第六十九話
「大丈夫?うわ、唇切れてるから血が出てるし…あ、タオル冷やしておいたから頬に当てて。」
「う、うん。ありがとう、愛理ちゃん。」
そう言われて、冷たいタオルを頬に当てる。多分これから腫れ上がってくるだろう。週末にはパパ達が帰ってくるから、それまでには腫れが引けばいいのだけれど…。
パパが今の私を見たら、絶対激怒すると思う。
これは推測ではなく、確信。
『カサブランカ』のコレクションを間近に控えているのに、私の事で余計な心配をかけたくないと思って、先生にもそう言った。だけど、当たり前に返って来た答えは「馬鹿な事を言うな」だった。
私は、保健室の中をこまごまと歩き回って私の世話を焼いてくれる愛理ちゃんを見つつ、ここに来るまでに起きたちょっとした修羅場を思い返した。
*
愛理ちゃんの突然のカミングアウトに驚いた室内にいた全員が絶句していると、早乙女先生が恐る恐るといった感じで声を出した。
「…『唯姫を護ろう☆皆の衆』…?」
「はい、そうです。」
「藤田……なんだそれ…?」
「え。…亨さんも知らないんですか…?」
「ああ、初めて聞いた。」
「あー…公式って言っても限りなく非公認に近いものですからね。知らなくても当然だと思います。でも、会員数は全学年合わせて相当数いますし、中等部と大学部も合わせると多分遠藤先生のファンクラブの会員数超えます。あ、ちなみに会長は篠宮先輩なんですよ!!」
にっこりと笑った愛理ちゃんは、篠宮先輩の名前を聞いて逃げ出そうとした女の子が暴れだしたので、掴んでいた髪の毛を離した。だがそれも束の間、今まで私が聞いた事の無いような物凄いドスの効いた声で「逃げたら地獄見るよ」と一言。
その言葉にビタッと青白い顔で固まった彼女は、愛理ちゃんがここに来る前に連絡しておいたという生徒会の役員達に身柄を拘束されて連れて行かれた。
彼女が去り際、「あたしは何も悪く無いわよ!!!!」と叫んだ声が廊下に反響し、しばらくそこに留まっていた。それを聞いた私がまたしても俯いたのを見た愛理ちゃんは、気を取り直すように保健室に行こうと言ってくれたので大人しくそれに従うことにした。
谷野先生に関しては、学担の先生が連れて行ってくれた。その際、私の顔を見た学担の先生は一気に顔が青ざめてしまったように見えた。そして、遠藤先生達にも一応職員室に来るようにと言うと私に「大丈夫か?」と声をかけてくれたので、それに頷いておいた。
だから先生達が出て行った後に、ほっと息をついたものの、やっぱり手は震えたままだ。
保健室に行こうと思ったところで腰が抜けてしまったし、相変わらず身体は小刻みに震えているはで全然脚に力が入らない。それを見た愛理ちゃんが、心配そうな顔で「おぶったげようか?」と言ったけれど、流石にそれは断った。なにせ、逆に愛理ちゃんが私に潰されそうだし。
ごめんね…こんな時ですら、乙女心はあるんだよ…と思いながら何とか立とうとしていると、ふわっと目の前が覆われたと思ったらすっと身体が浮いた。
その時ふわりと香ったのは、相変わらず気持ちを落ち着かせるような香り。
だからかもしれない。
あれだけ嫌だと思っていた谷野先生の感触を思い出させるような固い腕に、身体を持ち上げられても特に嫌悪感なんか感じなかった。
「…え…?」
「悪いな、保健室まで我慢しろよ。」
そう言った遠藤先生に抱きかかえられて…ていうかお姫様だっこされた私は、一瞬何が起きたのか解らず、じーっと先生の顔を見ていた。
ああ、お兄ちゃんとまた違ったイケメンだなー。うわぁ、お肌ツルツル…と関係無い事を思っていると、早乙女先生の声で現実に戻って大いに慌ててしまった。
「ちょっ…!亨さん!!」
「うるせぇな。お前、先に職員室行ってろ。俺もこいつを保健室に連れて行ったら直ぐに向かうから。」
「だからって、亨さん、神崎ちゃんをお姫様抱っこって…!」
「…や、ややや!!やだ、先生下ろして!」
「だってお前立てないんだろ。悪いな、今男に触られるのは嫌だろうが、少し我慢しろよ。『それに、お前の保護者の呼び出しの事も少し話しておかないとな。』
いきなりイタリア語で話し出した先生に驚いたものの、内容が内容なだけに、びくりと強張った身体。それを他所に、先生はすたすたと歩き出した。
後ろで早乙女先生が「ずるっ!」って言ってた気がするけど、その意味がよくわからないので放っておいた。
保健室までの短い道のりの最中、先生はさっき使ったイタリア語ではなく英語で聞いてきた。元々シカゴで二年間過ごしていたらしいので、その発音は綺麗だった。
『パパは今N.Yにいるんだろ。いつ帰って来るんだ。』
『……週末には帰国しますけど…』
『週末か…。理事長から連絡入るかもしれないが、一応な。多分、お前のパパが呼び出されるだろうな。』
『…ないで…』
「は?」
「言わないで!!…お願い、先生、言わないで下さい!!」
縋り付くように。
抱きかかえられているにも関わらず、先生に縋り付いて懇願する。
こんな事、パパやお兄ちゃん、お姉ちゃんに絶対知られたくない。
悲しませるのはわかってる。
怒ってくれるのもわかってる。
それでも、こんな事、絶対に知られたくない。
必死に言わないでと言う私を、先生は上から射抜くような鋭さを持った目で見ていた。
「馬鹿言うな。お前自分が何されたかわかってるんだろ。」
「それでも!パパに…私の事で心配かけたくないんです!」
「ふざけんなよ、お前。たまたま。運よく俺達があの場に居合わせなかったら、谷野にヤられてたかもしれないんだぞ。それなのに、言わないで?お前、あの人にどれだけ遠慮してんだ。そんなに狭量な人じゃないだろ。」
「…だ…だって……だって…」
「こんな事があって、知らなかった方が逆に心配かけるってわからないのか。」
そう言うと、先生はガラッとドアを開けた。
いつの間にか保健室に来ていたらしい。どうやら保健医さんは留守だったようで、誰もいない保健室の中、カーテンのかかっていたベッドに座らされて項垂れていると、頭上からはぁっ…とため息が聞こえた。
きっと私のワガママに呆れたのだろう。頭ではちゃんと心配かけるっていうのはわかっているけど、どうしても知られたく無かった。
ぎゅうっとスカートを握り締める。ぽんと頭に柔らかな感触があったのでそろそろと視線を上げると、困ったように笑う先生がそこにあった。
「もっと、自分の父親に甘えてやれよ。」
「…え?」
「千歳先生だったら、絶対オペ放り出してでも駆けつけたに決まってる。それだけ、お前はちゃんと大切にされてきてたんだ。今更、義父だろうが、義兄だろうが、甘えたどころで単純に嬉しく思うにしろ、嫌がるなんて事はないんだから。」
「………」
「桐生さんも同じ、美奈も同じ。お前が信頼してるのなら、ちゃんと甘えてやれ。」
グリグリと頭を撫で回されて、離される。
それを少し寂しいと思ったのは、きっとさっきまでありえない状況にあったからだ。そうに違いない。
人肌恋しいのかもしれない。
あんなことがあったのに、どうしてか先生の側は居心地がいいと思ってしまう。
ふと、目線を移すと自分にかかっていた白衣が目に入った。そう言えば教室でかけられたままだったんだ。
「あの先生、白衣…」
「いい、着てろ。」
「え、でも…」
「藤田が今荷物持ってくるから、それにジャージも入ってるだろ。それが来るまでは着てろ。別に返すのは後日でもいいから。」
コンコンとノックの音がして、ガラッとドアを開けて入って来たのは噂の愛理ちゃんで、その手には私の荷物があった。
「唯ちゃん…大丈夫?」
「愛理ちゃん…何とか大丈夫だよ。」
「じゃあ、藤田。こいつ頼むな。後から様子見に来るから。」
「わかりました。」
そう言って、保健室を出て行った先生を見送ると、先程爆弾発言をした愛理ちゃんと保健室に二人っきりになった。
申し訳ないです。愛理のプロフは次に回します。ちなみに…藤田愛理って言うのがフルネームです。
今更ですが…