chapter5.1/エルフ嫁語り番外編
「わたしの頭の中には、あなたと添い遂げた記憶、すぐに離別した2つの記憶がある」
秋年宵子がクレプスキュールの生まれ変わりであることを明は疑っていない。
「というわけで、この世界でも夫婦として暮らしましょう」
そうは言っても宵子は12歳。向こうの世界で出会ったクレプスキュールと同じ年齢だったが、社会的に12歳の意味がこちらの世界では異なるようだ。
「そりゃ無理だろう。よく知らないが、この国では法律で定められた結婚年齢があるんだろ? それに秋年氏はおまえをあんなに大事にしているじゃないか、いきなり現れたどこの馬の骨ともわからないおれがおまえと結婚するなんて言ったら、父君は気絶するか、俺を追い出すかのどちらかだろう」
「うう〜。じゃあ、とりあえず表向きは兄妹でもいい。でも二人だけのときは……」
宵子=クレプスキュールに異なる人生を送った記憶があることも気がかりだったが、明はこの時点では元の世界に帰ることを考えていた。明はあくまでクレプスキュールの夫なのだ。宵子はこのまま、この地で結婚生活を継続することを考えているようだが。このことが後にトラブルともなる。
高校に上がる頃までには日本語も完全に習得し、普通の高校生として日本の社会に溶け込むことができるようになっていた。それに伴い、最初はまるで変わり者を見るような目で見ていた周囲の人間たちも、明のことを色眼鏡では見なくなっていた。
最初にこの世界の女性を意識したのは、宵子の親友の卯月楓だった。彼女を通して明は、だんだんとこの国での普通の若者の人間関係に溶け込むようになっていった。宵子は、なるべく明を孤立させていたいようだった。
スポーツが万能なことだけでも、球技大会や運動部の競技会の助っ人に引っ張りだこで、人目を引くことが多くなった。
そうしていると、明のことが好きだと言ってくれる女子も度々現れるようになった。
もちろん宵子はおかんむりだ。
「もう隠しておけない。夫婦としてカミングダウトしましょう」
「いやいや、待て待て」
「なんでよ! 前世の妻として権利があります。明にはわたし意外の女性との交際禁止を言い渡します」
「前世の婚約は現世では無効だと思うぞ」
「そんな、ひどいよ……」
あっ、泣かせてしまった。宵子の顔が崩れて、それを見られたくないのかうつむいてしまった。真珠のような涙が頬をこぼれて落ちていく。ちょっとかわいそうな気になった。
「ごめんごめん、泣かないでくれ、どっちにしてもおれはお前のことを……」
「スキあり!」
顔を近づけたところへ、宵子の唇が明のそれに触れようと迫ってくる。
「おっとと」
顔を背けたら二枚の花びらを合わせた感触が首筋に触れる。
「なんでよけるのよ!」
「よけるさ」
「こうしてやるー!」
ムチューッ。
彼女はキスマークをつけようと、明の首筋を強く吸う。
「おいい、学校へ行けなくなるよ」
「みんなにキスマークを見つかればいいんだ! 最近は楓にまで色目を使って!」
(はあぁ?)
「彼女とはなんでもない。なんでもないって」
「楓以外の女の子ともわたしの見ていない時にこっそり会ってるでしょ!?」
「……そんな、ことはないよ?」
「いま、一瞬間が空いた。絶対、嘘ついてる! 妹のあたしを差し置いて、他の女にうつつを抜かしやがってー」
まるでだだっ子だ。ぽかぽかと両腕を振り回して明を殴ってくる。すかさず自分のベルトを抜いて宵子の細い両肩と両腕をくるむ様に結紮術によって一瞬にして縛り上げる。ケントゥリア式の暴徒制圧術の中でもわりと高度な技だ。相手を傷つけずに行動の自由を奪うということが武術の中で最も上級の技なのである。急所を突いて相手を倒す技の方が初心者には習得も楽だ。
「落ち着け、ふつう、そこで妹は差し置くだろ」
「兄さんは、明はあたしだけを見てればいいの!」
初対面の頃からブラコンの気味はあったが、最近とみにヤンデレ化が進んでいるようだ。
「おまえ、学校でもてるじゃないか。彼氏を見つけろよ」
ぶわっ、と宵子のまぶたから涙があふれた。
「あたしが、他の男に寝取られてもいいっての!?」
「やらしい言い方すんなよ」
彼女は文才があるので、変に大人びた言葉を使うことがある。
「パパと約束したでしょ、あたしの伴侶になって一生守るって。誓いを守りなさいよ」
「一生とも伴侶とも言ってないぞ」
明の口まで自分の唇が届かないのが口惜しいのか、明の鎖骨を口にくわえた。
「くすぐったい」
ガジガジガジと、明の骨をかじっている。
「あたしの夫になれ、明!」
「だが断る!」
「なんでよ? 小説家になろうの読者はみんな妹萌えばかりなのに。なんで明はあたしに萌えないのよー」
すごいメタ発言が飛び出した。
「その理屈はおかしい」
「おかしくなんかない! 明はこのお話の主人公なんだから妹萌えであるべきなの!」
「なにその、アニメの放送が終了したら原作も終了みたいな理屈!?」
トゥルッルルル。電話が鳴った。携帯電話でなくファクシミリ一体型のこの電話番号を知っている人間は限られている。
「出た方が良さそうだな」
「チッ」舌打ちして、宵子は電話の方を見た。
「電話に出るからこれはずしてよ」
「ああ」
(リリース)
彼女の身体を緊縛していたベルトを外す。
「よっ、と」
自由になった手を明の胸元について、彼女は起き上がろうとした。その手が胸元からずれて明の首に回された。
「むぐっ」
油断大敵。まんまと唇を奪われた。
明「むぉい、ふぁゆあく、でゅんわにでれ(おい、はやくでんわにでろ)」
宵子「んー!」
なるべくその時間が長く続くよう、宵子は明の首にかけた手に力をこめる。
なんだか不憫な気もして、明は宵子のするがままにしていた。けっしてタブーや罪悪感を感じているわけでもないし。
むしろ自分を好いてくれるその感触は心地よく癒しを感じるほどだ。
だが、明は彼女の気持ちを受け入れるわけにいかない。宵子は宵子、クレプスキュールの生れ変りとは言え、二人は異なる人格を持つ別人と考えている。
人の良い義父の許で、血がつながっていなくとも一年も過ぎた頃には明は彼女を自分の妹として認識していた。
彼女を愛しているが、それは家族愛だ。
きゅぽん。宵子の頭を両手で掴んで、唇を引き離した。
「にまー」
彼女が笑った。今日は彼女に一本取られた。
機嫌が直ったのか、小さくメロディを喉で鳴らしながら今度こそ、電話をとりに向かった。
心なしか足取りも軽い。かわいいお尻がスキップに合わせて揺れる。
少し親父くさい目線に、明はなっているかもしれない。
彼女はコードレス電話を手にとる。
「はい、秋年です……どうも」
ファックス機能付きのこの番号にかけてくるなかに個人はいない。だれがかけてきたか、可能性はあらかじめ限定できる。
「ええ、どうも。前回の印税は入金を確認しました。領収書はいらないですよね……えーと、入金の確認じゃない。では、なんでしょうか」
やはり出版社のA社のようだ。宵子の書いた小説を販売してくれている会社だ。
宵子は少女小説家としても、ちょっとした有名人なのである。個人情報が知れると、静かな生活ができなくなるので、プロフィールは簡潔に高校生とだけ、小説賞の授賞式にも出席せず、写真も公開はしていない。
秋年宵子が小説家・宵闇心音と知っているのは、出版社の担当編集者、編集長と明だけ。
彼女の書くものは、中高生を主な読者と想定したファンタジー小説で、いわゆる「ライトノベル」と呼ばれる分野の作品だ。
電話で話す声は大人びている。話しながらも、スラリとしたシルエットを惜しげもなく明に見せつけている。
彼女はいま一人のアーティストと呼ぼうか、クリエイターとして企業の担当者と意思疎通をしている。彼女が一人の大人として、社会とつながる部分だ。まるで企業のオフィスレディーのように立ち、ビジネスの電話を受けるその様は凛としてカッコいいものだった。なかなか堂々としたものだと感心する。
明にとって自慢の妹だ。ただし、明を性的な目で見ないでくれれば。
ところで今日はなんの話をしているのだろう。彼女の作品は先日、完結作を発売し次回作の予定は入れていない。
「新作? 先日お伝えした通り、家事と学業のために執筆をしばらくお休みしようと思っています」
彼女は新妻のように明の世話を焼いてくれている。小説も最近に出版したものを最終巻とするようにA社へ伝えその後、なにかを書いている様子はない。
「構想もしてませんし、とりあえず大学に入学してからゆっくり……待てない? でも今のシリーズではもう書くべきことはすべて書き終えたとお伝えしましたよね」
彼女の人気作はちょうど区切りのいいところで最終巻を迎えた。折しもアニメーション番組原作としてのテレビ放送も決まったところだ。
「テレビ放映が始まるからって……それはこちらの関知することでないし、承諾はしましたけど、こちらから頼んだことではないですよ」
最終巻刊行後にテレビ放送というのは、企画がまとまるのが少し遅れたためで、ずいぶん前から話があった。ライトノベルのアニメ化には二つの目的があるらしい。一つはDVDなどの映像商品の収益。もう一つは原作の販売促進になること。
「ええ?」
少し苛立った声で、いくつか言葉を交わした後、宵子は電話を切った。
「どうしたんだ」
妹はテーブル上のノートPCを開いた。webブラウザを立ち上げる。
「おや?」
宵闇心音の新作情報があった。
「発売日未定だけど続きを書いていたのか」
「書いてないよ。わたしに無断で新作の発売を決めたんだって」
なんとも大胆な営業戦略である。
「おいおい、そりゃまずいんじゃないの」
彼女の作品は出版社の株価に影響を与えるくらい売れている。だからシリーズを引き延ばしたいのもわからないではないが。
検索すると読者ですら完結したと思っている人間が多かったので、まさかの続巻刊行は、いろいろなブログでニュースとして取り上げられている。
タイピングする宵子の指が止まった。
「どうしよう……」
彼女はベストセラー作家になっていた。そろそろこの作品を終わりにした方がいいと助言したのは明だった。宵子も素直に従った。
この作品を続けていると、そろそろ面倒なことになると彼女もわかっていた。
この作品が明をモデルに描いていることに気づく人間が出てくる。
宵子の肩が震える。泣いているのか。
「どうした?」
「どうしても『ケントゥリア!』の続きを書いてくれないと困るって」
「勝手に発売を決められても、こっちの知ったことじゃないだろ」
「もう発売の告知をしたものを中止したら不祥事になるって。編集の●○さん、わたしを説得できなかったらクビになるって、電話の向こうで泣いてた……」
「あの人か……作品を終わらせることに同意してくれてたが、上を説得できなかったのか」
企業のなかで往々にしてそういうことが起きることは想像できる。
「なにかお話してよ、兄さん」
宵子が立ち上がって明の胸に飛び込んでくる。
ムニュっと、やわらかいオノマトペが原稿用紙に響く。明の胸板にはりつくようにふたつのマシュマロがその形を変幻自在に変えていく。
「宵子」
「不安なんだよ、兄貴。わたし、どうしたらいいの?」
そう言われては、ちょっと突き放しづらい。
明は気づかなかった。顔を伏せた宵子がぺろっと舌を出していたことを。
明も彼女の背中に手を回す。彼女の猛アタックには正直、気の迷いを起こすことが時折無いではないが、男女の関係になってしまったら、いつか関係が終わるときが来るかもしれない。
強いていうならば、気を持たせてしまうのが怖かった。
兄と妹の絆は永遠だ。恋人や夫婦は終わってしまえば、離ればなれにならなくてはならない。
だからギリギリのところで、明は宵子とは男女の一線を越えないようにしている。
明は時計を見た。
ちょうど今夜から、時間ももうすぐ、彼女の作品を原作としたアニメーション番組の放送が始まる。