第87話
「じゃあ俺帰るから。あの子をよろしく頼みます。」
そう言ってソファーから立ち上がると、両親と祖父母が俺を見上げ、各々がわかったという風に頷いた。
遅めの夕食をダイニングで食べている神崎がいない間、俺は四人に事の説明をした。
特に何も知らされていた無かった祖父母と父は、彼女が頬に貼っている湿布に対しての疑問を持っていたようで、俺がその理由を話すと一様に顔をしかめた。特に会って間もないと言うのに相当彼女の事を気に入っている様子の祖母は、「なんて事」と呟いて絶句した。
「女の子がそんな目に会うとはね…」
「気の毒だな。全く、あんな小さい子に欲情するとは…世も末だな。」
そう言って父と祖父は黙り込んだ。
皆が黙り込んだ中で、唯一反応をしめしたのはやはり母だ。
俺が説明をしている最中、見る間に形相が変わってきていたのを目の当たりにして嫌な予感はしていたのだが、母が口を開いた瞬間、エサを食い終えて水を飲んでいた神崎の犬がびくりと驚いていた。
「なんて事なの、そんな教師がいるなんて!亨!!貴方の勤めてる学校の倫理観ってどうなってるのかしら!!」
「倫理観って…」
「あんな可愛い唯ちゃんに手を出すだなんて!!貴方見た!?あの紅ほっぺに湿布!細くて折れそうな手首に包帯!!ああ、何て事かしら!!」
「雅さん、ちょっと落ち着こう。ね?」
「蒼偉さん!だって、あの可愛い唯ちゃんに暴力なんて、お義父さんの言うように世も末だわ!ね、ナイト君!そう思うでしょ!?」
父が落ち着くように諌めても、今回の様に興奮しきった母を抑えるのにはさしもの父でも無理だ。祖父もそんな母に慣れているのか、諦めているのか。祖父からしてみればどっちもありえそうだが、母が激昂しているところを見ても何も言わないでいる。
そして、急に話を振られた犬…ナイトは名前を呼ばれた事に対して反応したものの、飼い主でない事をわかっているためか座ったままで返事をしなかった。
彼が返事をしなかった事を特段気にする様子も無い母は、相変わらず神崎の身を案じていたが、そんな母達を見ていたナイトは本来の主人である神崎がいるダイニングへと向かっているのを俺は黙って見ていた。
すると、今まで黙っていた祖母がようやく口を開いた。
「落ち着きなさいな、雅さん。」
「でも、お義母さん…!」
「雅さんが思っている事はここにいる全員が思っているわ。でも、あまり事を荒立てても傷付くのは唯さんですよ。」
「………」
「亨。」
「はい。」
「唯さんのお父様には連絡したんでしょう?」
「はい。帰ってくる前に桐生さんと電話で話をしましたが、今日中に帰国の途に着くようです。多分明日には日本に帰って来ると。」
「えぇー!?明日!?」
不満げに叫んだ母の考えている事なんて、容易に想像出来る。
きっと一日しか神崎を預かれないことに不満なのだろう。俺としても週末までと思っていたので、まさか明日帰国するとは思ってもみなかった。
とは言え、神崎からしてみれば他人の家…ましてや通っている学校の教師の実家など居心地が悪いだろう。
そんな俺の気持ちを察してか、父が苦笑しながら母を落ち着かせようとお茶を勧めていた。
「まあ、彼女が通っている学校の教師でもある亨の家にいるっていうのも、あの子にとっては気を使うことだろうからね。それに、今日中の便と言っても桐生氏が何時の航空券を取るのかわからないだろう。もしかしたら週末まで帰国出来ない可能性もあるよ。」
「そうだけど…」
「雅や、とりあえずあのお嬢を安心させてやろう。それがワシ等が出来ることだぞ。」
「そうよ、雅さん。ここで私達が憤っても唯さんの保護者は桐生総一郎、その人よ。だから彼が帰って来るまでは私達が慈しんであげましょう。ね?」
「…そうですね、わかりました。亨、貴方も安心していいわよ。明日には翼も帰って来るはずだから、あの子にも少し話しておくわね。」
「ああ、ありがとう。」
全く、うちの家族は…。
そう思いながら苦笑していると、父がそれを見ていた。
「亨。」
「ん?」
「お前も根は同じなんだぞ。」
そう言って父は微笑った。