chapter3/転生エルフ・秋年宵子(あきとしよいこ)の独白
現代の日本。わたしが前世の記憶を取り戻したのは、中学生になる直前のこと。それまでは普通の人間の子どもとして、生活していた。
両親が早くに離婚し、わたしは父と二人で暮らしていた。父が離婚の際、どうしてもわたしの養育権を譲らなかったらしい。父は優しい人だったので、わたしは父をひとりぼっちにしたくなくて、家を出る母についていかなかった。
わたしの名前は秋年 宵子。現在の家族構成は、母は離婚して家を出ていき、父一人、わたし、兄の三人暮らし。
今わたしは高校一年生。兄は同じ学校に通う。彼と「再会」したのは、三年前のことだ。
わたしたちは武蔵野市の駅から離れた住宅街に住んでいるのだが、吉祥寺駅近辺で父と買い物をし、食事をした後のことだった。
空気が乾燥していたからか、飲み物が欲しくなって、父はコーヒーを注文しにカフェの中に入って行った。その軒先はドリンクとア
イスクリームの販売コーナーになっていて、わたしも父の後をついて行こうと思ったところで、一匹の猫を見つけた。
どこかの飼い猫なのか、野良猫だったのか、当時のわたしにはわからなかったが、その太った猫をかまいたくなって、わたしは父から離れてしまった。
子どもは、犬や猫が好きなものだし、いまのわたしも動物は好きだ。猫も女子小学生には警戒心を見せず、わたしたちは束の間の触れ合いを楽しんでいた。
「宵子」
店の奥から父の声が聞こえた。手にはソフトクリームを持っている。わたしの視線が猫から反れた。そのとき、歩道に寝転がって子どもに腹を見せていた猫のしっぽが、通行人の男に踏まれた。
「ウウギャー!!!」
悲鳴を上げ、道路に飛び出した猫。そのまま道路を走り抜けていれば良かったのだが、まさにその刹那、一台のセダン車が車道を駆けた。
迫り来る車を見てしまった猫は、車線を横切る横断歩道の真ん中で立ちすくみ、金縛りに遭う。
信号は青信号。運転手にも落ち度は無かった。それだけに一瞬の出来事に運転手は猫の存在を知覚さえできなかった。
「だめ、ネコちゃん!」
わたしも、猫が車道へ飛び出したのと同時にその後を追っていた。
体が固まった猫を抱きあげ、運転手がはっと目を見開く。彼の心臓は縮み上がったことだろう。
急ブレーキを踏むも、その距離わずか1メートルに満たない。
スローモーションで、周囲の情景が流れる。
異変に気づき、アイスクリームを取り落とした父親が腰を曲げた。我が子を救わんと、駆け出そうとする。勘定を終えた、別の客が店から出て来た。大学生だろうが、右手を上げて、わたしを指差すのが精一杯だった。
キキキキキキキキーーー!!!!!
長いブレーキ音が、父の眼前を過ぎていく。
黒いセダン車は横断歩道を通り抜け、わたしのいた位置から一〇メートル先の地点で停止していた。
「あ、あわわわわ」
運転手が腰を抜かしたまま、車から降りて来た。定年を迎えた前後に見える初老の男だった。
やがて、往来に人が集まって来る。みな、同じく一点を注視していた。それは道路にぶちまけられた血の海ではなく、横たわる少女と猫の痛ましい姿でもなかった。
通行人の視線の先にあるもの。みな、ぽかんと口を開けて、ある上空の一点を見つめていた。
地上から五メートル。車道用信号機に「彼」は右腕一本でつかまっていた。左腕にはわたしを抱え、わたしは猫を抱いている。
愛娘が車にはねられる瞬間、父親は目をつぶった。
ドシン、という車の前部が爆ぜる音が彼の鼓膜に響いた。
「ひぃっぃぃ」
おそるおそる目を開けて見たのが、いまの光景だった。
「いまの見た?」
「え? ううん。どうなったの?」
通行人の声がする。
子どもが車道に飛び出した瞬間、手前の女子高生の携帯電話は、「彼」の視界の隅で、虚空に浮いていた。
スローモーションで展開する交通事故の再現映像の中、「彼」だけが他者とは異なる時間軸を移動していた。わたしとは反対側の歩道にいた「彼」は子どもを追って、ダッシュで駆け出した。反対車線を駆け抜け、セダン車との距離30センチの地点で、しゃがみこむわたしの背に覆いかぶさる。
脇から手を回され、児童の体が宙に浮く。両足で第一のジャンプ、高さではなく瞬発力を優先し、セダン車の前面グリルを飛び越えた。第二のジャンプで、彼の右足が車のボンネットに陥没を生じる。その蹴りは、車のエンジンをも破壊するほどのものだった。
常人からすれば驚異的と呼べるだろう跳躍力で、空めがけて飛び上がった二人の足の下をセダン車の天井が通過していく。
信号機のアームが近づく。わたしの体から右手をはなし、信号機を支える鉄柱をつかんだ。ふたたび二人の体に地球からの引力の支配が及ぶ。
ざわざわ。往来の人間たちが集まって来た。彼の跳躍を目撃した人間は数人いたようだが、それらの人々は、自分の目を疑って目尻をおさえたり、頭を振ってまばたきしたりしていた。
ぞろぞろと集まって来るのは、なにが起きたのかもわからない野次馬ばかり。
「なんだ、なんだ?」
「事故か?」
「え、どうしてあんな高いところに子どもが?」
口々に当然の疑問を口にする。
「宵子! 宵子!! 無事か!?」
父親がようやく目を開ける。我が子の姿を求めて、左右に首を振っている。
「誰か下に行ったほうがいいんじゃないか? 子どもをおろさないと」
「早くしろ!」
数人の野次馬がわたしたちの真下へやって来た。
(なるほど、この少女を助ける手伝いをしようとしているのだな)
「え?」
彼のつぶやきが聞こえた気がした。
「ど、どうするの?」
路上から呼びかける声がする。
「きみ、わたしたちが受け止めるから合図をしたら手を離すんだ!」
このときの彼は、「下々」の言葉をすべて理解することはできていなかったようである。
「子どもを受け止めるから! 大人にまかせろ!」
(とにかく、子どもをおろせと言っているようだ)
地上では、スーツを脱いでわたしを受け止めようとする男たちの円陣が組まれた。
(あの鉄の箱の背に降りればいいのだな)
彼は左手の力を抜いた。ゆらっと、落下する二人の体。まだ準備ができていなかったのか、悲鳴を上げる大人たち。
「きゃー!!」
思わず、わたしも悲鳴をあげる。
「おおっと!」
両足で着地したものの予想外に鉄板は柔く、少年少女の体重を受け止めて、ズムッっと天井がひしゃげた。窓ガラスに無数のひびが入り、車内が見えなくなるほど。
わたしの体をかばって着地した彼は姿勢をくずして、車体から転げ落ちた。ボンネットをつたって、アスファルトの地面に背中を打ちつけた。
「痛えぇ」
彼に守られてわたしはどこにも、打ち身など作っていなかった。
彼が立ち上がる。興味深そうに自動車を観察していた。
(これは牛車か馬車か? それにしては牛も馬もいない。自走する籠のようなものか、人足でも中に入っているのかと思えば、それも違うようだ。鉄の塊かと思えば、内部は空洞も多い。叩いてみた手ごたえからして無数の部品から組み立てられた機械であるようだ)
彼が車体から落ちるときに、一度体が離れたはずだが、いつのまにかわたしは彼の腕をしっかとつかんでいる。
「ふぇーん」
小刻みに震えて、か細い声で泣いているわたし。
(こんなものにぶつかられては、成人であれば当たり所によって死を免れることもあるだろうが、この小さな体ではひとたまりもないように思えた。とっさに助けに入ったことは間違いではなかっただろう)
彼はとっさに助けに入った自分の行動が適切であったかどうかを検証しているようだ。そのように興味深く自動車を観察していた。見たところ、車線はこの自動車と歩行者がそれぞれ進み道を分けているのだと理解する。
歩道にもどった彼にみんなの注目が集まるが、誰も言葉をかけない。声をかけられないと言った方が正解だっただろう。
「宵子!!」
父親が叫びながらわたしに駆け寄った。
「怪我はないか!? どこか痛くないか!?」
わたしはこくこくとうなづいている。懐には猫を抱えたまま、顔面は蒼白になっていた。
「はっっぁあ」
父親は声にならない嗚咽をもらした。そのまま力の入らない手で、ぽかぽかと子どもの体を叩き続けている。
父親は落ち着きをとりもどしきれてはいないが、やや冷静になってから彼の方に向き直った。
「%#(‘(’‘%){}|>¥>“☆ДИш……」
彼は首をかしげている。私も父も周囲のものこの奇妙な出で立ちの少年がどこか外国から来た人間で、日本語が完全にわからないのだと思っていた。
しかし、驚くなかれ。彼はこの時片言の日本語くらいは聞き取る語学力を有していたのであった。
それでも普通の日本人が英検4級程度の英語力でもネイティヴスピーカーの幼児の言葉ぐらいは聞き取れるというが、早口でまくしたてられると、なにを言っているのかさっぱりわからないのと同じように、状況は現在の彼のヒヤリング能力のキャパシティを超えていた。
五分経つころには、取り乱していたわたしの父もすっかり平静さを取り戻していた。それと同時に、感謝のまなざしでいたものが、だんだん不審げに変わっていくのがわかる。
このときの彼の格好は、「戦士ですがなにか?」というぐらいのものだったが、今では珍妙ないでたちでいたことが理解できる。
わたしの脳内に電流が走った。人間の神経伝達速度は秒速100メートル程度だという。しかし、雷に打たれたかのように脳細胞を同時進行で情報が駆け巡った。
私の脳内が塗り替えられていく。それはたとえるならばコンピューターのOSを新しいバージョンに書き換えるか如きものだった。このとき、私は不意に前世の記憶を取り戻していた。
今まで過ごしてきた人間としての時間。それと並行して前世で過ごした時間の記憶が、わたしの中に同時に存在している。
わたしの名前は秋年宵子。そして、クレプスキュールでもある。
彼は現代日本の言葉で言うところの勇者。森の人、幼いエルフだったわたしを、姉妹や友人たちを救ってくれた英雄。その名のとおり真名もスパーク・アルティミト。傭兵国家ケントゥリアの戦士。
彼と過ごした僅かな時間。前世のうちに再び会う事はなかったけれど、わたしは彼を神と崇めていた。
彼の中ではどれだけ時間が経ったのかしら。ほんの少し、大人びた面立ちで、背も伸びているだろうか。しかしその姿は甲冑もマントも、そして彼自身の表情もあの日と変わらぬものだった。
そうこうしているうちに、ほかの衆目とは異なる鋭い視線が彼に向けられているのに気付いた。
上から下まで紺色の制服を着た二人の男が、人の群れを縫って現れた。
「ちょっと話を聞かせてもらおうか」
スパーク・アルティミトは警察に補導された。
事故の現場検証をしている間、彼はパトカーに乗せられていた。セダン車の持ち主や通行人から巡査が目撃証言の聞き取りをしている。超人的な跳躍をしたこと、車を飛び越えボンネットを蹴りで破壊したことなどを証言する人たちがいたが、警察官はそれこそ信じられないように首をひねっている。
(なるほど。鉄の籠の中はこうなっているのか、意外と座り心地がいいぞ)
ケントゥリアの騎士は取り乱すということがない。
今では、わたしの兄である秋年 明ことスパーク・アルティミト。彼に命を救われたわたし、秋年 宵子十二才の脳裏に電撃が走った。
わたしの脳内が塗り替えられていく。それはたとえるならばコンピューターのOSを新しいバージョンには書き換えるか如きものだった。このとき、わたしは不意に前世の記憶を取り戻していた。
今まで過ごしてきた人間としての時間。それと並行して前世で過ごした時間の記憶が、わたしの中に同時に存在している。
『お父さん! あの人を追って! 絶対に我が家にお迎えするの!!』
スパークでは呼びづらいから「明」は秋年家の父がわたしの名に倣って漢字を当てた。ケントゥリアの少年騎士は、七歳になると親元を離れて他の子どもらと共同生活をしながら軍学を学んだ。
彼の初陣は他の者より早く十二歳となった。それまで実戦は訓練の一環として郷さとの民に害を加える猛獣の狩猟などを行うことがあったのみだった。
ある日、彼と二人の仲間は馬を駆り、いくつかの国の土地を横断しながら、書状を届ける任務についていた。
そこで遭遇した事件。
~緑深き妖精たちの国~エリスタリアの夏の国で、エルフの住まう森が蹂躙されていた。
「姉様!」
幼いエルフの少女だったクレプスキュールは羽交い締めにされたまま、姉が男たちの前で跪く様から目を背けることを許されず、首とあごに手をかけられ、その方向を直視させられた。目を閉じようとするも、姉の悲鳴に目を開かずにいられなかった。
父たちの不在を狙って略奪者たちは現れた。もともと温厚なエルフの長老たちでは訓練された人買いの隊商と、その雇われ兵たちに太刀打ちできなかった。
「爺様たちが……」
母たちが叫び声を上げ、我が子に手を伸ばそうとするが兵士たちの太い腕が彼女らを組み伏せる。
「傷つけるなよ、値が下がる」
エルフの細い腕を荒縄が縛り上げ、あまりの力に骨折させられる者までいた。捕われた少女の一人が、隙を突いて攻撃魔法の詠唱を行った。
「Kirisake en person som blir uren, blader av vinden」
男たちが手に握る、女性たちを縛る縄を風の刃が両断した。
その勢いは一人の兵士の顔まで切り裂いた。
「グがぁ!」
痛みに顔を押さえるが手の隙間から流血がしたたり。逆上した男は、詠唱を行った若いエルフに斬り掛かり、凶刃が勇気ある少女の背を襲った。
斬り伏せられたエルフにとどめを刺そうとする兵士に、家長の老エルフが短剣でサーベルを受け止めた。
若いエルフならば兵士とも渡り合えるが、老人の短剣では敵の攻撃を二振り受け止めるのが精一杯で、袈裟懸けの一閃は齢三〇〇年を超えたエルフの生涯を閉じるのに十分な致命傷となった。
髪を掴まれ引きずられた姉の悲鳴は消え、くもぐった苦しそうなうめき声に変わった。
「姉様から手を離せ!」
クレプスキュールには、姉が何をさせられているのかわからなかった。しかし、不浄な行為で、姉が誇りを奪われようとしていることだけは理解できた。
エルフは長命だが、クレプスキュールはこの世界に生を受けてまだ十一年しか経っていない。
ただ村を覆い尽くす悪意の奔流に呑まれ、涙を流すのみだった。
姉のノアは二〇年は生きているというが、人間で言えばいまがちょうど思春期のオトメである。人間に比べ、エルフは感情の起伏が乏しいと言われるが、この時期になるとエルフの男と恋をすることもある。
まだそういった相手に出会っていないノアは、こちらの世界の少女で言えば、中学生に上がり立てほどの性の知識しか持ち合わせていない。
学ぼうと思えば学べるものだろうが、牧歌的なエルフの両親はあえて自分たちから娘たちに教育をしていなかった。
ノアは口に押し込まれたものを吐き出そうとするが、力任せに頭を押さえつけられている。
(だれか、助けて!)
ノアは祈った。年長のエルフが祈りを捧げれば精霊が加護を授けてくれる。だが、いまのノアは口と声帯を封じられて、祈りの言葉を唱えることが叶わなかった。
(神さま、お願いです! 姉さまを助けてください!!)
(いやー!)
ノアは首を振り男の腰から顔をそむけようとする。時おり腕を振るっても、拘束は解けない。エルフの腕力は人間の少女と変わるものではなかった。
涙が滲む視界の中で、ノアは地に倒れた友人の姿を見た。仲間の中でもっとも勝ち気な少女だった。祖父が殺され、少女たちの中で唯一蛮族たちに反撃を試みた彼女は強靭に倒れるだけでなく、傷ついた身体にさらなる辱めを受けようとしていた。
「グウッ……」
肘で這うように、男たちから逃れようとするが亀の歩みほどにも前へ進むことができずにいる。
「(エレン!)」
瀕死のエルフを見下ろしていた男が、その身体に覆いかぶさろうとしている。
「やめろ! この……」
「エレン、ノア姉さま」
クレプスキュールは、二人の姿を見ていられなかった。だが、自分だけが現実逃避することを幼い心に潔しとせず、目を開いて今日ここで起こったことを直視しようとした。
「神さま、お助けください」
やさしいノア、ボーイッシュな容姿と性格のエレン。エレンは時おり、攻撃魔法を妹たちに見せてくれた。
「すごーい」
エレンが使えるのもまだ初歩的な、精霊の姿も見えない鎌鼬かまいたちほどの術だった。
彼女の攻撃魔法が練習でなく使われたのは、今日が初めてだった。
エレンは、村中のエルフ女子全員で攻撃魔法を習得しておくべきだったと悔いている。
(神さま、もしあなたが存在してわたしたちの暮らしを見守っているのなら、お願いします。エレンとノア、みんなをお助けください。願いが叶うなら、わたしは喜んでこの命を捧げます)
クレプスキュールは念じ、祈りを捧げつづけた。
その間にも男はスカートにつづいて、エレンのブラウスを破り、彼女の背中が肩甲骨の双丘まで露になった。柔らかな肌を、指先でつっと撫でる。
「ヒッ!」
エレンのうなじの毛が逆立つほどの悪寒が全身を走った。
(エレンが!)
友人が陵辱されようとする姿に、ノアの頭は怒りで真っ白になった。
「やだ、いやだ! 放せ! けだもの……」
哀願にむしろ、サディスティックな情動に駆られた男は、うつ伏せの彼女の身体を返して自分と向き合うよう仰向けにした。
前身を隠そうとしたエレンの顔を叩き、破れたブラウスの残り生地もすべて剥ぎ取られる。
「う、うああ」
もはやエレンの声も嗚咽に変わっていた。
その抜けるような白い肌の色からも知れるように、エルフたちは色素が薄い性質のようだ。
凛とした少年のような佇まいのエレンが、今ばかりは本来の少女に相応の鳴き声を上げている。
身体を隠そうとした両手首が、合流したもう一人の兵士によって握られ、ゆっくりと下ろされた。最初の男の視線が、エレンの胸に注がれた。その手が果実の成長を測るようにゆっくりと。
その様子を見せつけられたノアの目は、怒りでウサギの様に真っ赤に充血していく。武装した兵士への抵抗は大いなる勇気を要するものだが、もはや保身を考えるノアではなかった。
(たとえ殺されようが、一矢報いる!)
しかし、明確な言語で意思表明を行う精神状態ではなかった。その結果は……
「ぎゃああああ!!!」
ノアの頭を押さえつけていた男が、すさまじい悲鳴を上げた。
「は、はなせ!」
男は鮮血を迸らせながら、必死にノアを引きはがそうとした。
力任せにノアを突き飛ばした男は、そのまま地面をもんどりうって転げ回った。
「どうした、○○?」
エレンの身体を拘束していた兵士が仲間の異変に顔を上げる。
男の背中にぞっと戦慄が走った。
地に膝をつき、苦悶の仲間を見下ろすのは、顔の下半分を真っ赤な流血に染めた、さながら吸血鬼に変身したようなエルフの少女だった。
ノアは、ぶっと口に含んだ肉塊を地に吐き出した。
「うっぷっ」
自らが吐き出したものの形状に、エルフは吐き気を催した。
男が地を転げ、エルフはあまりのおぞましさに胃の内容物をすべてもどしていた。
「ちっ、バカどもが。商品に手を出すから……」
クレプスキュールを抱え上げていた力が緩み、彼女の足が地に着く。
「なんだ、なんだ」
村に散っていた賊の仲間たちが集まってきた。他の女性たちも縄につながれ、引っ張られてくる。
「商品を殺すことになるが」
男が装いの異なる一人の青年に伺いを立てる。
「あの二人は始末しなきゃ傭兵どもも収まらんだろう」
隊商の男は襲撃者たちの目付役でもある。こうして土地を移動しながら、「価値」のあるものを仕入れているのだ。
エルフが高値で売れるのは言うまでもない。彼女らを支配すれば精霊の加護を強要することもできる。その恩恵は計り知れない。人身売買とは比べ物にならない大きな商いではあるが、取引相手も限られる。意に沿わない形でエルフを手元に置けば、犯罪の事実を隠すことは難しいからだ。それ故に、商人もこの取引を持ちかけるのは王侯貴族やそれに準じる為政者ばかりになる、。
「惜しいがやむを得まい。一人は瀕死だし、もう一人も行路、傭兵どもが放っておくまい」
「エレン! ノア!!」
身内の少女たちの痛ましい姿を見せつけられて、エルフの婦人たちが騒ぎだし、一度はあきらめた抵抗を再開しだした。
「まずいな、見せしめに早く始末してしまえ」
傭兵たちが剣を抜き、先ほどまでエレンを辱めようとしていた男も、快楽をあきらめて、急ぎ立ち上がった。
「跳ねっ返りめ、見た目はおとなしそうにくせに……おい、$%^%%、大丈夫か」
同僚に声をかける。今後もうお楽しみを行うことは不可能そうだった。
「ぶ、ぶっ殺せ!」
(だいだい、女房や娼婦でもない女に対して迂闊なんだ)
同僚は、$%^%%がかつて同じように人間の女性に乱暴を働くのを手伝ったことはある。そのときは、女が今回のような反撃を試みないように自分がナイフを首元につきつけていた。
へたっているが、今後も半分傭兵、半分盗賊家業は$%^%%も続けるつもりだろう。だとすれば、同僚の仇も討ってやらねばなるまい。
(エルフめ、おとなしくしていれば命まではとらないものを)という思いもあった。
「プライドの高いエルフには、斬り殺されるのも売り飛ばされるのも同じことかもしれないがな」
ノアは自らの命運を悟ったように、無抵抗でたたずんでいた。くせのないロングヘアーが、顔についた血のりに張りついている。
「喉を裂くか、心臓を一突きか」
「苦しめて殺せ!」
$%^%%の呪詛のような言葉はこの際無視した。男もさきほどまでもう一方のエルフを愛でていた。彼にとって本来、彼女らは虐殺ではなく快楽の対象なのだ。
「うわー、姉さまー!」
エルフたちの中で唯一拘束を解かれていたクレプスキュールがエレンに向かって走り出した。
「だめ、クレプスキュール! こっちに来ないで!」
妹が巻き込まれるのを避けようと、ノアが再び声を発した。
クレプスキュールを静止しようとノアが手を上げる。
なおも彼女に駆け寄ろうとするクレプスキュール。男たちの凶刃が姉妹に迫ろうとしている。
男は結局、ノアの心臓を一突きにしようと、一度手を引いた。力をためて再び刃を突き出す。
その刃がノアに届くことはなかった。男の腹部、鳩尾に近いところから槍の穂先が顔をのぞかせていた。
「ゲブッ!」
何者かに刺されたことを悟った男は、仲間たちに助けを求める視線を送った。敵は自分の背後に隠れていて姿が見えない。男の身体が崩れ落ちてはじめて、仲間たちはそこに一人の少年が立っているのを認めることができた。
地に伏している$%^%%を除いて、次の兵士までの距離は十メートルもなかった。少年は軽装ながら具足と大きな羽織をまとっていた。騎士である。
「貴様、どこの……」
答えずに少年は駆け出した。その手には襲撃者の仲間を刺し通した槍が握られている。男の手にはロングソード。
最初の男を倒した際には近接での刺殺のために短く槍を持っていた。次の敵が、自身のロングソードの間合いまで少年剣闘士と近づこうとしていることは考えるまでもない。少年は握りを変えて、リーチ最大の間合いで、男の首へ槍を突き刺す。
さらに2ステップ前進し、身体は前へ、腕は後方に槍を引き抜く。これが十分な溜めとなって、三人目の兵士へすばやく槍が繰り出される。
少年の外見は年齢こそ相応しくないが、傭兵の類に見えた。どう見てもエルフの眷属とは異なる。
それゆえ、エルフの人質が効果あるかわからない。が、兵士の一人は試してみる価値はあるだろうと、手近にいたクレプスキュールの肩を掴んで引き寄せようとした。
「貴様、何者だ!? この子どもを……」
言い終わる前に、男の喉元を槍が刺し貫いた。
肩と首を掴まれ、宙に浮いたクレプスキュールの足が地に戻る。
クレプスキュールは、傭兵たちを斬り倒しながら自分に近づいてくる少年の姿を凝視していた。
三人の兵士を倒した少年は、手にしていた槍の握りを逆手にし、左手を前に右手を後ろへ、投擲の姿勢に入った。遠くへ石を投げるときには、大きく胸をのけぞらせるものだが、それほど距離は無い相手に、短く小さいフォームで振りかぶったのは、力よりも正確さを高める投げ方であるのだろうと幼いエルフにも想像できた。
バネに弾かれたように、ボウガンが矢を放つように、瞬間的に槍がクレプスキュールの頭の上を通過した。
よろめく男の身体に引かれ、クレプスキュールも後退する。宙に浮いていたクレプスキュールの足が地に着くと、背後で物音がした。振り返ると、彼女を拘束していた男が倒れ、槍が直立していた。
もはや言葉は不要と判断した男たちが、刀を抜いて少年に挑みかかる。
少年の動きの素早さに、クレプスキュールの目には相対的に男たちの動きがスローモーションの映像効果でも働いているかのように見えていた。
槍を失った少年は、足下にあった敵の槍を、サッカーボールを拾うように足の甲で宙に留めた。何も無い空間までをも手足のように自在にコントロールしている。
無重力状態にあった槍を掴み、左の敵の頬を斬りつけ、返す刃で右の敵の胸元を突く。刺された男が槍を掴むと、すぐに少年は手を離した。
スラッと、腰から自身の刀を抜いた。傭兵たちのロングソードに対して短めの刀、長大なサイズのナイフと言った方がわかりやすい形状だろうか。
傭兵のロングソードが少年の頭を狙うが、低い姿勢からねずみのように対手の懐に入ると、ヒラリと刃が軽やかに振られる。
ドンと無人の大地に重い刀身がめり込んだ。男の腹がざっくりと裂かれていた。少年は上半身を起こし、次の敵に対峙している。
「うぉぉぉ!」
威力はロングソードの方が上だが、至近距離ではナイフ、それも少年の肘から先の手の長さに相当するほどの刃渡りがあり、これが高速で振るわれるために、傭兵たちも思い切り刀を振りかぶることができずにいた。引け腰に短い転回で刃を振るっては、本来の武器の威力を引き出すことはできない。
これでは棒切れを握っているのと同じことで、スピードに乗ることの出来ないロングソードをその握り手の手首から少年は切り落とす。
手首の切断面をもう一方の手で覆い、地に膝をつき、男たちは天に向かって悲鳴を上げた。
手首を切断されては、戦闘はおろか生命も危うい。男たちは間合いを取ろうとするが、俊敏な少年の動きはそれを許さない。背を向けて走って逃げることは、もちろん自殺行為だ。
(なぜ、短い間合いでこうもスピードに乗った斬撃を繰り出すことができるのか!)
それがナイフの利点だが、混乱した男たちにはナイフの動きがより迫力に満ちたものに感じた。
少年のナイフが長尺であることから、その手元より刃の先端はよりスピードが増す。
本来、刀を扱う者は、スピードと威力は比例しないことを知っている。しかし、少年戦士の手にする剣は先端へ行くほど幅を増す。山刀のような形状は、草刈りに使われる刃のように手首の動きだけで振り子のように重心移動の勢いを得て攻撃力も増していくのだった。
ぶんぶんと振り回すように剣を操ることで、草木のように敵の手足をもぎ取っていく剣。腕自体は大振りしなくていいので、身体の重心を安定したまま、大剣のように空振りしてバランスを崩すようなこともない。
相手の動きをよく見て、身体を前後左右に動かすだけでなく、フットワークも軽やかだ。それだけでなく、地面すれすれに顔を下げる足腰のバネと背筋の力を発揮して、傭兵たちの刃をいとも簡単に避けていく。
刀を避けた後には、確実に敵を仕留める。
性懲りもなくエルフたちを人質に取ろうとする男には、その山刀を惜しげもなく投げつけ彼らを屠った。
(丸腰!)
さすがの彼も丸腰では兵士たちと互角に戦うことは無理だ。クレプスキュールは救い主の敗北を察して顔を覆いそうになった、のだが……