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東方捨鴻天  作者: 伝説のハロー
第一章 誇り高き爪と牙
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第一章・第十五羽「巍峨の如き鴻鵠」

“狼の背に乗る烏は、誰も知らぬ鴻鵠となる”


因みに、副題は「ぎがのごときこうこく」と読みます。「巍峨」の意味は、山などが高く聳えるさま、です。


「くっ……―――姉さん……っ」


茅は目の前で相対する樋熊の爪から必死に逃れる道を選んでいく。樋熊を真正面で引き付けながら、背後にいる二人を気に掛けているのか、時折視線は背後を向いた。

視線には、力無く血溜まりを作って倒れている榛を、劫戈が必死に何かを呼び掛けている様子が映る。半分、戦いに集中しているからか、警戒と音は樋熊に向いているために声を聞き取れずにいた。


「くそ、ったれがぁっ!」


視線を戻し、叫ぶ。

己の事を一先ず置いて、気になるのは姉の安否だった。樋熊の爪があちこちを切り裂き、掠り傷を作っているが懸念するほどの致命傷ではない故に、背後を気にする。


「お、おおおっ! 邪魔、邪魔ぁっ!」

「―――っ!」


姉を襲った時と比べて色が茶色に戻った樋熊の言辞と横薙ぎの爪を捉えると共に身を屈めてやり過ごす。空を切る音が遅れて聞こえ、赤黒い水滴が舞うのを尻目に、回避から転じて振り抜かれた腕を押し殴った。


「ぅげぁっ!?」


珍妙な声で驚く樋熊も、流石に予想外だったということだろう。

勢いを殺し切れず、振り抜いた腕を戻す事が出来なくなった樋熊は、茅の拳に押されて一回転するという痴態を晒す。過剰な勢いが樋熊の自重を傾かせ、前に突っ伏す。


「ぬぅぅ―――んっ!!」

「ぎぃ、ぇえぇぁ……っ!!」


その隙を逃さず、渾身の膝蹴りを鼻に食らわせた。骨ごと鼻を砕かれた樋熊は、言葉を放棄した悲鳴を上げて、鼻を押さえながらのた打ち回る。

相当効いたようで、ばったん、ばったん、と体を地面に叩き続けている。でかい魚を真似ているようで、気味が悪い。


「ざまぁみろ……―――っ!?」


身を翻して背後の二人の元へ向かう、としたのだが。

茅が感じ取れる気配は、消え逝く身内と義理の甥が一つになっていく感覚であった。姉はもう助からない、と以前の出来事が重なって彼に突きつける。


―――榛の骸が消えた。流れ出た血も、髪の毛一本すらも残らずに、掻き消えた。


光となって粉のように散り散りと化す、と言う方が適切だろうか。その瞬間を、実弟たる茅は唖然と見るしかなかった。


時間が止まった―――否、長い間、時間を浪費したかのように思えた。


「姉さん……」


茅が見た、姉の最期の眼は光を灯さず、ただ安堵を残すのみだった。

肩を震わせて看取った劫戈を叱責したくて堪らなかった。が、そんな事は出来なかった。一族以外に、特に烏天狗に良い感情を抱いていない白い狼が、怨敵たる烏天狗の息子を庇う行為自体在り得ないというのに、姉は庇ったのだ。


榛は子を守る為に、笑みながら逝ったのだ。責める言動は許されない。


そう、心に言い聞かせた。

血の繋がりを持つ身内が死んだ事を受け入れるのは簡単ではない。仲が良ければ尚更だろう。


「くそ、がっ……」


―――それでも抑え込んだ。


怒鳴り散らしたい気分を、努めて、強く努めて、黒い感情を息として吐き出す程度にした。そして、泣いているだろう烏の子に駆け寄り、力む身体を抑えて小さな肩を掴む。


「……姉さんがお前を守ったんだ……。無下にしたら、許さんぞ」


憎々しげに劫戈の背を睨む。お前の所為だ、と仇敵を見るように影で威圧した。


「早く立て、行くぞ」


責めるに責められない事を半分ほど隠し、最低限の言辞で留めて退散しようと催促した。

対する劫戈は、ゆっくりとした動作で頭を動かした。榛を喪う原因を作ったと自責しているからだろう、肉親に合わせる顔がないとでも思っているに違いない。


無言で顔だけ振り返り、茅に惨状―――涙していただろう酷い顔を見せた。


「な―――」


瞠目。劫戈の顔を見た途端、あまりに予想外な顔に青褪めて絶句した。




◇◇◇




―――僅かに時は戻る。


榛の骸が消えた。流れ出た血も、髪の毛一本すらも残らずに、掻き消えた。


光の粒と化す榛は空気に溶けて、しかし劫戈の腕の中に戻って来ていた。その一部始終を、劫戈は一つ残された灰眼に焼き付けていく。左から滴る涙と、右から溢れる鮮血を絶え間なく流しながら―――。


その時、肩が、震えが伝わるほどの手に掴まれた。背後に茅が戻って来ており、息遣いに黒い感情が混じっていると理解出来る。

劫戈は申し訳ないと自責する中で、どんな顔を向ければ良いのか解らなかった。


「……姉さんがお前を守ったんだ……。無下にしたら、許さんぞ」


憎々しげな言辞。お前の所為だ、と言っているのがすぐに感じ取れた。


「早く立て、行くぞ」


逃げるのだろう、樋熊の生きている気配が感じ取れる事から、脅威は去っていないと察する。

徐に、ゆっくりと背後にいる茅に顔を向けた。


「な―――」


すると茅は瞠目し、青褪めた様子で唖然とする。


それはもう酷い顔だろう。

劫戈の顔は、左眼から涙が零れ落ち、悲壮に歪んでいるのだから。それだけでなく―――右眼の瞼が開かれて傷跡が露わになっており、どろりとした半固形の血が顔半分を真っ赤に染め上げていたのだから。


茅の反応を無視して顔を戻す劫戈は、そこでふと引っ掛かりを覚えた。


おかしいと思えて来てしまうのは、以前のように気配を(・・・)感じ取れなかった(・・・・・・・・)からなのだ。

それ故に、今身に起きている事を鑑みて―――


         ―――我を、汝に与ふ。故、汝に能ふ者無し―――


「―――っ!」


嗚呼、そうか、と納得した。

木霊した榛の声に、茅が驚きの表情に染まっている。劫戈の腕の中で一体何が起きているのか、彼はただただ見やる事しか出来なくなっていた。


それは賛辞、祝福、願望。


拭った顔は落涙の跡が残る。右目からは変わる事無く、鮮血が零れ落ちていく。


「―――貴女には、たくさん迷惑を掛けました」


            ―――目覚めの時は来たれり―――


「優しい人だ……貴女は」


自責に苛まれ、己を激しく責める中、その失敗を次に生かすべく劫戈は立ち上がる。彼は不幸を齎したという後悔の念を持つが、そんな義理の息子を、榛は“それ”になっても尚、許していた。


             ―――汝は飛ぶ事叶わぬ―――


彼は瞼を閉じ、身を委ねた。


「嗤わなかったし、受け入れてくれた」


            ―――ならば、我がその背を押そふ―――


肉体という器が無くなった彼女は、夢幻となって息子を抱擁する。その小さな羽で前に進めぬのなら、新たに大きな翼を与えよう、と。


              ―――汝の大事なものが―――


「います、好いた娘くらい……。やっぱり、解りますか」


両手から伝わって来るのは、感情から感覚、思考といったものまでに至る。まるで他人を傍に置いているようなものだろう。

気味悪い事など無く、寧ろ嬉しさ半分、悲しさ半分といったところ。


「でも、貴女も同じです」


            ―――その掌から零れぬように―――


「……もう、零れてしまいました……他でもない貴女がっ……」


歯を食い縛って項垂れた。

生きていて欲しかった、と口には出せない。出しても意味がないと彼は知っているし、手遅れである事に変わりなかったからだ。


              ―――我は汝を背に乗せ―――


「はい―――受け入れます。己が未熟だったということを……」


榛がどのような過程で今の思いを抱いたのかを知る劫戈は、己の失態を受け入れて誓う。項垂れたのも束の間、強い意志を灯した灰色の瞳が、両手に現存する“それ”を見た。

無骨でありながら、どこか美麗だと思える流形。雪色一色の反り返った“それ”は木、あるいは骨であろうかとも判別が出来ないほどの長物であった。


           ―――飛び立てるまで 共に駆け抜けん―――


「貴女に……そこまでしてもらうなんて」


雪色一色で埋め尽くされたそれは穢れが見当たらない。長物は―――義母たる榛だったもの。生前を反映してか、とても眩しく麗しい造形であった。


銘を―――


(はしばみの)爪牙(そうが)


―――とす。


芸術的観点を無視して一見、整えられた棒のようにも見える“それ”。その端に、切れ目が入っている事に気が付いた。

劫戈は抱えていた“それ”を持ち直し、それが一体何を意味するのか解った上で、確信を持ってその部分に手を掛ける。

両手で持って共に抜き放ち―――


「……感謝に、堪えません」


声と“それ”を持つ左手が震えた。眼だけでなく脳裏に焼き付く光景に感極まったからだ。


現れたのは、曇り無き一本の刃物にして、差し込む日に応じて輝き返すものであった。


それは、無始曠劫の時より伝わり、実用され続けている人間達の得物。最近になって誰かが派生させ、武器として突き詰めた形状へと辿り着いた代物。

所謂、片刃の剣―――“刀”と呼ばれた、斬るための武器である。


劫戈自身、実物を見るのは初めてであるが、無慈悲な教育にて培った知識が、違う事無き刀だと確信を持たせた。一昔前の人間が扱っていた刺す事に特化した真っ直ぐな両刃剣のそれとは違い、片方に刃があり反り返っているという特徴を持つ。


「……綺麗だ。ただ、綺麗だ」


一瞬、呆気に取られる。

武器というよりも自然の華と形容出来るほど、その刀身は眩しいまでに、白銀に照り返していた。

劫戈の片腕ほどの長さを持ち、無駄というものを感じさせない。柄となる部位と刀身に挟まれた(はばき)には、『(はしばみ)』と彫られており、その部位だけは榛の名の由来となったであろう黄色がかった薄茶色で彩られている。


自らの命を賭して劫戈を空へ解き放つのだと。榛が己の命を武器とした代物―――“釼”。


榛が命を刃に変えた。他でもない、息子の為に、その命を賭して。


劫戈は釼を通して流れ込んで来る底知れぬ力を受け止めながら、柄を握り締める。対し、鞘を腰紐に差し込んで無沙汰となった右手は顔へと延びる。顔の右半分を覆っていた血に触れ、引き剥がすように振るった。


「―――貴女が繋いだこの命で、皆の命を繋ぎます」


灰色の隻眼には、強い意志が込められた。

今、この瞬間―――幼い烏は産声を上げ、殻を突き破る刻を迎えた。


固まって動けない茅を押し退けて、劫戈は樋熊に眼を向けた。


「下がってくれ。奴は、俺が()る……!」

「え……ぁ、ああ―――」

「あ、あ……あうぅぁ……う、嘘だっ」


正気に舞い戻った茅が言い切る前に、今までのた打ち回っていた樋熊は、鼻を押さえて既に起き上がっていた。

しかし、先程まで猛威を振るっていた威勢は、最早どこ吹く風。恐れを成したように怯えて、慄いて後退りする。

大妖怪、など名ばかりの木偶と化した樋熊に、哀れ者を見るかのような目を向ける劫戈は、彼と榛だけの土壇場を作り上げる事とした。


              ―――我は、賭した狼の背にて―――


それは先達となった亡き義母に続く太祝詞にして、抑圧された劣等感を覆す啓示のような絶対なる意志。


              ―――能う者無き爪牙と翼を得る―――


背から生えていた一対の羽根が根元ごと散った。力を失った羽根は、骨格も纏めて千切れてぼとりと生々しい音と共に地へ沈む。役目を失ったように落ちると、勢いに乗って羽毛が舞い、榛が横たわっていた目の前の血溜まりに入り込む。


それを合図に、次の瞬間、それは起こった。


背から噴出したのは―――黒。


黒ではあるが完全な黒ではなく、青を微かに帯びた黒。烏が持つ独特な濡羽色のそれであり、劫戈には今まで貧相で脆弱なものでしかなかった、烏天狗ならではの一部。


そう、それは即ち。


「我は劫戈(こうか)……(はる)の全てを譲り受けた者」


――― 一対の“翼”だった。


例えるなら、“巍峨の如き鴻鵠”。

白い狼の爪牙を携え、黒き翼を備える烏と化す。


少年の体躯には不釣り合いな大きさのそれは、露骨ながら力の強大さを表している。広げた際の風切り音、巻き起こる風、どれも大人の烏天狗を凌いだものであった。

大妖怪手前の木皿儀日方と比べるならば、五分五分の領域と思わせる凄みを醸し出している。


劫戈には解る。妖力の質と量は、共にかつての己を上回っている。それだけでなく、今まで到達出来なかった妖怪らしい人外の力を発揮出来る状態にある、と。

他でもない、榛の命を文字通り背負っているから、ここまで至れたのだろう。


力の相乗が起きているのは当然であった。


命を釼に変えたのならば、そこから得られる力は莫大なものとなる。一妖怪が保有する一生分の妖力やら固有能力やらが詰まっているからなのだ。


榛が行った秘術は、御業に劣らぬとも相応の価値がある―――他者を昇華させる技であった。彼女は今、劫戈の手に収まっている釼そのものとして、彼を強者へと押し上げる。相対する樋熊を超える為に。


離れて見ていた茅も、それが強く解った。姉である榛が、劫戈の為に全てを捧げた事を。劫戈が握る釼に、榛の願いが宿っている事を。


爪牙、翼―――それらが揃った今の彼ならば、敵を叩き伏すに足りる。


「―――聞こえたろう、我が母の言葉が。“我に能う者無し”、と」

「ヒィ―――」


息詰まる様子を見せる樋熊。翳された白銀の刀身を、まるで神と遭遇したかのような形相で首を何度も振って否定している。先ほどまで毛に纏わり付いていた薄茶色の妖力が剥がれるように垂れ流されるほど、制御意識を掻っ攫われてしまっている様は実に滑稽に見えた。


この時点で、二人の格差は―――明白となっていた。


妖力は質の濃さと量がものを言う。質が濃く量が多い者、あるいは操作が巧みな者ほど争いに競り勝ち、どのような場面でも優位になれるからだ。

大妖怪の特徴がこれに当たるのだが、その逆は当然ながら弱小妖怪、または低級妖怪と区分される。


眼前の樋熊は、大妖怪並みの妖力持ちだ。勿論、弱小妖怪如きが正面から歯向かえるほどの弱い存在ではない。対等でも断じてない。

妖力は質と量と操作が重要であるならば、現状は好機だ。樋熊は今、妖力を垂れ流しにし、操作を怠っている。所謂、“宝の持ち腐れ”状態と言える。


詰まる所、垂れ流し状態では、本来の強さを発揮し得ない。それが、その慢心こそが―――勝機へと繋がるのだ。


―――今が、まさにその時であった。しかも劫戈は榛の恩恵の下にある。


「く、くそ……くそっ―――クッソォォォオオオオオオッ!!」


奇声と共に振り下ろされた死への誘いは、劫戈の首を捉えた。数々の白狼を葬ってきた凶刃は、子供でしかない劫戈の細くひ弱な首など呆気無く刎ねる事は間違いない。

劫戈は怯えに怯えきって、認知する事も出来ないままあの世に送られる事だろう。たとえ、榛が身を挺した事で延命しても、所詮は一時の猶予である。偶然にも死を回避出来たとして、樋熊が得物を前にして止めるとは考えられない。絶え間なく続いていくとしたら、果たして小さな烏は避けられるか。


見えなければ、攻撃の予知も初動の見極めも出来ぬまま肉片に変貌する。


そんな最中、劫戈は達観したような顔で、それが迫るのを見ていた。


「―――これが、妖怪の視る世界か」


速過ぎて眼で追えない樋熊の爪を―――しかし、劫戈は怯える事無く冷静に、はっきりと見ていた。今まで感知出来なかった世界を、彼はゆったりとした時間で認識し、相手より上回る速さで動く。


今、彼は榛の命を背負っている。それは、大妖怪に通ずる力を得たと同義なのである。


「ああ、痛いな……」


劫戈は悲嘆が籠った声と共に、樋熊の凶刃を防ぐ。肉よりも薄い筈の片翼で防ぎ切ってみせた。丁度、手羽の甲に当たる部位で、恐ろしいほどの切れ味を持つ爪を押し留めている。


拮抗するように、互いを反発させる羽毛と爪。

爪によって押され、しなやかさを得ながらも、劫戈本体には全くの外傷を通さない。薄くて撓んで当然の翼は艶やかでいて、樋熊の爪を通さないという非常に堅牢なものと化していた。


「チィ、ィィィイイイイイイイイイッ!!」


舌打ちと奇声を同時に発する樋熊はその事実を是としないのか、強引に突破しようとする。

見事に防いだ劫戈だったが、その防御は完璧とは言えなかった。羽毛が爪に耐えられなかったのか、遂に食い込んだ爪によって裂かれてしまう。


「今の俺はこんな痛みしか感じられない……」


―――ところが、裂いたのは表面のみ。血が薄らと滲む程度に済ませている。

信じられないものを見るように狼狽する樋熊は、眼を限界まで見開いて、小さな烏を凝視する。


「な……なんだ、お前……さっきとまるで違う……! 何をした!?」

「榛さんは……いや、皆はもっと痛かった筈だ」


樋熊の問いに、劫戈は絞り出すように全く違う事を呟く。話が噛み合っていないのは、彼が樋熊の言葉に耳を貸していないからだった。


「こんなものよりも痛い筈だ……けど、それほど痛く感じない」


限界まで開いた瞼を超えて、目玉の代わりと言わんばかりに溢れるのは、どろっとした血。


「父から受けた、この痛み……。全く以って辛く感じない!」


顔が強張っていく劫戈は、流れ出る血を意に介さず言葉を吐き出していく。


「お前には解るまい……! 胸を刺すこの痛みは……そんな爪なんかより―――比べ物にならないんだよォッ!!」


咆哮して。

踏み込んで。

左腕を振り上げて。


「だから―――殺す」


全力で―――反撃した。


「ぁ、が―――」


樋熊の右腕が、肩口まで縦に引き裂かれて吹き飛んだ。

血潮が沸き上がる次の瞬間には、劫戈は消え失せて樋熊の背後に現れていた。


音が遅れて着いてくる。


「ギィ―――」


樋熊の悲鳴が、動作が、追い付けない領域の中で、劫戈は駆け抜ける。あまりの速さに体の止めが効かず、地面に着いた足は土を削り取って大きく樋熊から距離を作った。


「―――ィィァァアアアアア…………あァッ!?」

「……うるさい」


劫戈が再度駆け抜けると、樋熊の悲鳴は無理やり中断させられた。今度は膝から下の左足が、吹き飛んだ為だ。

勿論、劫戈が振るった釼によるものであった。通り抜ける際に一閃を加え、堅く備わっていた剛毛を物ともせずに突破して切り飛ばしていたのだ。


「ぐぅ、ぅうあああ……!! い、痛い! 痛いぃぃいいい!! よ、っくもォォォオオオオオッ!!」


痛みで我に返ったのか、樋熊は怒気を含むも理性の利いた眼で劫戈を睨む。頭に血が上っているようで冷静に動いた樋熊は、垂れ流しにしていた薄茶色の妖力を纏め上げた。そこへ真っ赤な血が集まり始めて、樋熊の周りに集結する。


「壊れろぉぉおおおっ!!」


意志に応じた血潮は形を変えて、無数の三日月を形作る。こうして出来上がった血の飛刃は、劫戈目掛けて襲い掛かった。まるで烏天狗が扱う鎌鼬のような複数の飛翔物は、弧を描きながら空気を引き裂いて劫戈に迫る。


「無駄だ」


それに対し、劫戈は冷静に対処して見せる。かつての彼ならば、恐れ戦いたであろう死への恐怖を、この時は一切抱かなかった。左手に携えた、“釼”と化した義母の恩恵であるのは間違いないだろう。


大きな翼が灰色の光を―――妖力を乗せ、何度も弾き飛ばす。飛来する脅威から、劫戈は前を覆うように広げた翼で身を守り、鉄同士がぶつかり合う甲高く固い音を響き渡らせた。

衝突した時には、血の刃は在らぬ方へ飛ばされ、離れた茂みあたりに命中する。葉を跡形もなく切り裂き、木を裁断して地面すらも穿って、瞬く間にそれらを解体した。

その威力は血でありながらも、樋熊の爪とほぼ同じものとなっている事は明白であった。しかし、劫戈の翼を突破する処か、傷付ける事すら至っていない威力で留まっていた。


「なっ……ぁ……―――」


またもや、樋熊の顔には驚愕の意が宿る。焦燥も多く混じり、血の気が引き始めていた。


かつては微量でしかなかった劫戈の妖力は、今では身体から溢れるほどの量と、樋熊が追随出来ないほどの質へと昇華されている。灰色であるのは、彼の黒と榛の白が一つになったからだった。


前を覆った翼から劫戈は顔を覗かせると、堅牢でいて軽やかな翼を横で待機させた。最初に受けた傷が妖力を纏ったお蔭で癒されたのか、濡れ羽色の翼はふわりとした動作と共に艶やかな光を放つ。


そして。


「―――この世から去ね」


徐に、呟いた。

樋熊はその言辞を以って唖然と戦意を失い、突っ立ったままだった。というよりは、受け入れがたい事態に、放心していたと言った方がいいかもしれない。



圧倒的な力の差。



一対一であるというのに、大人と子供であるというのに、弱小と猛者であるというのに―――。



即席であっても、多くの命が彼を救ったのも―――全ては事実。



冷汗を掻く茅は目元を引き攣らせ、弱小から脱却した劫戈を見やる。


「あいつが……日方の息子であるのを忘れかけてた……」


今の劫戈は烏天狗としては、最早上位の存在となっていた。それを見ていた茅含めた樋熊は、察する他無い。


名の知れた烏天狗は、今の世では有名である。代表的なのは頭から、津雲、日方、空将の三名だ。


それらを彷彿とさせるような佇まいを感じさせる劫戈は、茅にとって怨敵に見えただろうが、劫戈と言う存在が全く新しい存在として映っただろう。



―――“隻眼の烏天狗”の誕生だった。



死の宣告から少しして―――劫戈が姿を消した。


直後、大きな体躯の樋熊が宙を舞う。その体躯で相当な重量があるにも関わらず、樋熊は顎を砕かれながら打ち上げられていた。


「……うげぇ―――ぎゃ、ぁああああああっ!?」


震え上がった悲鳴が上がると、四方八方から切り刻まれる樋熊。

速過ぎて最早、黒い何条もの線にしか見えない、あちこちから斬撃を繰り返す劫戈。

汚い血潮を撒き散らして、地面を海と化すのは一体どっちの仕業か解らなくなっていく。血肉が飛び、骨が細断され、悲鳴が上がるという現状を、つい昨日まで弱かった小さな烏が行っていた。


「これで―――」


斃す、という彼の中にある意志で、実現した斬殺劇。

もう樋熊は、上と下が生き別れた達磨と化していた。悲鳴を切らし、口から泡を吹いて虫の息となっている。


「終いだぁぁあああっ!!」


雪色の一閃。振りかぶって樋熊の首を刎ね、遥か上空へと突き抜けた。その衝撃に耐えきれず、樋熊の頭部は拉げ、分散されて無数に千切れ飛んだ。いずれは蛆虫らの餌となるだろう。


樋熊だった肉塊が地を揺らしてそこへ落ちる。ぐちゃぐちゃに打ち捨てられ、無惨に狩られた小鹿のような残骸へと成り果てたのだった。

次いで、向き直って釼を振り払う劫戈は、釼―――“榛爪牙”を掲げて見る。雪色の釼は、汚れすらも残していなかった。


「……」


文字通り樋熊を切り刻んだ劫戈は、勝利を掴んだ。しかしながら、顔に出ている通り、彼の胸中は素直に喜んでいなかった。


もう一度、彼は右の顔を拭う。手に付着した血はどろりとしていて、水より流れが悪い。

彼の意志に反して、常に開いた瞼は血を出し続けている。だというのに、全く意識を悪くさせないでいたのは、痛みという感覚が麻痺していた事だ。戦闘中は一切気にしなかったのもそうであろう。

指で強引に瞼を閉じさせると、不思議な事に溢れた血は流れを止めた。


だらり、と腕を下げ、脱力する。


「空……こんな風に見るのは初めてだ」


彼が佇んだのは、かつて憧れて、そして諦めてしまった筈の蒼空。曇りの無いそこは、惨劇が起きたというのに、恨めしいと思えるくらい最高の晴れ具合でもあった。


「空は良い。でも、嬉しくないな……」


劫戈はふと、薄明の中、常に見ていた太陽に向く。無情で固まった彼の顔を、温かく照らした。


茅が声を掛けるまで、彼はそこに居続けた。そうしていたのは、冷たさを紛らわす為だったかもしれない。

手から滴る血を無視して―――。
















―――血の雫が地に落ちる前に、銀色になって掻き消えたのを無視して。



第一章、了。

今回の後書きでは、犠牲者を記しません。次回で生存者を明確にしたいと思います。その次回では、第一章から時間が経過した戦後処理のような話です。白狼編は終わり、物語は次のステージへ移る準備に入ります。


気付いたら、この小説を投稿して一年が経過していました。早いものですね……それに比べて進行スピードは遅いですよね、すみません(悲)

だというのに、今も尚お気に入りとして下さっている読者様、更には高評価を下さった方には感謝しか申し上げる言葉がありません。本当に有難う御座います。

さて、大学二年目となった作者は今まで以上に忙しくなってしまいました。本当に、忙殺されそうです。大変申し訳ないのですが、もしかしたら遅筆に更なる拍車が掛かるかもしれません。これは飽く迄、始まった現段階での事なので、今のところ断言は出来ず……。御了承のほどを願います。


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