お気に入り
教室の中は夕日で茜色に染まり、桜井和巴の紅潮した頬の色を隠してくれている。だからわざわざ、この時間を選んだのだ。
目の前に佇んで窓外を眺めていた男が、ゆっくりと和巴に視線を移す。彼の姿もまた茜色に染め上げられている。
「用って、何?」
いつも耳にしている、優しいけれど意志の強そうな声に、和巴はごくりと唾を飲み込んだ。
彼をここに呼び出したのは和巴だった。この胸の奥に秘めた想いを告げるために、なけなしの勇気を振り絞って声をかけたのだ。
「あ、あの」
真正面から見つめられ、緊張のあまり言葉が出てこない。昨夜ベッドの中であれだけ練習した言葉であるにもかかわらず、己の不甲斐なさに不覚にも涙が滲んで来た。
「仕方がないな。俺の用件を先に済ませてもいいかな」
「え?」
男の足が動き、和巴に向かってゆっくりと近付いてくる。焦りと気恥ずかしさで思わず後退った彼女の足が机の脚を蹴飛ばした音が、二人きりの教室内に響いた。
思わずよろけた和巴の体を咄嗟に伸ばした腕で男が抱きとめ、そのままその広い胸に引き寄せられる。
心臓が一気に跳ねた。動悸が激しくなり、眩暈までして来そうだ。
「和巴。俺は、君が好きだ」
和巴ははっと息を呑んだ。思わず上げた視線が、男のそれと絡み合う。
「わ、わたし、も。わたしも、ずっと好きだったの」
やっとの事でその言葉を伝える。背中に回されていた男の手がゆっくりと頬に触れ、やがて顎に達する。呆気なく上向きにされた顔に彼のそれが近付き、和巴はゆっくりと目を閉じた。
「……は。かーずーはー」
近くで名前を呼ぶ声が聞こえて来たが、幸せに浸る和巴は、完全に無視をしていた。ずっと想い続けていた相手にようやく気持ちが届いたのだから、このまま二人きりでいたかった。
「おい、こら」
人のキスシーンに割り込むように、肩を掴まれ体を揺すられる。人の恋路を邪魔するような奴は、馬に蹴られて世界の果てまで飛んで行け。和巴は心の中で相手を罵った。
「いい加減、起きろよ。起きないとキスするぞ」
(キス? だから人のキスシーンを邪魔しているのはあんただっての)
心の中で文句を言った次の瞬間、頭に衝撃を感じた。撫でられているとか手を乗せられているなどといったそんな可愛いものではなく、何か固い物がぶつかったというよりもむしろ殴られたという感じの結構な衝撃だった。
「なっ、なにすんのよっ」
夕日に染められた教室の中勢いよく顔を上げた和巴は、痛む頭を両手で押さえる羽目になった。
「お。やーっと起きたか。下校時間、過ぎているぞ」
痛みのために涙が滲んでいる目を、声の主に向けた。呆れ顔で見下ろしてくる男子生徒は、和巴がよく見知っている相手だった。
「え。もうそんな時間、って、いったーっ」
慌てて時計を確認しようと頭をめぐらせると、またしても頭に衝撃を感じる。ちらりと見えた時計が指し示している時間は、最終下校時間の午後六時半を少し回ったところだった。
せっかくいい夢を見ていたのに、聡史の顔を見て一気に現実に引き戻された気がする。
「ちょっとっ。女の子の頭をグーで殴んないでよっ」
「未だ寝ぼけているっぽいから、親切に起こしてやったんじゃないか」
そう告げる男子生徒の表情は、愉快そうに綻んでいる。
二年生の和巴よりも一つ年上の隣人。それがこの長居聡史だった。但し和巴が小学五年生だった時に長居家が隣家に引っ越して来たので、いわゆる幼馴染というほど長い付き合ではない。
女の和巴でさえもうっかり見惚れてしまう艶やかな微笑みは、女子のみならず一部の男子生徒を魅了して止まない。それはそれで怖いものがある気もするが、和巴はできるだけ考えないようにしていた。
男にしておくのは勿体ないと評されるほど整った造作の、その顔の下に隠された本性を知っているのは、現在進行形でその被害に遭っている和巴の他には聡史の家族くらいなものだろう。
「余計なお世話よっ」
「思いっきりにやけていたけれど、一体どんな夢を見ていたのかな」
「あ、あんたには関係ないでしょっ」
「お前、仮にも先輩に対してその口の利き方はなんだ」
「いっ、いでででで。ふぁはひへほ」
両頬を思い切り抓られ、和巴はまともに喋る事もできない。
いつもならば涙が滲むくらいまで抓られるはずなのだが、予想外にも聡史の手にこめられた力はすぐに緩められた。
「かっ、仮にも女の子の顔に、何て事すんのよっ」
和巴は赤くなって僅かにひりつく両頬を手で押さえ、目の前の涼しげに整った隣人の顔を睨みつける。
「仮りじゃなきゃ女じゃないみたいな言い種だな」
「そっちこそ、仮りでもなきゃ先輩なんかじゃないくせにっ」
「少なくともお前より一年は長く生きている、人生の先輩だろうが」
「なによっ。たった三ヶ月しか変わんないくせに人生の先輩なんてぶっこいてくれちゃってっ」
それまで肩を怒らせて怒鳴りつける和巴の様子を飄々と眺めていた聡史の目が、すっと細められた。その目つきに嫌な記憶が呼び起こされ、和巴の顔から血の気が引いていく。
「そういう生意気な口は、塞いでしまうに限るよな」
にやり。綺麗な顔に嫌な笑いを浮かべたかと思うと、抵抗する間もなく聡史の唇が和巴のそれに重なった。後頭部に手を回され、逃げられないようにしっかりと頭を固定される。
和巴も必死に胸を押し返して体を離そうと試みるが、体格と体力の差は歴然としており、とてもではないが敵うはずもない。背中に回された手が腰に移動し、頭を固定していた手が背中まで下がってきて、ようやく繋がっていた唇の間に距離が生まれた。
「って、なにすんのよーっ」
両手で聡史の顔を力いっぱい押し退けると、思ったよりも簡単に体が離れる。
「なにって、キスだろうが。いいかげん慣れろよ」
「慣れるかーっ」
「だから、俺が慣らしてやるって言っているんじゃないか」
「いらんわ、ボケっ」
沈み始めた夕日が地平線に落ちるのはあっという間の事で、教室内は既に薄暗くなっている。痛む頭部をさすりながら、和巴は大きく息を吐いた。
「ところでお前、何でいつもここにいるんだ」
鞄を手に取り、教室を出るために一歩を踏み出した和巴は、聡史の言葉にぎくりとした。
「あんたに関係ないでしょ」
「関係なくもないだろう」
実は関係は大ありだった。この教室からは、和巴の教室からは見えないものが見えるのだ。それを見るために、わざわざ放課後人気の引いたこの場所に、毎日足を運んでいる。
「ここからだと、よく見えるよなあ」
「なっ、なにが、よ」
「テニスコート」
思わず息とともに言葉を呑み込んでしまった和巴の喉が、奇妙な音を立てた。気付かれないとは思わなかったが、一年半の間なにも言わなかったにもかかわらず、今になってわざわざ指摘する事もないのではないか。
「お前が入学してきて一年半、毎日ここに迎えに来てるのは誰だと思っているんだ」
「さとちゃん、です」
放課後ここにいるのが当然になるほど毎日通い詰めている和巴を、悪態をつきながらも引きずって帰るのが聡史の日課になっていた。
「高校三年間テニス部の俺が、ここからのロケーションに気付かないと思う方がおかしいんじゃないのか」
ああ、と和巴は無言で溜息を吐く。どうしてこの場所がこんなに気に入っていたのか、一番知られたくない相手に気付かれていたらしい事が分かり、途方に暮れてしまう。
先ほど夢の中で和巴が告白していたのもこの場所なら、キスをしていたのも、実はここだった。
「さとちゃんは」
「ん?」
「さとちゃんは、どういうつもりでわたしにキスなんかしてくるのよ」
「は?」
電気のついていない室内が、上履きに書いた名前すらも目視できないほど暗くなっている。間もなく最終下校時間なのだから一刻も早く校外に出るべきなのだが、和巴はここから動けなくなっていた。
ぱたっと、何かが床に落ちる音が響く。
「だってわたし、さとちゃんから好きだとか言われた事なんか一度もないし、いつだってまるで嫌がらせみたいに無理やりだし」
ぱたぱた、と続けざまに音が続き、ようやく和巴は自分が泣いている事に気付いた。頬を伝った涙が、後から後から床に落ちる。
「和巴?」
和巴の様子がおかしい事に気付いた聡史が、驚いたように目を見開く。
「触んないでよっ。さとちゃんなんか、だいっ嫌いなんだからっ」
伸びて来た聡史の手を強く払いのけると、手に持っていた鞄を投げつけ、和巴は動かなかった足を奮い立たせて教室を飛び出した。
「和巴っ」
聡史が鞄を受け止めてよろけた体勢を整えている間に、和巴の足音がどんどん遠くなっていく。和巴は昔から、体育は不得意なくせに逃げ足だけは速かったのだ。
「あの、バカ」
本当に馬鹿なのは和巴ではなく聡史自身かもしれない。一つ大きな溜息を吐いて二人分の鞄を拾い上げると、和巴の後を追うべく暗がりの中から走り出した。
日頃の運動音痴ぶりからは考えられないような俊足で学校を後にした和巴は、力いっぱい自転車をこぎながら必死に帰宅した。一部では「ちゃりんこ暴走族」と揶揄されている和巴のこぎっぷりは、すれ違う車の運転手達を驚かせたほどだ。
文字通り転がるように家に逃げ込んだ時の鬼気迫った形相に、三つ下の弟が飛び上がるような勢いで驚いていようが心配した母がキッチンから顔を覗かせようが構わず、和巴は自分の部屋に駆け込んだ。
「さとちゃんの、バカ。唐変木。おたんこなすっ」
ひと言罵るたびに枕を殴りつける。
「夢の中のさとちゃんは、あんなに優しかったのにっ」
そう。和巴が毎日テニスコートが見える教室で放課後を過ごしていたのは、実は性格の悪い隣人をこっそりと見つめるためだったのだ。
夕日が差し込む西向きの窓があるあの教室は、和巴のお気に入りの場所になっていた。それもこれも、聡史の姿をこっそりと眺める事ができるからだったのだ。もっとも、聡史本人が迎えに来ていた時点で既に「こっそり」ではなかった事に気付かなかった和巴は、ある意味天然と言える。
そして今日、夕日に染まったあの場所で、聡史に告白して優しくキスされるという幸せな夢を見たというのに。
「現実のさとちゃんなんて、やっぱり意地悪でいけずで唐変木でこんこんちきの大バカ野郎なんだからーっ」
「誰が意地悪でいけずで唐変木でこんこんちきだって?」
未だかつてないほどの冷ややかな声に、和巴の背中に冷たい汗が流れた。まさかという思いで恐る恐る顔を上げると、開け放ったままになっていたドアの枠に腕を組んで凭れかかっている聡史の姿があった。足元には、和巴と聡史二人分の鞄が転がっている。
さらには涼しげな顔を装っているが、肩で大きく息をしているのがシルエットから窺える。
思わず「げっ」と小さく唸りながら、和巴は体中の血の気が引いていくのを感じた。
静かに怒りを背負って近づく聡史を前に、和巴の思考中枢は完全に麻痺している。逃げる事も隠れる事もできず、ただ恐れ戦きながら怒りの権現と化した聡史の姿を眺める事しかできない。
「おおバカ野郎とも言っていたよなあ」
「そっ、それは」
子供の頃からの刷り込みで、聡史を怒らせるととんでもない目に遭わされる事を、頭よりも体が覚えている。思わず脳裏に浮かぶ過去の出来事に、和巴は一気に血の気が引いていくのを感じた。
「ど、どこから、聞いてたのよ」
「夢の中がどうのこうのってところから」
げ、と和巴の喉の奥から妙な声が出た。まさか聞かれていたとは思わなかったからこそ出て来た言葉だったからだった。
「どんな夢を見ていたんだろうなあ、和巴?」
いつもの薄気味悪い作り笑いすら浮かべず、むしろこめかみが細かく引きつっているその様は、未だかつてないほどの恐ろしさを感じさせるのに十分な迫力を持っている。ベッドに上半身を起こしたまま身動き一つできずに、和巴は迫り来る恐怖に身を震わせた。
「嫌がらせ、だって? お前、そんな事考えながら俺とキスしてたのかよ」
「さ、さとちゃん?」
「確かに俺からは何も言っていないけどな? お前こそどういうつもりで毎日俺の事を見ていたんだ」
「べ、べつに、さとちゃんを見ていたわけじゃないんだからっ。自惚れないでよっ」
思わず和巴の口をついて出た言葉に、聡史は僅かにだが眉を顰めた。まるで痛みを堪えるような表情は、しかし次の瞬間綺麗に消え去っている。
「じゃあ、誰を見てたってんだ。里見か、それとも蒔田か」
聡史はテニス部の中でも人気の高い者たちの名前を挙げた。その間にも、どんどん和巴との距離は短くなっている。
「あ、あの」
そこで咄嗟に誰かの名前を出せばいいのだが、和巴が口にしたが最後、その相手が聡史によってかなり手痛い仕打ちを受ける事は目に見えていた。そしてそれは単なる憶測ではなく、過去何度か目の当たりにした実績があったのだから始末が悪い。
そんな過去の経験上、和巴は嘘などつく事はできなかった。
「適当な嘘言ってんじゃないよ。そんなに俺の事が嫌なら、はっきり言えばよかったんだろう」
何も言い返さない和巴に、聡史の声のトーンが低くなる。右膝がベッドにかかった。
「俺の気持ちがどうのこうの言う前に、お前の気持ちとやらを聞いた事もないだろう。勝手な事ほざいてんのは、お前の方だ」
伸びて来た手に和巴の体が強張り、それを避けようと身を引く。だがそれも狭いベッドの上での事。二人の距離は開くどころか、更に身を乗り出して来た聡史によって一気に詰められた。
制服のブラウスの襟元を掴まれ、引き寄せられたと思った次の瞬間、まるで噛み付くようなキスをされる。
「人の気も知らないで、好き放題言っているんじゃないよ」
日ごろの人当たりのいいお隣さんは身を潜め、笑顔の下に隠されている短気で我侭な聡史の本性が見え始めていた。
「さ、さとちゃんの気持ちなんて、言ってくれなきゃ分かるはずないじゃないっ」
不意に襟元を掴まれていた力が強くなり、それに引きずられた和巴の体が傾いた。天地がひっくり返り、目の前に聡史の端整な顔がある。聡史に組み伏せられている事に和巴が気付いたのは、数秒経ってからの事だった。
喉元を締め上げるように掴まれていた聡の手が緩められ、首筋を撫で上げられる。
「ひゃっ?」
突然の感触に、和巴の全身の肌がぞわりと波立った。
「分かるだろう、普通」
「分かんないから聞いてんじゃないっ」
僅かに驚いたように目を見開いた聡史の表情が、次の瞬間苦々しげに顰められる。
「んで、泣いてんだよ、お前は」
溜息にも似た声に、和巴はきょとんと聡を見上げる。
「あー、もう。なんでお前はこんなにバカなんだろうな」
「バ、バカってのはないじゃないっ」
むきになって頭を左右に振った時、和巴はようやく目尻から耳元近くに伝う水滴に気がついた。
「え? あれ? なんで泣いてんの、わたし?」
慌てて両手でごしごしと目を擦る。擦っても擦っても涙は止まる事なく溢れ出て、仰向けになっている和巴の髪を濡らしていた。
「つまりお前は、俺の気持ちが分からないって泣くくらい、俺に惚れているって事だろう」
聡史の言葉が耳に届いてからそれを咀嚼し理解するまで、さらに数秒を要した。いつもならばその反応の遅さに怒りを買うところなのだが、本性を晒け出している状態の聡史にしては至極珍しく、ただ黙って和巴の様子を眺めている。
「え? 惚れ、って。えええええーっ?」
ようやく理解した和巴は、思わず叫んでいた。その大声に、聡史が上体を起こして顔を背ける。
「ななななな」
「なんで俺が知っているのかって?」
聡史の言葉に、和巴はこくこくと頷く。いつの間にか涙は止まっているのだが、その事にすら気付いていなかった。
「あれだけ見え見えな態度で、分からないと思う方がおかしいんじゃないか?」
心底バカにした目つきで見つめられ、ただでさえ許容量いっぱいだった和巴の頭が飽和状態に陥っている。つまり、正常に機能しなくなっているのだ。
「何でよりによってお前なんだろうな」
女なんて他にいくらでもいるし、実際選り取りみどりなのに。聡史はそう言って、また深い溜息を吐いた。
「よりによって、ってなに」
何気に失礼な事を言われている気がするが、真意が掴めず、和巴がむっとした顔をする。
「未だ、分かんねえの?」
「分かんない」
「だったら、分かるように行動してやるよ」
一旦は和巴の上から退いていた聡史の体が戻って来た。再び組み敷かれる体勢になり、和巴は頭が沸騰しそうなくらい慌てふためいている。
じたばたと無駄な足掻きをしている間に近づいて来た聡史の唇に自分のそれを塞がれ、更には空気を求めて僅かに開いた隙間から侵入して来た舌に翻弄され、和巴は息も絶え絶えの状態に陥ってしまった。
ようやく唇が解放されて空気を胸いっぱいに吸い込んだ時、和巴の顔中にキスを降らせていた聡史の唇が耳元に辿りつき、柔らかな耳朶を甘噛みした。
「んじゃ、いただきます」
思わず肩を竦めて息を呑む和巴の耳元で、熱を含んだ声が甘い響きを伴って囁かれた。
「え? ええっ?」
慌てふためく和巴とは対照的に、聡史の機嫌はやたらといい。先程までの不機嫌など欠片も感じさせず、鼻歌まで出て来そうなほどの勢いだった。
和巴の悲鳴が空しく桜井家に響き渡る。
「あらあ。今日はお赤飯ねえ」
夕食の準備をしながら、和巴の母がにこやかに和巴の部屋がある方向を見上げている。
「おお。聡史兄、とうとう実力行使に出たか」
現在中二で思春期真っ盛りの和巴の弟羽月がテーブルに片肘をつき、皿に盛られたエビフライを一匹口に放り込みながら苦笑いを浮かべている。娘であり姉である和巴を助ける気など毛の先程もないらしい母と息子は、これでも彼らなりに二人の恋愛成就を喜んでいた。そして実は密かに、和巴の母と聡史の母の間で「聡史と和巴を結婚させよう会」なるものが、結成されていたのだ。
「親父が知ったら泣くだろうなあ」
「泣くわねえ、きっと」
遠く北の地で単身赴任中の父は、目に入れても痛くないほど和巴を可愛がっている。家族から見ても、過度で立派な親ばか・子煩悩なのだ。和巴の貞操が聡史に奪われたと知った彼がどんな反応を示すのかは、容易に想像する事ができた。
「まあ、あの人の事はどうでもいから、羽月、商店街のお餅屋さんでお赤飯買って来て。お隣の分もね」
その夜両家が夕食を持ち寄り、当事者である和巴の意思を見事なまでに無視した「お祝い」と称するどんちゃん騒ぎが、夜遅くまで繰り広げられた。
翌日の放課後。
和巴はぐったりと疲れた顔をしてはいるものの、いつもの場所からテニスコートを眺め、時折深い溜息を吐いていた。昨夜の事を思い出すだけで、頭がくらくらするのだ。
両家の家族は異様に喜んで盛り上がっていた。あの時はその場の勢いに圧倒されてしまっていたのだが、冷静になってから、肝心な事を聞いていなかった事に気付いたのだ。
「結局、どうなんだろ」
「なにがどうだって?」
独り言のつもりで呟いたのに、思いがけず声が返ってきてしまい内心かなり焦った。机に伏せていた顔を上げると、いつものように帰り支度をすませて和巴を迎えに来たらしい聡史がそこに立っている。
「わたし、昨日さとちゃんから『好きだ』って言ってもらってないよね」
「そうだったかな。ってか、普通言わなくても分かるだろう」
「分かんないから聞いてるんじゃない」
和巴はむっと口を結び、恨めしげに上目遣いで聡史を見上げた。
「お前、俺以外の奴の前でそういう顔は見せるなよ?」
「あ。ずるいっ。話題を変えようとしてる!」
「してないって。でも俺も、お前の口からは何も聞いていないけどな」
「うそ! だって昨日」
思わず立ち上がった和巴は、突然聡史に掴まれた腕を引かれた。よろけた和巴の体は、当然の事ながら聡史に向かって倒れこむ。あ、と思う間もなく、長い腕に抱きしめられてしまっている。
「聞いていない。お前が俺に惚れてるって、俺が言い当てただけだった」
そう言われればそんな気がするが、あの時はとにかく思考回路が正常に働いていなかった。
「てことで、ほら」
「はい?」
「今から受け付けるから。告白タイム?」
頭が真っ白になる。誰が誰に告白するというのか。
「ほら、さっさとしないと、ここで襲うぞ?」
ぼん! と音を立てんばかりに、和巴の頭が沸騰した。必死に考えないようにしていた昨日の出来事が、頭の中に蘇る。
「だっ、だだだだだだめーー!」
和巴の体に回された聡史の腕に背中を撫で上げられ、それが醸し出す痺れにも似た甘い感触に、全身の肌が粟立っている。
「だから、ほら。俺の事、好きだって言ってみな?」
「あ、あうあうあう」
必死に体を離そうと試みるが、聡史の腕はびくともしない。
「十秒以内に言わないと、襲うからな」
耳朶を甘噛みされ、さらには耳に息を吹きかけられ、和巴の体がびくりと震えた。
「十、九、八」
「ちょ、ちょっと待ってーっ」
聡史のカウントダウンが始まり、それをなんとか止めようと必死に叫ぶ和巴だが、聡史は頓着せずに、むしろ楽しくて仕方がないといった表情を浮かべている。
「三、二、一」
「わわわわ分かったわよっ、言えばいいんでしょうっ。さとちゃん、好きっ。これでいいっ?」
「なんか投げやりっつーか心がこもっていないなあ」
「無理っ。これ以上は絶対無理っ」
恥ずかしさのあまり滲んで来た涙を目尻に溜め、和巴はぶんぶんと頭を左右に振った。
「仕方がないから、今はそれで許してやるよ」
腕の力が緩んだ隙を逃さず、和巴はようやく聡史の腕から逃げ出す事に成功した。
「さとちゃん、ずるいっ。わたしにだけ言わせてーっ!」
ぽかぽかと聡史の肩を殴る拳を捉えられ、その整った顔で見つめられると、和巴はそれ以上の悪態をつけなくなってしまう。それを見越しての聡史の行動だと分かっているだけに、悔しくて不覚にも涙が零れ出そうになった。
「俺も」
「え?」
微かに耳に届いた声に、思わず聞き返す。
「俺も好きだっつってんの。これで満足か?」
聡史の声は掠れ気味で、僅かに目の下が赤くなっている。見慣れないそんな様子に和巴は耳まで真っ赤になり、こくこくと頷いた。
「てことで、さっさと帰るぞ」
机に置かれている和巴の鞄を掴むと、聡史はさっさと歩き出す。
「え。なんでそんなに急ぐの」
慌てて後を追う和巴は、振り向いた聡史の笑顔にうっかり見惚れてしまった。
「決まってんだろ。愛を確かめ合うんだよ」
それは、一瞬とはいえ聡史に見惚れた事を、激しく後悔するには十分なひと言だった。
「い、いーやーっ!」
「却下」
二人分の鞄の重さなどものともせずに、聡史は後退った和巴の腕を掴んで歩き始める。
そして後には、和巴の悲痛な叫びだけが残されたのだった。