるよ」

「そうですね、その件も金子さんにお願いします」

「ちゃんとやっておくよ、原田君の分も見てあげる」

「マジッすか!?」

原田はやっと元気が出たように見えた。だが打った腰が痛むのか、その動きは何か陰鬱としていた。



「綺麗」

原田が落ちて、呆然としている僕に女が言った。

「えっ?」

「ねぇ、これ、あげる」

女は僕のほうに何かを放った。不自然な姿勢で投げられた割に、彼女から放たれた何かは僕の手元に上手く届いた。指輪?

「何これ?」

女はもう僕の方を見ていなかった。リングには何も彫っていなかったが黄色い小さな石がついていた。繁華街の路上で外国人が売っているような安物の指輪だ。

何これ?と、再び問おうとした時、彼女はもうそこにいなかった。

待ってと僕が言うより早く、彼女は狭い空に飛び出していた。



車体が揺れるほど暴れる友達も、事故の現場を絵画のように憧憬のまなざしで見ている女もいなくなってしまった。バスの運転手はどんな人だったのだろうか、宙吊りのバスの中、なぜかそんな事が頭に浮かんだ。バスに乗り込む前に見た彼は記憶にも残らないくらい、ごく普通の運転手だったと思う。しかし、流れされていく時の彼の抜け殻はとても満足そうに見えた。原田もそれを見ていたのかもしれない。

一人でバスに残された僕はひどく孤独を感じた。両親が実は死んでいると聞いた時でも感じなかった孤独だった。誰もかもがこのバスから飛び降りてしまった。僕だけが、置いて行かれたという意識を持ってここに留まっている。

僕が思っていた世界の果ては、バスタブに落とした血が徐々に薄まっていくように、感覚がなくなっていくものだと思っていた。もっと静寂で、不幸でも幸福でもどちらでもない状態で消えていくものだと思っていた。こんなはっきりとした孤独感は世界の果てにはない。友人は惨めにアクシデントで消え、女は自分勝手に消滅した。外でワイヤーを巻き取るノイズが、現実の象徴の様に僕と世界をつないでいる。


原田が暴れたおかげで僕はバスが下ろされて、すぐに地面に足を付くことが出来た。何事かをわめきながら救急車に乗せられる原田がいる。僕と目が合うと驚いたように黙ったが、原田の乗ったストレッチャーは救急車に完全に入ってしまった。僕は外傷がないということで、その場で問診を受けて、それから原田と同じ病院に脳の検査をしに行った。

元気そうな原田を見舞った後に病院の待合室で警察に事情を聞かれた。バスの運転手は死に、事故として済まされるらしい。過剰な勤務をさせていなかったかを調べて、バス会社が訴えられたりもするのだろうが僕には関係なかった。一緒に乗っていた女のことを聞いてみると、彼女も命に別状はなく、他の病院に連れていかれたらしい。帰りがけに煙草について小言を言われたが「すいません」と言った。

彼女に会っても仕方ないのだが、彼女が何を綺麗に思ったのか聞いてみたかった。しかし、もう会うこともないだろう。僕は彼女の名前も知らないし、どんな声をしていたかも忘れた。おそらく街中ですれ違っても気付かないで人並みに埋没させてしまうだろう。ポケットの中の指輪だけを記憶に残して。



金子さんと原田は帰っていった。ブラインド越しに夕日が差し込む部屋の中、ソファの上で僕は少しまどろんでいた。太陽に翳して指輪を眺める。起き上がり、貴重な蝶の標本を扱うように机に置いてみる。

もうすぐ夏休みが終わり、冬が来る。原田は高校を卒業すると、遠くの大学に行く。僕は自分で両親の遺産の管理をするようになり、金子さんと会う回数も減る。

僕は孤独に身が耐えられる用に準備をしようと考える。

次もすぐに載せます。

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