第72話
車に寄りかかって紫煙を吐く。
今はもう十一月だと言う事もあって、五時前だと言うのにあたりは大分暗くなっている。幸い、うちの学校の駐車場には大型の照明が設置してあるので、夜遅くなっても暗すぎるというほどではない。校舎との距離もそう離れていないので、校舎内の照明からも明かりが漏れているのを考えれば、そんなに暗くなったという感じもない。
この一本を吸い終わったら、職員室に行かなければならない。それから理事長にも会って話を通さなければ。
そう言えば、神崎が『桐生』姓だというのを理事長は知っているはずだった。と言う事は、今回の件も彼女に有利に働くようにしてもらいたいものなのだが…。
「遠藤先生!」
後ろから声がかかって、その声に一瞬眉を顰めたが、直ぐにそれを消した。
「なんですか。」
「校長先生と教頭先生が探してましたよ。直ぐに職員室に来るようにって。」
「そうですか。わざわざどうも。」
そう言って最後の一口を吸い、煙を吐き出しながら携帯灰皿に吸殻を押し付けた。車の中にそれとタバコの箱を投げ込み、さっさと呼びに来た教師の脇をすり抜けて職員室へ向かおうと踵を返した。
しかし、無視された事が彼女のプライドに傷が付いたのか、有紗が「ねえ」と待ったをかけた。
「ねえ、何があったの?一年の学年主任の先生が走り回ってるし、生徒会室は凄い騒ぎになってるわ…。亨だったら知ってるんでしょう?だから職員室にも呼ばれてる。」
「お前が知るような事じゃない。」
「そんな。せっかく面白そうな事が起きてるっていうのに、それを知らないのはどうかと思うし。ね、何があったわけ?」
ウキウキと全くの見当違いの事を口走る有紗に、こめかみが波打つのが自分でもわかった。
神崎が襲われたのは、面白い事でも何でもない。
あの子が恐怖で打ち震えているのが、こいつにとってただの学校で起きた一つの娯楽でしかないのなら、有紗は何も知る必要はない。むしろ、口の軽そうな有紗に何かを漏らしたら、あっという間に全校生徒に広まるだろう。そんな事こそ忌避するべきだ。
ただでさえ良く無かった俺の機嫌が更に悪くなったのを見て、有紗は自分の失言に気付いたのか、口に手を当てて黙り込んだ。
不機嫌極まりない目で彼女を一瞥し、さっさとその場から離れようと思ったのだが、それを更に引きとめられた。
二度も引きとめられた事へのイライラが蓄積していると、有紗がしな垂れ掛かってきた。
「亨がホテルでも何でもない場所でタバコ吸うのって珍しいわよね?」
「お前に関係ない。放せ。」
「うふふ…ねえ亨、学校でするのって、興奮しない?」
「…有紗、お前とはもう関係ないんだ。さっさと放せ。」
「そんなの私が納得したとでも?ね、昔はよくしてたじゃない。私見た事あるのよ?真尋さんと…」
ただでさえ良くない機嫌で、その名前を出されたことで、俺の機嫌は最下層まで急降下した。
しな垂れかかってきている有紗の身体を引き離すと、間髪入れずに顎ごと手で掴んだ。
そして低い声で、有紗に最後通牒を突きつけた。
「…お前が、真尋の名前を口に出すんじゃねえよ。」
自分の失言を完全にわかったのだろう。俺は女に手をあげる主義ではないが、そんな俺がここまですると言う事が彼女にとって驚愕だったのだろう。
手を離してさっさとその場を後にしようと思った時、最後の足掻きとばかりに背後から怒鳴られた。
「私が翼を忘れられないって言うけど!亨だって、真尋さんの事、いつまでも引きずってるじゃない!!それなのに、自分の事棚上げにして、忘れられないとか、言わないで!!」
職員室に戻ると、そこには校長・教頭・一年学担・神崎の担任、そして悠生が揃って谷野を囲んでいた。その他の教員が見受けられないので、校長以下が人払いしたのかもしれない。
俺が入室したのを見て取った校長が、目線でこちらへと促し、そして今後について話し合った。
生憎理事長は、午後から出張になってしまい、明後日…つまり金曜でないと学校に戻って来ないらしい。とは言え、校長と息子である翔からも連絡は行っているらしく、迅速に対応すると言ってくれたようだ。
その言葉を聞くなり、明らかに顔色が悪くなった谷野がブツブツと「僕は悪くない」と繰り返しているのが癪に障った。
「とりあえず、谷野先生。あなた、理事長が帰って来られるまで自宅待機処分にします。正式な処分の決定は理事長が帰って来てからと言う事になりますが、懲戒免職も覚悟しておきなさい。」
そう校長が言うと、動揺していた谷野が妙な動きを見せた。それは一瞬の事だったので、ただの気のせいかとも思ったが、校長と教頭が職員室を出て行こうと背を向けた時に谷野が暴れ出したのだ。
「僕は悪くないんだ、全部、全部あの子が悪いんだあぁーーっ!!!!何でわかってくれなの!僕が悪いわけじゃないのに!神崎が、あの子が僕を見つめて勘違いするからぁぁぁ!!!!!だから僕は誘いにのったんじゃないか!!!全部、あの子がぁあああ!!!!!!」
テーブルを引っくり返し、椅子を蹴り倒し、そう絶叫していた谷野に焦りつつ、何とか落ち着かせようとしていた先生方を尻目に、俺は酷く醒めていた。
あいつが何をして、こんな愚物を勘違いさせたのかはわからない。確かに神崎には無防備すぎるきらいがあったし、あんな無防備では勘違いする奴も出てくるだろう。
だからと言って、無抵抗で嫌がっている相手に向かって暴力で屈服させようとし、あまつさえ、彼女の身体を強引に奪おうとした。
それは完全に間違っている。
俺は無意識の内に暴れている谷野の近くまで行くと、椅子を振り下ろそうとしている手を逆の方向に捻ると、そのまま後ろに押し倒し、自分の体重を掛けた膝で完全に動きを封じていた。
あっという間の出来事にぽかんとしている面々を放って、谷野の耳元でボソリと呟いてやった。
「叩けばホコリが出そうなお前の事だ。いっそ、逮捕されてから家宅捜索でも受けるか?この、変態野郎が」
俺に押さえつけられたのと、言われた事に対しての恐怖感が勝ったのだろう。大人しくなった谷野を校長らに押し付けて、俺は職員室を後にした。
途中慌てて悠生が追いついて来たが、保健室に行くとだけ言うと途端に静かになっていた。
二人して連れ立って保健室まで行くと、保健医の先生と藤田が深刻そうな顔でカーテンの閉められたベッドを見ていた。
「熱?」
「はい…あの、唯ちゃんの熱がどんどん上がってて…さっきまでは普通に話も出来てたんですけど、あっという間に38℃超えちゃって…」
「どうやら単純に疲労もあるんだろうけど、精神的なストレスが相当あったのね。可哀想に、殴られてるから頬も腫れちゃって…腕とか、手首とか…見てられないもの。」
ちらりとカーテン越しのベッドを見るけれど、姿までは確認出来なかった。
どうしましょうか…という保健医の呟きは、悠生の一言で破られた。
「あの、親御さんに連絡しないといけないじゃ…」
「あー…今こいつの父親、海外で週末でないと帰って来ないんだと。兄姉もいるようだが、二人とも仕事で国内にいないらしいな。」
「え、マジで…。じゃ、あ…神崎ちゃん一人って事になります…よね…?」
「あたし、付き添ってあげたいけど、弟がまだ小さいんで家に帰らないといけないし…。どうしよう…」
…。
とりあえず神崎を病院に連れて行った方がいいのではないだろうか。そう提案すると、そうねと保健医から短い返事を貰い、何故か俺がその病院に連れて行く羽目になった。