chapter5/スパーク・アルティミト
「わたし、クレプスキュールです。わかりますか」
明を迎えに来た宵子は言った。
「え?」
明は絶句した。瞳の色はこの国の人間に多い黒みがかった茶色。髪の毛の色も違うが、エルフの中では珍しい切りそろえたショートカットは似ている。
「確かに似ているけど、耳がとがってないね」
彼女の言葉が真実だと信じるに足る理由がもう一つある。昨日来、多くの世界の住人に出会ったが、俺と同じ言葉を話す人間は彼女一人だけだった。
「この世界に生まれ変わり十二年が経ちました」
今、この会話もこの世ならざる言葉でかわされている。
「前世と同じように、一緒に暮らしましょう」
「前世? 一日も一緒にいなかったはずだが」
クレプスキュールとは、一日だけの夫婦だった」
「え?」
宵子の顔に戸惑いの色が浮かぶ。彼女との結婚の祝宴を挙げたその日に、明は地球に呼び寄せられた。彼女とは仮初めの夫婦なのだ。
あの日、エルフの村の危難を救った日に居合わせた面々を証人に、すぐに式を挙げた。明は甲冑のまま、クレプスキュールはエルフ伝統の花嫁衣装に身を包んでいて、子どもっぽいエルフだと思っていたが、その瞬間だけはとても可憐に見えた。
地球の結婚式のような荘厳な花嫁衣装ではなかったが、すべて手編みの衣装に、色とりどりの花を飾った髪留めは鮮やかだった。その装いが風に吹かれる。
「なんだ、嵐か?」
ぽっかりと宙に空いた穴。時空のひずみは局地的な嵐のように村を包んだ。ただし、つむじ風に体を巻き上げられたのは、明一人のみ。
「なっ? これは、いったい」
嵐は花嫁の元から花婿を奪い去った。
「神様! 神様!!」
クレプスキュールの悲鳴が虚空に響いた。
夏の都アルシェロン、エルフの村のめでたい日に、ぽっかりと空いた時空の穴。その中を 明の身体は螺旋を描きながら落下していく。その先がどこへつながっているのか。
落下速度は加速していく。
「このままでは!」
鎧の上にはクルスベルグ~鍛冶屋たちの鍛冶屋たちによる鍛冶屋たちのための国~の住人であるドワーフたちの鍛冶職人たちの手による頑丈一点張りの陣羽織を羽織っていた。これもまた法術を施した魔布。たなびく生地が形を変えて、肩から鳥の翼のようにはためく。
最初に「光りあれ」と神は言った。
そこは光の明滅が激しい昼の谷間だった。
「『光あれ』ってレベルじゃねーぞ」
もとより昼間のようで、陽の光は夏の都の大地と変わらぬ光量が注がれているが、部分的な光の投射が見慣れぬものであった。
明は石岩山の谷間にいるのかと思ったが、よくみれば路の両脇を囲むのは人口の建築物の壁であるようだった。
これほど隙間無く背の高い家屋を並べる習慣は、彼の国にない。
石畳は隙間無く、凹凸や段差の少ない手のこんだ物だった。
「石だけでなく、ところどころ柔い。土が見えないな」
吸い込まれるように時空のひずみに飲み込まれたが、落ちるように次元を移動して吐き出されたときは水平の力が加わった。落下していたつもりが、いつの間にか水平移動していたようだ。平衡感覚が狂いそうになり、ぐるぐると前転しながら、気づけば時空の歪みが消えかかっていた。
明の背後に人だかり。みな珍しそうにひずみの奥を覗いている。
わずかな時間でひずみは縮小し、やがて空気のゆらめきとなって見えなくなってしまった。
「人族の国のようだな」
みな、顔を見合わせて首を傾げている。
数歩歩くごとに、やけに柱が多い。通りの頭上をワイヤーが縦横無尽に這う。商家が多く、ひっきりなしに住居から人が出入りしている。
ある程度の文化を持つ集落であることは一見してわかる。
「交易都市であるのかな」
明の住む世界で有名な商業都市と言えば、ラ・ムール~太陽神を信仰する猫人達の国~だ。まだ実際に訪れたことはない。
やがて衆目の関心は時空の歪みから、明の方へ移った。行き交う男女が、じろじろと彼の方を見ている。
「無礼な奴らめ。話かけるでもなく、にやにやと気色の悪い連中め」
彼らは遠巻きに明を見ながら、仲間同士でなにやらひそひそ話をしている。
「ヤダー、コスプレジャナーイ」
「ナニ、アノコ。ヨロイナンカキテ」
彼らがそろって同じ姿勢で明に向かう。腰をやや落とし、右腕を突き出す。彼らは明でなく、一様に手にした機械のようなものを見つめていた。
「む?」
なにか戦士の直感が明に警告を発していた。
ピローン♪
機械音がするや、明は地面を転がって男の間合いから逃れた。
「明を狙っている?」
弓や小刀には見えないが、その機械が明を標的にしているのは間違いない。
時折、環衆のクスクスと忍び笑う声も聞こえる。
ピャラーン♪
さらに背後から電子音。後方へ宙返りしつつ、射線から飛びのいた。
「おおー」
なにやら、称賛するらしき声も聞こえて拍手が起きた。
「ヨーツーベー……」
なおも食い下がるように明に機械を向ける男の掌中から、それを奪い取った。
「いいけげんにしろっつーの」
握ってみると力を入れれば真っ二つに壊れてしまいそうな、華奢な道具だった。使い道がわからない。と、そのとき。
いまであれば着信メロディなどに驚いたりはしないのだが、不意に流れる音楽に驚いて明は携帯電話を取り落してしまった。
ガシャン。カラカラ。
二つ折りタイプの赤い携帯電話は力なく路上を滑った。電池カバーがはずれて、バッテリーもあらぬ方向へ転がった。
なんとも間抜けな姿だ。どうやら危険なものでもないらしい。
「……」
「……」
周囲の嘲笑も止んだ。
「ナニスンダテメー」
明に携帯電話を壊された男が胸倉をつかもうとして、手が泳いだ。上半身甲冑に包まれているためにシャツの襟をつかむようにいかない。少し迷って、羽織の端を握った。
戦闘能力の低い町人だと一目でわかったので、殴り倒すのは少しの間保留した。
それより周囲の風景に明は関心を奪われた。男が顔を近づけて、「ガン」をつけてきたので、手首を軽くひねると男は地面に膝をついた。
「うまそうな匂いがするな」
明の嗅覚はそこここの飲食店から漂ってくる食べ物の匂いをかぎ取っていた。
「空気にも混ざりものが、たき火でもしているのか」
排気ガスの正体がわからない間は漠と不快に感じた。
通りの向こうの軒先に、父子がいた。カフェの軒先はドリンクとアイスクリームの販売コーナーになっていて、父がなにか注文している足下で、女の子が野良猫をかまっている。
「猫もいるのか」などと考えていると、店先の父親がソフトクリームをカウンターで受け取っていた。子どもから視線が反れている。
そのとき、歩道に寝転がって子どもに腹を見せていた猫のしっぽが、通行人の男に踏まれた。
ウウギャー。悲鳴を上げ、道路に飛び出した野良猫。
そのまま走り抜けていれば良かったのだが、まさにその刹那、一台のセダン車が車道を駆けた。迫り来る車を見てしまった猫は、車線を横切る横断歩道の真ん中で立ちすくみ、金縛りにあう。
信号は青信号。運転手にも落ち度は無かった。それだけに一瞬の出来事に運転手は猫の存在を知覚さえできなかった。
「だめ、ネコちゃん!」
子どもも、猫が車道へ飛び出したのと同時にその後を追っていた。女の子が固まった猫を抱きあげ、運転手がはっと目を見開く。彼の心臓が縮み上がったことだろう。
急ブレーキを踏むも、その距離わずか一メートルに満たない。
スローモーションで、周囲の情景が流れる。
異変に気づき、アイスクリームを取り落とした父親が腰を曲げた。我が子を救わんと、駆け出そうとする。勘定を終えた、別の客が店から出て来た。大学生だろうが、右手を上げて、少女を指差すのが精一杯だった。
キキキキキキキキーーー!!!!!
長いブレーキ音が、父の眼前を過ぎていく。
黒いセダン車は横断歩道を通り抜け、少女のいた位置から十メートル先の地点で停止していた。
「あ、あわわわわ」
運転手が腰を抜かしたまま、車から降りて来た。定年を迎えた前後に見える初老の男だった。
やがて、往来に人が集まって来る。みな、同じく一点を注視していた。それは道路にぶちまけられた血の海ではなく、横たわる少女と猫の痛ましい姿でもなかった。
通行人の視線の先にあるもの。みな、ぽかんと口を開けて、ある上空の一点を見つめていた。
地上から五メートル。車道用信号機に明は右腕一本でつかまっていた。左腕には少女を抱え、彼女は猫を抱いている。
少女が車にはねられる瞬間、父親は目をつぶった。
ドシンという車の前部が爆ぜる音が彼の鼓膜に響いた。
「ひぃっぃぃ」おそるおそる目を開けて見たのが、いまの光景だった。
「いまの見た?」
「え? ううん。どうなったの?」
通行人の声がする。
子どもが車道に飛び出した瞬間、手前の女子高生の携帯電話だけが明の視界の隅で、虚空に浮いていた。
スローモーションで展開する交通事故の再現映像の中、明だけが他者とは異なる時間軸を移動していた。
子どもを追って、ダッシュで駆け出した。セダン車との距離30センチの地点で、しゃがみこむ少女の背に覆いかぶさる。
脇から手を回され、児童の体が宙に浮く。
両足で第一のジャンプ、高さではなく瞬発力を優先し、セダン車の前面グリルを飛び越えた。第二のジャンプで、明の右足が車のボンネットに陥没を生じる。その蹴りは、車のエンジンをも破壊するほどのものだった。
常人からすれば驚異的と呼べるだろう跳躍力で、空めがけて飛び上がった明の足の下をセダン車の天井が通過していく。
信号機のアームが近づく。女の子の体から右手をはなし、信号機を支える鉄柱をつかんだ。ふたたび明の体に地球からの引力の支配が及ぶ。
ざわざわ。往来の人間たちが集まって来た。明の跳躍を目撃した人間は数人いたようだが、それらの人々は、自分の目を疑って目尻をおさえたり、頭を振ってまばたきしたりしていた。
ぞろぞろと集まって来るのは、なにが起きたのかもわからない野次馬ばかり。
「なんだ、なんだ?」
「事故か?」
「え、どうしてあんな高いところに子どもが?」
口々に当然の疑問を口にする。
「宵子! 宵子!! 無事か!?」
父親がようやく目を開ける。我が子の姿を求めて、左右に首を振っている。
「誰か下に行ったほうがいいんじゃないか? 子どもをおろさないと」
「早くしろ!」
数人の野次馬が明の真下へやって来た。
(なるほど、この少女を助ける手伝いをしようとしているのだな)
「ど、どうするの?」
「きみ、わたしたちが受け止めるから合図をしたら手を離すんだ!」
このときの明は、彼らの言葉をすべて理解することはできなかった。
「子どもを受け止めるから! 大人にまかせろ!」
(とにかく、子どもをおろせと言っているようだ)
地上では、スーツを脱いで子どもを受け止めようとする男たちの円陣が組まれた。
(あの鉄の箱の背に降りればいいのだな)
明は左手の力を抜いた。ゆらっと、落下する明の体。まだ準備ができていなかったのか、悲鳴を上げる大人たち。
「きゃー」
思わず、女の子も悲鳴を上げる。
「おおっと!!」
予想外に鉄板は柔く、明と少女の体重を受け止めて、ズムッっと天井がひしゃげた。窓ガラスに無数のひびが入り、車内が見えなくなるほど。
少女の身体をかばって着地した明は姿勢をくずして、車体から転げ落ちた。ボンネットをつたって、アスファルトの地面に背中を打ちつけた。
「痛えぇ」
明が宵子の生命の恩人であることから、娘のわがままを父は承諾し、秋年家に好意的に迎えられた。
猫をかばって車にはねられそうになった宵子を、身を挺してかばった明。彼女はどこにも、打ち身など作っていないはずだ。立ち上がりもう一度、自動車を観察した。
(これは牛車か馬車か? それにしては牛も馬もいない)
自走する籠のようなものか、人足でも中に入っているのかと思えば、それも違うようだ。
鉄の塊かと思えば、内部は空洞も多い。叩いてみた手ごたえからして無数の部品から組み立てられた機械であるようだ。
少女が、明の腕をしっかとつかんでいる。
「ふぇーん」小刻みに震えて、か細い声で泣いている。
こんなものにぶつかられては、成人であれば当たり所によって死を免れることもあるだろうが、この小さな体ではひとたまりもないように思えた。とっさに助けに入ったことは間違いではなかっただろう。
明は興味深く自動車を観察していた。見たところ、車線はこの自動車と歩行者がそれぞれ進み道を分けているのだと理解する。
歩道にもどった明にみんなの注目が集まるが、誰も言葉をかけない。声をかけられないと言った方が正解だろう。
「宵子!!」
父親が叫びながら女の子に駆け寄った。
「怪我はない!? どこか痛くないか!?」
彼女はこくこくとうなづいている。懐には猫を抱えたまま、顔面は蒼白になっている。
「はっっぁあ」
父親は声にならない嗚咽をもらした。そのまま力の入らない手で、ぽかぽかと子どもの体を叩き続けている。
父親は落ち着きをとりもどしきれてはいないが、やや冷静になってから明の方に向き直った。
「%#(‘(’‘%){}|>¥>“☆ДИш……」
早口でまくしたてられるが、異世界の言葉で父親がなにを言っているのかさっぱりわからない。
そうこうしていると、ほかの衆目とは異なる鋭い視線が明に向けられているのに気付いた。
上から下まで紺色のおそらくは軍服を着た二人の男が、人の群れを縫って現れた。
「ちょっと話を聞かせてもらおうか」
明は日本の警察に補導された。
事故の現場検証をしている間、明はパトカーに乗せられていた。セダン車の持ち主や通行人から巡査が目撃証言の聞き取りをしている。
(なるほど。鉄の籠の中はこうなっているのか、意外と座り心地がいいぞ)
何人かは車中の明を覗き込んだりもしていた。
「……署へ……移すぞ……」
相変わらず、この国の人間の言葉を完全には聞き取れない。はじめて外国旅行をするようなものだから、いたし方あるまい。
日本の風物は、なにもかもが物珍しかった。
警察官がなにやらレバーを引っ張ったり、肩を揺らしている。ハンドルを回すと車は方向を変えながら、車道に進みだした。
明は籠がどうやって動いているのか不思議だった。
(もしかして、前の席に座る二人と隣の席の男が下で足を動かしているのかと思ったが、べつにそんなことはなかったぜ)
明は取調室に座らされた。甲冑と羽織を取り上げられ、ジャージの上下を貸し出された。青いフードのついている、ニュースでよく見る「あれ」。
「きみ、なまえは?」
おそらく名前を尋ねているのだろう。
「スパーク・アルティミト」
「としはいくつだ?」
(うん? もう一度名前を尋ねたのか?)
「スパーク・アルティミト」
「はあ?」
「いえはどこだ? でんわばんごうは? けいたいでんわはもってるか」
「イエ・ケントゥリア……デンワ? ケイタイ? イオ ノン ソー(わからない)」
「がいこくじんか……」
現場検証でいろいろおかしな目撃証言が集まったらしく、警察官も半信半疑でいろいろ尋ねてきたが、言葉が通じないとわかると、返答を急いてくることもなくなった。
所在無げに明は、警察署の片隅に置かれたソファーに座っていた。無言でいたが、明は目に映るものすべてが目新しく、退屈はしなかった。
(ここは町の治安を司る管理の詰所であるようだ)
ワケあり顔の民間人を伴って警察官が行ったり来たり。
軍の駐屯所より臨場感があるといえよう。平時においては、軍学校の生活は静かで単調なものだ。
軍の敷地で聞こえる声といえば、訓練の号令ばかりだが。ここでは官吏と民間人が大きな声で怒声を浴びせあっている。
(オラ、わくわくしてきたぞ)
窓から西日が差しこむようになった頃、一人の女性警察官が声をかけてきた。
「きみ、おなかすいていない? わかる?」
彼女は、おわんから食べ物を口に運ぶジェスチャーをしてみせた。
(食事をどうするか尋ねているのだな。ほしいといったら、くれるのだろうか)
場所を移して落ち着いて食事をとれる部屋に案内してくれた。白衣を着た若い男が配膳用の金属ケースから陶器の器を取り出した。
ふたをあける。ふわっと湯気が立ち上った。ケントゥリアでは、米食よりジャガイモを食することの方が多い。寄宿舎の食事では大きなパンが配られ、グループごとにそれを手でちぎって分けて食べる。
スプーンもフォークもないが、チョップスティックの使い方は知っていた。海洋国ミズハミシマの食事は箸で行われる。使い慣れないと握るのが難しい。
目の前には女性警察官がいる。明はケントゥリアの名に恥じぬよう、一粒のコメも落とさぬように、細心の注意を払って米を口に運んだ。
(それにしても……)
「かつ丼おいしい?」
女性警察官が声をかける。
「カツドンマイウー」
風が語りかける。うまい、うますぎる。
かつ丼にはおもに卵とじとソースかつ丼があるが、いま食べているのはふわっとした衣に甘じょっぱいソースがかけられたものだった。これは精がつきそうだ。
(クレプスキュールにも食べさせてあげたいな)
故郷に残してきた嫁が気がかりだった。
本国では、自分の出奔はどう処理されたろう。死んだと思われたか、あるいは事故として処理されたのだろうか。
外見からすると、この世界の小学六年生か中学に入りたての年齢に見える明を、いつまでも警察署に留め置くわけにはいかない。
家族とはぐれたか、家出したか、いずれにせよ写真を撮影するのは、登録外国人や旅行者の中から身元を洗うためのものだろう。明はなにをされているのかわからなかった。その晩はなにやら、わけありの児童が生活する施設に身柄が移された。他の児童に紹介されるでもなく、個室で夜を明かした。
ベッドの中で、今後の身の振り方を考える。
「おれは、なんとしてもケントゥリアとアルシェロンへ帰る方法を探さなくてはいけないのではないだろうか」
(しかし、どうやって探せばいいのか?)
「この世界のことを明日から学ばなければならないだろう」
翌日、少年用の衣類を施設に努める女性が貸し出してくれた。いまの恰好はあまりにもあまりだろうと、警察官に文句を言っていた。昨日、明が来ていた服は事件の容疑者が着るためのものだったらしい。
多くの子どもが暮らす施設のようだったが、朝になるとみんな門の外へ鞄をかついで出て行った。月曜日だから学校へ行ったのだ。素性の知れぬ明を子どもたちに接触させるのははばかられたのか、明は部屋の窓から子どもらの背中を見送った。この世界の子どもたちがどんな生活をしているのかは、この時点ではまだ知らなかった。施設の職員から口の中を見られたり、身長と体重を測られたり、かんたんな身体検査を受けたりして過ごした。
自由になると、幾冊かの本やテレビを見ることを許された。テレビは昨日の自動車に続く驚きだった。異世界人が現代文明に触れた時の驚きは長々描かなくても、みなもろもろのファンタジー小説でよく知っているだろう。それを明は体験したわけである。
とりわけテレビには驚いた。いまでも、明にとって元いた世界と現代日本との文明格差の象徴だった。とかくファンタジー世界は暗黒の中世風に物語で描かれるが、明に言わせれば明たちの世界もそう卑下したものでもない。例えば、医学や外科手術のレベルは全般的に地球の方が優れていると思う。しかしこちらの世界では、現代日本の医学にしても治せない病を治癒魔術で治すことも可能だ。テレビで難病の子どもがなすすべなく、亡くなっていくのを見たときに、(ケントゥリアに連れていくことができれば救うことができるのに)と、心が痛んでいた。
インターネットは、電話回線の仕組みを理解した後は、その延長線上で何とか理解できた。今でもテレビはその原理が理解できない。なぜ物質の姿を電気信号に変換してそれを大気中に放ったものが、再度変換して元の姿に復元できるのか。現代人だって説明できまい。現代人も文明の恩恵を享受しているが、その仕組みを理解して使っている者は少ない。せいぜい自転車の構造を説明する位が関の山だろう。自動車の構造はエンジニアでなければ理解できない。
夕刻に、昨日見かけた人物が現れた。明が救った子どもと一緒だった。
秋年氏に連れられて、明は施設からマンションに移った。着の身着のままだったので、衣類や日常に必要なものを買い揃えたり散在させてしまったが、すぐに秋年親子がかなり裕福な家庭だということに気づいた。
明は少しづつ高度文明社会の生活に馴染んでいく。
宵子には母がいなかった。彼女が幼いころに離婚したのだそうだ。
後から考えると、外国人なのはいいとしてこの世界には存在しない国の住人であるこの明が、よく日本国籍を取得できたものだ。学校への編入など、何不自由ない生活がすぐに用意された。
どうしてそんなに手回しがいいのか、秋年氏がなにか特別な権力でも持っているのか、その理由がわかるのは後日のことだった。
明は一般的な中学生の年齢にしては落ち着いて従順だったためか、秋年氏に気に入られた。ほどなく養子縁組をして秋年氏は明の義父になった。明の名前もスパーク・アルティミトから日本風の名前に変わった。
「うーんとねー、スパークだから光、日本風に『あきら』にしましょう。漢字は明でいいわね」
秋年 明。宵子が明の名付け親となった。
一般常識のない明が一人で出歩くと、たいがいなんらかのトラブルを引き起こすので、宵子はどこへ行くにも明の後をついて歩くようになる。
この世界のルールはテレビと宵子から学んだ。
最初はとんちんかんなことばかりして、学校でからかわれることもあったがいじめに発展することはなかった。素手で熊を倒すケントゥリア戦士と喧嘩をして勝てる生徒はいなかったからだ。
最初の頃は、ちょっかいを出してくる生徒から、なんの疑問も抱かず喧嘩を買っていたが、この国の子どもは軍事教練を受けてはいないことを知って、自重した。
歯を折ったり複雑骨折や内蔵にダメージのないように、加減していたつもりだが、それでも学校では大問題になり、相手の親は泣きながら怒り狂うし、秋年氏も呼び出されて平身低頭だった。
ケントゥリアでは教練での人死にが問題になることなどなかった。
明が痛めつけた生徒たちも他の弱い子どもらから金品を恐喝したり、暴力を振るっていたから子どもの世界は無法なのだと思っていたが、そうでもないようだ。
明は自分から喧嘩を吹っ掛けるようなことはしなかったので、やがて中学校では番長として扱われるようになった。
他校の生徒とのトラブルも相談されるようになるが、力による支配 (そんなつもりはないんだが)が功を奏して吉祥寺周辺の学校は平和になっていった。
それでも言葉が拙いことをからかわれることはまだまだあったので、明は猛勉強をした。早く一般の生徒の学力に追いつかないと。言葉がわかれば、異世界の学問であっても、理解することは不可能でない。
この世界の歴史は、故郷の国々がどんな発展を遂げていくのかを予言されているようで衝撃的だった。もどれることがあるかわからないが、関数という概念などもケントゥリアでは一部の学者しか知らないような内容を無償で一般人に教えてくれるのだから、この国の教育環境は非常に恵まれていると思う。