chapter8/GIRL IN RED
急転直下、トレーニングモードも無いままにクライマックスが訪れた。
「敵が入ってきたぞ」
もう屋内に侵入されたようだ。自分たちの眼前に敵が現れるのもすぐだろう。思わず廊下に飛び出して逃げ出したくなったが、屋敷の外は敵に囲まれていた。退路は無い。
(わたしは人生を楽しんだろうか。こうなるとわかっていればどのような日々を過ごせばよかったのだろう。やり残したことはたくさんある)
卯月楓は絶望の淵に立たされていた。
十五歳と六ヶ月。この世ならざる場所においても、誕生日にプレゼントされた腕時計は変わらず動きつづけている。それを頼もしく感じ、ここへ来てから、ずっとお守りだと思っていた。時間が異なるこの世界でも、元の世界の時刻を刻む時計をあえて調節せずにいた。
動悸は断続的にやってくる。外は弓矢の雨。この数日続いた超常現象の中でも、平静を装う胆力も身についたが、それにも限度がある。
(多分もう駄目だろう)
この状況からは助からないと思う。
それは周囲の人間の表情からわかる。年若い王女と近衛兵が顔を見合わせている。自分をこの世界へ召還したリリーナ姫は美しい少女だった。その手が震えている。薄いブロンドに透けるような肌。宝石のような瞳。楓自身は人間だが、そばに仕えるワイルドエルフ騎士団と比しても、清廉で神々しいオーラをまとっていた。その可憐な容貌もいまは凍りついている。
「落ち着け、落ち着け」
邪魔にならぬよう部屋の隅でうずくまっていたが、テーブルの前に立ちグラスを手に取った。ワインに口をつける。楓は未成年だったが、それを咎める者はここにはいない。喉元が熱く火照る。
「あなたたちの子供がどうして死んだのか」家族に遺言を届ける方法もない。
(こんな理不尽な運命があっていいものだろうか)
(神様、死ぬときはせめて苦しみませんように)
いまどきの若者にしては、信心深い方だと思う。
近衛兵が、「彼の君」に何事か物騒な言葉をかけている。
少女は目をつぶり意識を別のことに向けようとした。恐怖から目をそらそうとした。これはきっと空想世界の出来事だ。悪夢のような現実から逃避したい。
祖父母の墓を思い出した。自分もいつかそこに入るのかと思っていたが、それは叶わぬようだ。ただ魂だけは風に乗ってそこへ帰っていけるのかもしれない。
階下では戦闘が続く。階段では踊り場に 一人の敵が顔を出した。弓矢による攻撃に備えてすぐに頭を引っ込めた。
その予想通りに、近衛兵の一人は弓を弾いた。
一呼吸置いて敵がなだれ込んできた。
「楓どの、力はまだ目覚めぬのですか!?」
老騎士は、強い言葉で楓に迫る。肩をつかまれて、体を揺さぶられて思わずグラスを取り落とす。楓には首を横に振ることしかできない。
老騎士も答えはわかっていた。
結局自分は何の役に立たないままだった。それでも姫君の顔に失望の色は無い。
「まだ時間が足りない」
敵の襲撃が数日遅ければ、彼らが曰く、容易に敵を撃滅させる才能が自分にはあったらしい。
本来、こんなときのために呼ばれたのだったが、結局どんな力を持っていたのかさえわからないまま、運命は途切れるようだ。
楓の瞳に、ぶわっと涙があふれる。
「楓……」
リリーナ姫の手が頬に触れる。絹のハンカチが涙を拭う。
「うっ、申し訳ありません。何のお役にも立てなくて」
本来ならば、死地に招いたサモンマスターに恨み言の一つも言うべきところかもしれない。だがここ数日の間、ともに暮らして友好的な取り扱いを受けていたこともあって彼女らに対して否定的な感情も消えていた。
「わたしはまだあきらめてはいません」
さすがに王族ともあって、自分自身の運命を受け入れる覚悟を既に決めているようだ。そんな心持ちになどなれぬであろう楓のことを子どもをあやすように、無理に微笑もうとしている。
見れば見るほど美しい女性で、初対面の時から貴人であるにもかかわらずわたしに対して、大変な運命に巻き込んだことを謝罪するなど、年齢の近い女性同士のコミュニケーションを図っていた。
驚愕の異世界召喚ではあったが、穏やかな日々が過ぎていた。客人として丁重にもてなされた。それでも彼らの頼み事というものが、とても自分の手に負えるものではないと思っていた。
「救世主になんてなれません」
今もそうとしか、言葉にできなかった。
異世界で自分を出迎えたワイルドエルフ、そしてシーブル国の人間たちからなる騎士団も、次々と命を落としていった。
冬の都シャンドリンでこの世界の地を初めて踏んだ楓は、リリーナ姫が治める城塞都市シーブルへ帰還するのに伴い、その途上の領主邸宅に宿泊したのだった。
この屋敷の主と家族も隣の部屋で体を震わせている。彼らもまたシーブル国の領民・貴族として快く一行を迎えていた。
領主は臣下としてリリーナ姫にかしづき、婦人は異世界人たる楓に奇異なものを見るようなまなざしを向けていたが、その幼い子どもたちは好奇心を隠しもせずに、わたしのそばへ近づいてきたものだった。
貴族の屋敷だけあって大邸宅と言える広大な敷地だった。窓から外を見る。よく手入れのされた庭園を次から次へと敵の兵士が、屋敷に向かって走ってくる。
階段は数ヶ所ありそれぞれの場所で近衛兵士が防衛線を張っている。
突破されるのは時間の問題。
真紅の甲冑。格好こそは、楓も一端の女騎士のような出で立ちであった。味方の騎士は、日本人から見たトラディショナルな西洋甲冑のイメージ。敵方は無国籍風で、忍者風というか、浪人風というか、迷彩柄のマントをかぶって顔も隠した、特殊部隊のようでもあり暗殺者風でもある装束だった。
次々と倒されていく騎士たち。表を警備していたはずの者たちの姿が見えない。もう討ち取られてしまったのだろうか。見張りの一人が発した苦悶と悲鳴の入り混じった声。惨劇はそこから始まった。敵の矢は正確に騎士たちの体を捉えた。
ひるんだところへ一気に刺客たちが攻め込む。
「そうだ、あれは軍隊と言うより暗殺者たちの行動だ」
騎士たちのリーダーの一人がうめいた。都市から離れた郊外の邸宅ゆえに、周囲は森に囲まれ景観は素晴らしいのだが、木陰に隠れて敵が忍び寄るには絶好のロケーションでもあった。
(本当にわたしに、この人たちを守るような力があるのだろうか)
隣室の子どもたちのことを考えると、楓にも戦士としての自覚が芽生えつつあったと言えなくもない。
サーベルの柄に手をかける。
「東階段、抜かれました!」
老騎士が最期に残る数名の騎士を引き連れて走る。廊下に顔を出せば敵の姿が見える距離だ。
怒鳴り声が聞こえる。敵の声か味方かもわからない。
「キャー」
手薄になった室内に、子どもたちの叫び声が聞こえた。
わたしも無意識にサーベルを抜いた。隣室に続くドアを開ける。それと同時にガラス窓の砕ける音が響いた。
子どもたちは、窓の向こうから敵が室内を覗くのを見たのだった。ここは三階。どうやら敵は一度屋上に上がったらしく、次の瞬間特殊部隊よろしく、縄で吊り下げられた反動で屋内に飛び込んできた。その数五名。
「無礼者!」
気丈にも侯爵夫人が叫ぶ。
もはや、屋内にリリーナ姫を守る戦士はわたし一名のみ。片刃の白人を向け、敵を睨み付けてはみたものの、体は硬直していた。剣術の構えもここ数日に習ったのみだ。
まぶたが痙攣する。内心はパニックの真っ只中にあった。胸部が圧迫されるような息苦しさに吐き気をもよおした。
「カスフール侯、子どもたちを」
「姫!」
マネキンのような甲冑姿のわたしを押しのけて、リリーナが敵の眼前に飛び出した。
剣をかまえたものの、楓には目の前の光景を正視する勇気がない。
「姫、子どもたち‥……グッ!」
目をつむったままでも、カスフール公爵が敵刃に倒れたことを察することができた。
(このままではご家族と姫まで!)
「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」
楓は少しオタク知識のある女子高生でもあった。ライトノベル以外にも国内外の青春小説をたしなんでいる。『光の街があるなどということは嘘だ。 世界が一つのかがり火になるなどということはない。 すべての人が自分の火を持ってるだけ、 孤独な自分の篝火を持っているにすぎない』と言ったのは、「エデンの東」で知られるジョン・アーンスト・スタインベックだった。
なぜかそんなことを考えた。次の瞬間、わたしの心の奥底にも篝火が灯った。まとった真紅の鎧甲冑が、窓からの明かりを受けて、さらに色を濃くするように輝いた。
「うわぁぁぁあ!! 吹き飛んでしまえ!」
そう念じると、どこでからともなく熱風が吹き始めた。
「これは……熱い!」
「とうとう、目覚めたのね」
リリーナは察した。「その時」が来たことを。待ち望んでいた祝福の時が来た。
夫人とともにカスフール公爵を抱えるようにして、子どもたちとともに、楓の背後に回り込んだ。
最初は熱風だったものが渦巻き、敵の侵攻を阻む。
しかし臆してばかりいる暗殺者ではない。
暗殺者はこの熱風の壁を突き破らんと、さらに歩みを進める。しかしそれは誤りであった。気づいたときには、渦のただ中にあって先に行くことも後へ退くことも叶わぬ状況となっていた。
やがて熱風は熱だけでなく、最初は蜃気楼だったものがゆらゆらと視界を曲げて最後には目に見える炎を出現させた。
「ぎゃああああ」
それは残酷な拷問のようなものであった。百戦錬磨の暗殺者たちが今はオーブンで焼かれるように炎であぶられている。しかし苦痛は長く続かなかった。
炎の渦はやがて収束して輝きだけが増していく。光の球体に変化していく。そしてその球体も少しずつひと周りふた回りと小さくなり、やがって野球ボール大にまで縮小した。そして……
光の次に轟音。
前方に見える邸の建物が爆発に包まれた。
「なんだ、地震か!?」
各階で戦う騎士たち。敵味方の区別なくいきなりの衝撃に驚愕した。
かなりの数の敵が邸の屋上に取り付いていたらしい。屋根が崩れ落ちるとともに、バラバラと人の体が落下してくる。実に建物の半分が消失していた。このままでは、邸が倒壊するのも時間の問題だ。
楓の能力はどうやらパイロキネシスであったらしい。映画で言ったらスティーブン・キングの「炎の少女チャーリー」のような発火能力。しかも、その熱量は半端ない。
爆発の威力は主に前方に向かったようだが、四方八方にも損傷を与えていた。等しく同心円状に威力が拡散していれば、能力者当人の楓たちさえも死傷したかもしれない。
「で、出た! 炎!! ってうわっ」
不意に足元がぐらつく。建物が二つに折れるように、床も崩れていく。建物が重力に耐えられなくなったのだ。
振動で体が左右前後上下に振られる。巨大なエレベーターが降下するように、視界が下っていった。天井と壁が崩れて、空は雲の少ない陽気。この惨状に不釣り合いな天気だった。
「う、うわわわ」
崩壊するというより、ゆっくりとゆっくりとだが畳まれるように、建物が小さくなっていく。階下の人間たちも脱出するのに精一杯だった。この間、戦闘は中断した。
しかしこれで終わるはずもなく、建物の崩落が収まるまでに二分と掛からなかった。何人の味方が助かったのだろう。味方が姿を現すよりも早く、敵の生き残りが一度屋外に脱出してから再度侵入を試みた。
まさしく窮地は一時的に中断したに過ぎない。
床に膝をついていたが、楓も立ち上がる。 三階だった場所が一階と二階が潰れて、地面より少し高いだけの場所になっていた。
「楓、無事か?」
「姫さま」
全員の安否を確かめる暇もなく、瓦礫の隙間を切り開くように、分け入るように暗殺者たちが近づいてくるのが見える。
「け、剣は」
リリーナ姫が勇者への贈り物としてくれた宝剣、すぐそばに落ちていた。再び握り締め敵に刃を向ける。
「もう一度、炎よ……」
先ほどのような熱量は発生しなかった。
「炎よ……あれ?」
何度も試してみるが、使い捨てライターのように小さな炎が空中に現れてすぐに消えた。
さきほどの猛威を目撃していた者は、わたしと注意深く距離をとっていた。そもそも見ていない敵もいた。
楓を中心に広間は、がれきも少ない空間になっていた。屋敷の半分は原型を留め、半分が倒壊していた。
騎士団長が配下を引き連れて戻ってくる気配も無かった。
「一人、二人、三人、四人……うわっ、増えていく」
敵も完全には冷静さを取り戻してはいないようで、慎重に少女剣士との距離を詰めていく。
最初の一人が、十分に安全を確認したと判断して、剣を担いだ。駆け出して斬りつけるつもりだ。
「ヒッ!」
楓はうなじの毛が逆立つのを感じた。
木材のかけらが、ぱらぱらと落ちたが刺客は気にせずに前へ進む。
ぐらっと、柱が斜めに落下して来て、男を圧殺した。
再び天井が崩落した。その一番大きな梁とともに人影が降って来たのをわたしは見た。
目の前の光景が、スローモーションのように感じた。武装した男が、壁材の破片とともに舞い降りて来る。
「新手!?」
床に落下物がぶつかる音にかき消され、その挙動は静かに影絵のように埃にかぶさる。着地の瞬間に少し体を沈める姿勢になって、ゆっくりと投げていた腰と膝を伸ばす。身長は一七〇センチ前後か。
緑色の軍服に軽装の防具をまとった武人らしき男が、楓に背を向けて立っている。
(斬りかかるなら今か?)
剣の柄を握る手に力を込めた。だが、敵にしては楓に向かって背中を向けたままで振り向く様子もない。
年齢も若そうだ。その手が腰の刀に手をかける。
抜刀。その剣は両刃のサーベル。特徴的なのは随分と地肉の幅が広い剣であった。
楓に注がれていた暗殺者たちの視線が一斉に青年に向けられた。どうやら仲間ではないらしい。
ゆっくりと黒髪の剣士が剣を持ち上げる。剣の柄の先端である柄頭上に向けて、柄を握る拳は親指が地面を向いている。
楓の位置からは顔が見えないが、その佇まいから年齢はまだ少年と思われた。居並ぶ刺客と対峙し気負いは全くない。このような戦場に臆することのない胆力を備えているようだ。
しばしそのまま静止していた少年がサーベルの握りを返す。
それを合図にしたかのように、刺客たちが少年に襲いかかる。
地面に向いていた刃が弧を描くように上方から最初の一人を斬りつける。抜刀後の姿勢は、右足を大きく前に出し、深く膝を曲げたもの。日本の剣道の上段から打ち下ろしを、さらに低い位置まで姿勢を落としたもの。右手のみで握っていた柄は両手の掌で握り直されている。
敵は絶命していた。手練の敵であっても、少年の剣術の間合いを見誤ったらしい。
そこからはとどまること無く状況が進行した。二人目は、より力任せに至近距離からの袈裟懸けに斬り裂いた。
力強く素早い少年の挙動。三人目はそれを警戒し、ワンテンポ早い間合いで少年を襲うが、間合いが遠ければ刃先が届くのに時間もかかる。彼は易々と剣をかわし、その脇をすり抜けながら短い間合いで斬りつけた。即死ではないが、刺客は地に伏し七転八倒した。
四人目。右斜め上段から敵も袈裟懸けに斬りつけた。腰を落として、頭上にその剣の軌跡をやり過ごす。
大振りな攻撃は避けられてしまえば、防御はがら空きとなる。横薙ぎ一閃の斬撃に屠られた。
室内の敵を一掃すると、少年戦士は敵が侵入して来た壁の穴から外へ出て行く。三階だった空間はもはや地表と接していた。リリーナの背後、階段へ続く廊下は扉が塞がれて出入りできない。
去り行く背中が刹那とどまり、初めてその顔が楓の方を向いた。
「えっ!?」
衝撃が走る。
「嘘っ!」
それはよく見知った顔だった。
少年戦士は、右手の指を口に当てて、口笛を吹いた。まるで誰かに合図するかのように。
それに応えて、天井の隙間から人影が顔を出した。左手に長弓、それを振って返事をしているようだ。
自分や姫を守るための人員なのだと察した。
一瞬、彼と目が合ったように思えた。ただ彼は足を止めて言葉を発することもなく、屋外に飛び出して行った。
楓は慌ててその背中を追った。リリーナも続く。壁のところで天から声がかかる。
「それ以上進むな」
少年と同じく鎧をまとった兵士。年齢はかなり年上のようだ。
足手まといにならぬよう、恐る恐る外の様子を見る。
「明、どうしてここに?」
楓は少年戦士の素性を知っていた。いや何も知らなかったと言っていい。
目の前の少年は自分と同じ学校に通うクラスメイトだった。その彼が剣を振って次々と人を斬り倒しているのが信じられない。
屋外にはまだまだ敵が大勢いた。しかし少年戦士は、味方の兵士を引き連れていたようだった。敵も手練だったが、味方の戦力も強者ぞろいのようで、犠牲者を出すこともなく一人また一人と敵を倒していく。
戦い方も多彩で、ムチを振るい、敵を近づけることなく戦う者もいる。両手に短刀を携えて手数で対手を圧倒する者もいる。槍使い。長剣の騎士。
その中でも我がクラスメイトだけは別格のようだ。彼一人で敵を殲滅する勢いで薙ぎ倒していく。
「秋年明、あなた何者なの?」
自分より少し早い時期に、自分たちが元いた世界から消え去った少年。
「ここへ来て、そんなことができるようになったの?」
(いや、ちがう)
楓は思い出していた。彼が消失した時の怪事件の顛末を。
(あいつ、やっぱり最初から普通じゃなかったんだ……)
その動きは俊敏などというレベルではなかった。まるで彼の周囲だけ時が止まっているように、敵はなすすべもなく殺されていく。その手並みはひどく機械的で、ためらうことなく、また力むことなく、てきぱきと慣れた作業をこなすかのようだった。
剣術だけでなく、一人の敵を突き刺すとともに、同時に左手の指が別の敵の喉元に突き刺さり気道を握りつぶす。
その動きのコンビネーションは合理性を極めたようにも、逆に不規則なようにも思えた。しかし洗練された戦士の動きというのはそういうものであるのかもしれない。合理性を極めればその動きは規則性を持つ、同じレベルで戦い慣れた敵には、次の動きを読まれることにもなるのだろう。
それは目の錯覚かもしれない。あまりにも素早い動きであるため、相手の動きが止まっているように見えるのだろう。攻撃から次の攻撃に移る刹那だけ、明が通常の時間軸に戻ってくるかのようだった。
「あのときもそうだった。いえ、それ以上だわ」
楓はこの世界に来る前にも目撃した、秋年明に関する怪事件を思い出すのだった。
やがて半時も経たずに敵は一掃された。
「あらかた片付いたな」
伏兵がいないか注意深く監視する者たちを残し、明は楓たちのいる部屋へ戻ってきた。
ここで初めて楓と明は向き合った。
もう彼が自分のクラスメイトであることを楓は疑っていない。
「なんだ、エイプリルも来てしまったのか。この世界へ」
卯月楓。卯月とは暦の四月のこと。英語で言えばエイプリル。だからクラスメイトからはよく「エイプリル」というあだ名で呼ばれていた。
「その呼び名を知っているということ。もう人違いじゃないよね。明」
「ああ、そのとおり。明は明さ」
しかも同じクラスの中で、秋年明は楓の隣の席に座っていた。
「あなたが、どうしてここにいるの?」
それは、「どうしてこの世界にいるの」という意味と、「どうしてここに駆けつけることができたのか」と言うふたつの意味がある。
「うん。それはね、あ、そうだ。ちょっとごめん」
楓の背後の人物に明は視線を移した。
「リリーナ・フォーミュラ・エル・シーブル姫でございますね」
明は右膝を床につけ、貴人に恭しく頭を下げた。先程まで振っていた、血染めの剣は左手に持ち替えて剣先が背後を向くように地に伏せた。
「貴国よりの要請により姫殿下ご一行お守りするため参上しました。わたくしの名前は秋年明と申します」
「そうであったか。大義であった」
正真正銘の友軍と知って、リリーナ姫は心底から安心したようだ。
「楓、そなた、この騎士を見知っているのか」
「同じ学び舎で学ぶ友人でございます」
「なに? ということはこの者もそなたの世界から」
「……そのようですね」
「姫、ご無事ですかぁ」
暗殺者達と死闘を繰り広げていた騎士団が戻ってきた。意外と犠牲者が少なかったようで、リリーナ姫は目に涙を浮かべている。
庭に並べられる犠牲者たちの亡骸。ワイルドエルフとリリーナ姫直下の騎士三十人から成る混成旅団だった。そのうち七名が命を落とした。
楓に無茶な要求をしてきた人々だが、悪い人たちでは決してなかった。
リリーナ姫の隣に立ち、わたしも自然に涙を流していた。
殉職者たちは遺体が腐る前に、庭の花園の奥にある桜の木の下に埋葬された。
「この世界にも桜があったのね」
明は小刀を持ち出すと、彼らの髪の毛を切っていった。何も言わなくとも、それを包むための上等なハンカチーフが用意された。
それは遺族に届けるためのものだろうと、楓にも理解できた。明は黙々と作業続ける。丁寧に怠り無く、館の主に、老騎士たちに順番に渡していく。
それぞれの軍刀も形見の品として持ち帰る。死者たちは軍服の襟を正した姿で埋葬された。
「運べるのは、これだけでやっとでしょう」
明もシャベルを持とうとしたが、死者の仲間たちが是非にと引き取った。
「いずれ、遺族をお連れしてください。丁重にお迎え致します」
領主夫妻と子息たちもこのままここに留まるのは危険であろうと、一時的に一行と行動を共にすることになった。
最後に、楓の知らぬ言葉の詩を歌い、葬儀とした。
明も当たり前のように歌詩を口ずさんでいた。
「?」
一連の作業が終わる頃には、明は旅団の一員として認められていた。
喪の作業は、仲間の結束を固める。
楓でさえ、明のこととても頼もしく大人びて感じた。
(大人とはなんだろうか?)
人はいつから大人と呼ばれるのだろう? 楓の漠然としたイメージでは、年齢的に言うと高校を卒業した頃からか。現役高校生の自分自身は、まだまだ子どもの領域にいると考えていた。
『わたしたち、いつから大人と名乗っていいのかしら?』
クラスメイトたちと、おしゃべりの合間にそんなことを、問うてみたこともある。返ってきた答えは、
『そりゃあ、ねえ?』
『ねえ?』
友人たちはニヤニヤと笑いながらひじをつつく。
『?』
『○○を捨てたときじゃん?』
思わずコーラ吹いた。楓は顔真っ赤にした。友人たちと比べてもまだまだ子どもだったのだ。
それだけにこの数日の間、異世界を救う救世主だか傭兵だかのような扱いに大きな戸惑いを覚えていた。
(だけど、ただ年齢を数えただけでとても大人とは呼べないような大人も多い)
実際の子どもよりも子どもじみた大人も多く見てきた。
(大人が大人に見える瞬間、それはお葬式の時かしら)
人の死に際しての葬儀、その時に親戚のおじさん、おばさんたちが限られた時間で慌ただしくも、てきぱきとすべきことを滞りなく行うのを見て「まだまだ、自分は大人にはかなわないなあ」と思ったものだ。
だから楓は、目の前で葬儀に携わる明を尊敬のまなざしで見ていた。
「シーブル国に栄光あれ! 朋友ワイルドエルフに!!」
老騎士の叫びに周囲の若い騎士が応える。
「オウ!」
この世界の勝鬨なのだろうか。丁重に葬られた戦士者たち。
当然と言えば当然だが、敵の遺骸は無造作に並べられている。腐るに任せていないのは、何か襲撃者の黒幕、その手がかりが無いかこれから探るためである。また領主一家がこの地に戻ったときに、腐敗したままでは迷惑千万である。
「悲惨な死」
憎むべき敵ではあるが、むごたらしい死に方に見えた。戦争を知らない世代ならではの甘っちょろい感傷。
敵の遺骸の検分が終わる頃には、一行は出立の支度を整えることができた。
姫とはシャンドリンからずっと、馬車に乗っていた。
「竿を長くして、伏兵に気をつけて進め」
道が広ければ二列で進みたいところだが、田舎道はそうもいかない。騎馬の間隔を長く開けて、待ち伏せに備える。竿とは縦一列に隊列を組むことだ。
斥候は出さずに、最前列が視界から消えぬ位置を保った。
明は御車のすぐ前を進んだ。楓の位置からはずっと、彼の背中が見える。
「楓」
リリーナ姫が楓に話しかけた。
「はい」
「明どのを車内に呼びましょうか?」
「え?」
「積もる話もあるのでしょう」
リリーナ姫は学友と思わぬ再会をしたことを気遣っているのだ。
「あ、いえ、いいですよ 。この先時間はいくらでもあるでしょうし」
「そうですか」
リリーナ姫の柔らかな笑みをしばらくぶりに見る。
「楓、あなたは……」
「はい、」
「とても良いお友だちをお持ちですね」
「ええ、ま、はい」
気恥ずかしくもあったが、否定をするような場面でもないだろう。
「本当に、素敵な方ですね」
(うん?)
単純に褒めているのだと思うが、リリーナの声音に違和感を感じた。
「ご婦人方にも人気がおありなのでしょうね」
「いえいえ、決してそんなことは」
(おやおやー? 変な雲行きになってきたぞ)
「姫様、彼は姫様の思っているような人間ではありません」
リリーナの戸惑い。
「え? わたしが彼のことをどう思っているというのですか」
(うわっ、リリーナさま、顔が赤くなってますよ)
気づくと、明がすぐ窓の外に並んでいた。
「リリーナさま、確かに彼はめざましい活躍をしておりますが、どうも私の知る日頃の彼と雰囲気が異なるような気がします」
明がひょいっと首を伸ばして御車の車中に顔を入れてくる。
(サファリパークのキリンか、おまえは)
「こ、これ、明どの」
御車を引く馬の手綱を握る老騎士が明をたしなめる。
「リリーナ姫、本日中に五〇キロメートル移動します。日が落ちる前に行ける村に、今夜の宿の目当てをつけています。ゆとりを見ても二日かけずに城都へ帰着するつもりです」
まるで経験豊富な官吏のような口ぶりだった。
「よしなに」
度量衡も楓の世界の単位に認識できる。言葉が日本語として聞こえるわけではない。聞こえている音声はあくまで現地の言葉でそれを正しく理解できるということである。
それだけ伝えると、明はすぐにまた護衛の任に戻った。
領主の館を出発して一時間が立つ。太陽はまだ高い位置にあった。貴人を連れての旅であるならば、強行軍はできまい。
「さて、半日は馬上の人ですね」
のどかな田舎道が続く。馬車が通れる道、すなわち平地を選んで進んでいるそうだ。山中を進めば、もっと早く帰ることもできるのだが、森や林の中を進むのは危険だ。どこで敵に襲われるか分からない。
「時間もあることですし、いろいろ聞かせていただこうかしら」
「……何をですか?」
「あなたのご学友のことですよ?」
気になる男子の話をするとき、女の子は同じ顔をする。それは、現代社会の女子高生でも異世界の王族でも変わらないようだ。
「秋年明はわたしの一番親しい友人の兄なのです」
「そうですか。では古くからのお知り合いなのですね」
「それがそうでもなくて。友人とは幼馴染といえる間柄ですが、彼女に兄がいるということを知ったのは比較的近年のことなのです」
「明どのは、楓から見ても異邦人なのですね」
(ああ、そうだ……わたしが彼に対していた他の人には無い感覚、彼はいつだって得体の知れない人だった)
リリーナ姫の指摘は的確だった。
どこか他人と距離を置いているようなところもある明だったが、ここでは元いた世界よりも空気に馴染んでいる気がする。
日が暮れるより前に目的の街道にたどり着くことができた。
貴人のボディーガードは近衛の方が慣れている。リリーナ姫の宿を中心に死角の無いように四方の宿の部屋を借りた。そこへ明配下の武人たちが応援を兼ねて同宿する。
楓はリリーナと同じ部屋だ。明は姫の希望もあり、隣室に。
「ちょっとお手洗いに」
一度部屋を出た楓が戻ろうとすると、廊下を挟んだ向かいの部屋のドアが開いていて、明の姿が見えた。さきほどまで不審なものが屋内に無いか、騎士団が調べた。明たちはそばにいて、あまり口出しもしなかった。
「明」
ドアをノックする。窓の外を眺めていた彼は振り返らなかった。
「楓」
「何をしているの?」
「この窓からは西南の方角が見える。仲間の部屋はあそことあそこ」
対角線上の建物の窓からワイルドエルフの騎士が手を振っている。警戒は万全のようだ。
「こちらの戦力を思い知っているから、敵ももう仕掛けては来ないと思うけど」
気分はプロのボディーガードだ。映画俳優で言ったらケヴィン・コスナーのように落ち着き払っている。
この異境の地においては、顔見知りがいるということだけでもちょっとほっとした気持ちになれる。
「どうした? ぼーっとして。旅の疲れかな」
楓としたことが、明の顔を見つめたまま惚けてしまっていた。
「えっつ、あ、いや、なんっでもないよ? ってか、そうそう! ちょっとくたびれて窓の外を見てたの」
慌てて、何も無い空間を両手でかきむしった。
「椅子をどうぞ」
「ありがとう」
「……聞きたいことがあるんだよね?」
戦死者の埋葬と出発の支度を急ぐあまり、あえて中断していたが異世界生活の先輩である秋年明には問わねばならないことがあった。
「よく生きていたわね。この物騒な世界で」
しかし、先刻の大立ち回りを思いだせば、はたしてどちらがより物騒な存在かわからない。
「切った張ったなんて、ここでは日常茶飯事だよ」
こともなげに明は言う。
「いつの間に武術や、その剣術を習ったの? 学校では文科系の部活動をしてたよね」
「しばし平和な生活に慣れて体が少しなまっていたけれど、もともと剣も弓もおれにとっては古い友人のようなものでね。恐れるものではないんだ」
明はもともと武人なのだという。認めがたいが、そうでなければわたしは本日中に命を落としていたであろう。
「あなたには裏の顔があったのね」
「こっちが表さ。宵子たちと暮らすために、日本の価値観に合わせているうちに、いつか本当に日本人になった気がしていたのに、こんなことになってしまうなんてな。逃れられない宿命か。それでも友だちの窮地を救うことができた。これも運命かな」
「トモダチ」ぐっとくる言葉だ。
「楓もこっちの世界でよく落ち着いていられるな。肝が座っていて、大したもんだよ」
「昨夜、最初はいろいろね。でも、リリーナ姫が気さくな人だから」
「ここへ向かう前にシーブル国に入ったが、姫君はすごい人気だったよ」
「あなたは、もともと帰国子女だから、異国にきても馴染むのが早いのかしら」
「うん? それはまあね、いろいろおまえに話していないことがあるから。そろそろ話しておいた方がいいかな、と思っている」
「内緒の話? ドアを閉めようか」
女性と二人きりになる時、部屋のドアは開けておくのがマナーだ。
「開けておいてくれ。この宿を出るまでお前たちの部屋から目を離さないつもりだ」
警護のためにずっと自分たちの方を見ていてくれるとのことだった。
「いくら腕に自信があるからといって、よく落ち着いてられるわね。この非常事態に。ねえ、ここから元の世界に帰る方法を知らない? みんなわたしたちのこと救世主だなんだって言うけれど、とてもこの世界を救えるとは思えない」
「すぐには無理だ」
楓とは比べ物にならないくらいに、この世界で広い範囲を行動している明ならば、何らかの手がかりを持っていないかと思ったのだ。わずかな希望ではあったが。
「宵子も心配してるわよ。あなたがいなくなってからものすごく落ち込んでいたのだから」
妹の名前を聞いて、ようやく彼の顔も人並みの憂いを帯びた。
「なんとしても生きて帰らなくちゃな」
この旅団の中では、楓たち二人だけが共通の目的を持っているはずである。
「それまでどうするの? 彼らの言うとおりに戦士として働かなくちゃいけないのかしら。あなたはこちらへ来るときにもらった力を使いこなしているみたいだけど」
もとより武術鍛錬を行っていたという明が、多元世界の狭間を超えることでその能力が数段も高められたのだろう。
「楓、耳を貸せ」
何か考えでもあるのだろうか。明と一歩も離れぬ間合いに近づいて、右の耳にかかる髪を指でよけた。
明は内緒話をするように、唇を寄せる。かすかに吐息が耳にかかり、くすぐったいと思った。
「実はね、この世界に来るのは初めてじゃない。っていうか、おれはこの世界で生まれたんだ」
「マジ……ですか?」
さもありなん。
(ああ、なんとなくわかってきたような気もする。現地の人たちとすごく馴染んでたもんなぁ)
帰国子女どころか、遠い世界からの客人だったわけだ。
その時、背後で扉が開く音がした。
「楓、ずいぶん遅いですね……あっ!」
リリーナ姫は、目が点になっている。楓の頭には最初、疑問符が浮かび。はっと気づく。頬を寄せ合い、ささやき合うクラスメイト。あわてて、明を突き放す。
「うんにゃー!」
明は楓に押されて椅子から転げ落ちる。
「ご、ごめんなさい。お邪魔してしまって」
「いやいや、誤解ですから。こいつとはそんなんじゃないですから!」
慌てて扉を閉めようとするリリーナ。その手をつかむ。
敵襲も無く夜が明けた。
シーブル・シャンドリン連合に傭兵を加えた混成部隊一行は宿場街を後にした。交替で番をしていた騎士たちにはあくびをかみ殺している者も多い。
申し訳ないが、楓とリリーナはぐっすりと安眠した。
明は凛とした顔で、騎乗している。
出発前に何かの植物を採取していたので、何をしているのかと尋ねた。
「おはよう、明。何してるの?」
「楓、これ、なんだかわかる?」
丸みを帯びた形で葉の長さは短め。四方に広がった葉が茎ごと積まれている。一枚一枚では、カフェでのデザートによく添えられている。
「ヒント」と言いつつ、明が鼻先まで葉を近づけた。
「この匂い、ミントの葉かな? よくみつけたわね」
「雑草みたいなものだからね、どこにでもあるよ。これをね」
摘み取った葉を明は口の中に入れた。
「ペパーミントだったみたいだ」
「そのまま食べておいしいの?」
「食べるのではなく、噛むんだ。眠気覚ましになるよ」
出発してからは隊列の馬上の者たちに近づいて、それらの葉を配っていた。
「明どのは如才ないですね」
気がきいて手抜かりがないとか、愛想がいいという意味だ。
「そのようで。姫様もおひとついかがですか」
「あら、あなたももらっていたの。普段野生の植物を、そのまま食することが少ないから新鮮な体験ですね」
楓から明の顔が見える位置にもどってきた。ガムでも噛むように、口元を動かしながら手綱を握っている。
不意に姫が窓の外、明に向けて手を振った。明も何か用があるわけではないと知っているのか、少し近づいて二人に微笑みかけると、また少し離れていった。その際、リリーナと明が幾秒か見つめ合ったように思えた。
「本当に、彼とは何もなかったのですか?」
「明どの」から「彼」へ人称が変化している。
「またですか。昨晩のことなら、何でもないと言ったじゃないですか」
昨晩、 明と顔を近づけてひそひそと話し合っているところをリリーナに見られてしまった。
『ご、ごめんなさい。お邪魔してしまって』
『いやいや、誤解ですから。こいつとはそんなんじゃないですから!』
『よろしいのですよ。隠さなくても』
彼女の誤解を解くために、明との話は中断されてしまった。
その空気を今も引きずっている。
(考えてみると誤解をされたからといって、何か困るわけではないのよね。でも、姫様は彼に興味津々みたいだし、やっぱり気を使うわよね)
「姫こそ、明のことが気になるなら、喜んでお譲りしますよ。なんなら仲を取り持ちましょうか」
楓は逆襲に転じた。
「嫌ですわ、楓ったら」
嬌声こそ上げないが、楓との間に手で壁を作り、リリーナは恥ずかしそうにはにかむ。
(冗談で言ったのにな)
万が一本当にそんなことになってしまった時には気になることがあった。
(宵子が荒らぶるだろうなあ)
極度のブラコンである親友は、いつも楓が明に恋愛感情を抱くことを警戒していた。もとよりそんな気のない自分にとっては、ウザイことこの上なかった。
(血の雨が降るわね)
「それにしても、楓があれほどの殿方になびかないとは。元の世界には、よほど魅力的な男性が多いのですね」
(あれま、明のことを魅力的って言っちゃったよ、この人)
確かに明は、今は頼もしいことこの上ない男だ。
「あれほどと言ってもですね、最近になって知りました。あんな特技があることを」
『実はね、この世界に来るのは初めてじゃない。っていうか、明はこの世界で生まれたんだ』
昨晩の彼の告白。リリーナの誤解を解くために、話はとぎれてしまった。あとでちゃんと話の続きをしないと。
「本日中にシーブルポリスに到着しますわ」
リリーナ姫の居城がある、シーブル国のキャピタル城塞都市・シーブルポリス。
一行の帰還を待ちかねたように、衛士たちが街道のあちらこちらから合流する。
城門をくぐり市街に入ると、公女の姿を一目見ようと市民が繰り出す。彼らはみな、姫殿下の旅の目的を承知していた。
「姫様、さすが人望がありますね」
リリーナが窓の外に向かってエレガントに、しかし愛嬌のある笑顔で愛想を振りまいている。
「楓、あなたも、降りなさい。今日はわたしだけでなくあなたを歓迎しているのです」
市民も苦行の秘儀を行い、国と自分たちを苦難から救う英雄を連れ帰るに至ったと知っているのだ。熱狂の半分は召喚された戦士、卯月楓に向けられたものであった。
ふと、明の姿が視界に入った。先ほどまでは穏やかな顔していたが、今は真剣そのものの表情である。
御車を操る騎士や衛士たちに何か話しかけている。
「衛士長、わたしたちは無事に帰ったのです。ここまで来れば何もそう急がなくても良いのではないですか」
町に入って少しホッとしていた。しかしは車列はスピードを緩めることもなく、宮殿を目指した。
城内に入ってようやく御車を降りる。
「少し恐い顔していましたね、明」
姫の問いかけに顔も向けず、明は静かに応えた。
「わたしの国に諺があります。『家に帰るまでが遠足です』と」
(いいこと言おうとしてすべったな)
やはり、この男が歴戦の戦士とは信じられないのだが、それでも楓は少し安心したのだった。