chapter6/異界へ
卯月 楓はその日、高校に向かう道を歩いていたところ、異世界へ召喚された。
まったく前触れもなく自身?が気づく暇もないほどに瞬間的に次元転移が行われたようだ。
ある男の子のことを考えていて、注意力が不足していたのかもしれない。
(いえ、気づいていても同じことだったのかもしれない)
人は、運命を避けようとしてとった道で、 しばしば運命にであう。
『おい、あれフェンリルじゃないか?』
『あ、ほんとだ、珍しい』
『いや、おかしいでしょ? その会話!』
明が指差した先の吉祥寺の雑踏に悲鳴が響き渡る。わたし卯月楓と秋年明、宵子兄妹が登校中のことだった。周辺は阿鼻叫喚の地獄絵図となった。
体長3メートルはあろうかという見たことも無い獣が、獰猛なうなり声をあげて、人間たちを威嚇している。いや、それだけでなくその足下には生きているのか死んでいるのか複数の人間の身体が倒れていた。
「キャー!」
群衆が一斉に逃げ出し、人の波が宵子たち3人も駅と逆方向のアーケードへ押し流す。その中で、明だけは毅然としてその場に立ち続けている。
「明!」
宵子は彼だけを置いて逃げることをよしとせずに、楓と一緒に必死に道の端の電柱にしがみついている。
「フェンリルめ、混乱しているな」
だから、なんでさっきからよく見知ったもののような論評が出来るのだろう。相手は未確認生物UMAの類いだろうに。
「ええい、邪魔だ」
「うそ!」
明は楓の目の前で3メートルは超えるかという跳躍を見せ、群衆の頭の上を飛び越えていった。
彼が急いだのには理由があった。巨獣の眼前には逃げ後れた女性が、転倒した乳母車の中にいる我が子をかばって地面に這いつくばっているのだった。
野生の獣は、食用の狩り以外ではいたずらに弱者の生命を奪わないというが、明らかに自分が住まう世界と異なる環境に泡を食っているのだろう。そのような道理が通じる心理状況かわからない。
ペットの犬が見慣れぬものの匂いを嗅ぐように、フェンリルは親子の身体に鼻を寄せている。
「ヒッ、ヒィッィィ」
縮み上がる母。フェンリルが牙を見せる。
「フェンリル、まどわされるな! ここはおまえの狩り場ではない!!」
大きな着地音に、フェンリルの視線が逸れる。
「あそこから出て来たのか」
見れば、蜃気楼のような空気の揺らぎが立ち上っていた。
大方の群衆が逃げ去り、楓は恐ろしかったが宵子とともに明の様子を物陰から窺う。
「なにやってるの、明」
宵子は無言で見守っている。二人ともすごい度胸だ。
「怒りに我を忘れてる。鎮めなきゃ」
「フェンリル、森へお帰り。この先はおまえの世界じゃないんだ。さあ、いい子だから。
(あれ、なにかどこかで聴いたような台詞を明は獣に語りだしだぞ)
「あれ、心なしかフェンリルの目が優しくなったような」
明の動物を手なずける力に楓は驚嘆した。
「よーしよしよしよし」
頭を垂れてきた魔獣の頭と自分の胴体ほどもある首に手を回して、身体をさする。
「うーん、まるでムツ○ロウさんね」
このまま事態は収束に向かう道思いかけたその時、
「バカめ!」
人語を発したわけではないが、楓の耳にはフェンリルがそう叫んだような気がした。
太く巨大な爪が右フックとなって明の体を拭き飛ばす。彼の体は10メートルは浮遊し、スターバックスカフェのガラス窓を突き破って店の中に消えていった。
「あきら!!」
宵子が叫び、フェンリルが嘶く。彼女が飛び出して明の元ヘ向かおうとするのを楓が腕をつかんで力一杯に止めた。
「駄目だってば、行っちゃだめ。明の死を無駄にしないで!」
「勝手に殺すんじゃねー!」
ダダンダン、ダダンダン、楓の脳裏にターミネーターのBGMが流れる。
「てめー、フェンリル。いいパンチ持ってんじゃねーか」
割れたショーウインドウから明が出て来た。
「痛かったぞ、この野郎」
ペッ、と口の中を切ったのか血液の混じった唾を吐き捨てる。
明の全身から闘気がみなぎっているのは格闘術素人の楓でもわかった。
フェンリルが後ろ足でアスファルトを削る。ダッシュする準備をしているのか。位置関係は闘牛の様相を呈してきた。
ブモオモモモモモ! 空気が振るえ、二人(?)は激突する。体格差から言えば勝負にならないはずだが、明はフェンリルの首をがっちりと両腕で締め上げている。
フェンリルの突進力に勝る明の膂力。双方の力が拮抗していた。いや、少しずつ明が押し返している。
「うおおおおお! 自分の世界へ帰れ、フェンリルゥゥゥ」
ラグビーのスクラムを組んで敵チームを押しのけるように、フェンリルの身体が後ずさっていく。
「よし! もう少し」
フェンリルの身体が半分ほど、空間のゆがみの中へ押し戻されたとき、誤算が生じた。
「よしここで大外刈り!」
明はフェンリルの巨体を柔道の投げ技で元来た空間の歪みの中に投げ飛ばそうとした。が、その瞬間、時空のひずみが自身の身体も既に呑み込もうとする位置に来ていたことを見誤った。
「うわー!」
今度こそ、宵子は楓の手を振り切って、通りへと飛び出した。彼女ももはや止めず、彼女に続く。そこには魔獣もクラスメイトの姿も既に無かった。
「き、消えた?」
驚天動地の出来事。神隠しを目撃した。
「ち、ちょっと、二人、じゃない、明とあの怪獣はどこへ行ったの」
答えなど誰も知りようはずが無い。宵子は放心したようにその場に座りこんだ。
やがて散り散りに逃げ去っていた町の人たちがもどってきた。事情を知らない警察官も何事が起きたのかと捜査を開始した。
一番目立つところにいたものだから、宵子たち二人は真っ先に声をかけられた。楓が見たままのことを話し、宵子は横でうなずいている。
警察官は首を傾げるばかりで、半信半疑で聞いている。居合わせた市民が同様の証言をしていなければ、彼女たち二人だけの目撃談では到底信じては貰えなかっただろう。
意外なことに、放心状態だった宵子はしばらくすると普段の冷静さを取り戻したことだ。もっと半狂乱になるかと思ったのに。
「捜索願とかなくてよかったの?」
楓は宵子に尋ねた。
「どこを捜せば、警察に捜せると思う」
楓は首を横に振った。その落ち着き方が不気味なくらいだった。
やがて秋年家のマンションにもどり、彼女しばらく考え事をしていたがやがて楓に言った。
「あなたは学校に行きなさい。先生にはわたしがしばらく休むと伝えて」
「だいじょうぶなの、一緒にいるわよ」
「考え事をしたい。ねえ、あなたはさっき見たことを信じられる?」
「この目で見たものは信じるわ」
そう言ったものの、正直自信がない。時間の経過とともに、自分の記憶さえも信用できなくなるのではないか。そんな不安を起こさせるような不可思議な出来事だ。
「わたしが、彼がどこに行ったか心当たりがあると言ったら信じる?」
「え? それってどういうこと」
彼女の目は真剣だった。
「わたしも少し時間が必要なの、心配しないで。冷静にこれからすべきことを考えるから、あなたは学校へ行ってちょうだい。いかに、あなたにもわかるようにうまく話せるよう頭を整理しておくわ。学校が終わったらまたここへ寄ってちょうだい」
宵子は何か知っているようだった。その言葉を親友として信じないわけにはいかない。楓はとりあえず学校へ向かうことにした。
学校へ向かっても、もう午前の授業は全て終わってしまった。