第67話
ちょっと過去話。
「おはようございます!」
「あれ、随分早いのね。おはよう、亨くん。あれ?翼くんは一緒じゃないの?」
「翼は今日母さんの用事に付き合って、それから来るって言ってましたよ。それより、祥子さん、動いてて大丈夫?もう予定日過ぎてるんでしょ?」
郊外の閑静な住宅街。
千歳先生と祥子さんの住んでいる一軒家に、俺はいつものように遊びに来ていた。
さして大きくもないが小さくもない、いたって標準的な広さのその家は元々祥子さんが育って来た実家で、現在は夫婦二人で暮らしている。その家の近くには祥子さんの叔母さん夫婦も住んでいて、いつしか俺と翼はそのアットホームな家に入り浸るようになった。
母はその事を知らないが、父は多分警護しているメンバーから話を聞いたのだと思う。この前父から書斎に二人とも呼び出されて「あまり迷惑をかけてはいけないよ」と苦笑しつつも、少しばかり厳しめの小言を貰った。それに俺も翼も頷いて「わかっている」と答えておいた。
当時俺達一家は、高級アパートと言われる家に住んでいたのだが、そのあまり機能的ではない完璧さにすぐに嫌気がさした。日本にいた頃もあの大きな屋敷に使用人達はいたし、いつも綺麗だったのだが、多少なりとも散らかっていた方が人が住んでいるという実感が湧くものだ。しかし、このアパートにそれは似合わない。わざと散らかした先からメイドがどんどん片付けていってしまうのだ。
そんな完璧アパートに辟易した俺と翼は、学校から帰るとすぐさま病院や千歳先生の家に直行するようになっていた。病院と先生達の家自体は距離は近い。だが現実的に子供が二人で訪ねてくることに少しばかり困った顔をするものの、彼等夫婦は自分達を追い返すような真似はせず、むしろ祥子さんお手製のアップルパイなども御馳走になる事なども多かった。
そんな夏のある日曜日、俺は朝から彼等の自宅に遊びに来ていた。
千歳先生はあいにく、休みだったのに緊急の呼び出しをされたらしく病院へ行ってしまったと、祥子さんが笑いながら教えてくれた。
随分と大きくなったお腹をふうふう言いながら抱えている祥子さんは、三日も予定日を過ぎているのにも関わらず、まだ産まれる兆候がないらしい。
「どこかのんびり屋さんよねぇ、この子。」
「ねえ、祥子さんはさ、どっちだと思うの?男?女?」
「うーん…どっちでも嬉しいんだけど、亨くんは男の子の方がいい?」
「そうだね、俺と翼と一緒にサッカー出来るじゃん!!」
「あはははは!じゃあこの子は二人にとっては弟的存在にあるわけねー。あ、ねぇ!じゃあ女の子だったら?」
「女の子?だったらサッカー出来なくなるよね。うーーーーん…女の子だったら…母さんが喜びそうだな。」
俺と翼を産んだ後、「可愛い女の子が欲しい!」といつも言っている母だが、そうは問屋が卸さなかったらしい。なかなか上手くいかないもんだなと、今ではもう諦めているようだ。それでも自分達の従姉妹などに対してはかなりのおせっかいを焼いているので、構われた彼女達からは少しだけ煙たがられている。本人には可哀想なので言ってはいないが。
「女の子だったら、祥子さんに似そうだよね。」
「あら、千歳君にもきっと似てるわよ。そうねー…結構鈍いところとか。」
「鈍いって…先生って、どんくさくないでしょ?」
「性格の話ね、千歳君の性格!ちゃんとしているように見えて、あれで結構鈍いのよ。あ、内緒だけどね。」
そう言ってクスクスと笑っていた祥子さんが、ふいに眉を顰めた。
「祥子さん?どうかした?」
「……あれ…?…うそ……え、ちょっと…今くるわけ?」
「祥子さん?」
「と、亨くん…病院に電話掛けて、千歳君呼び出してもらえるかな…どうも陣痛が始まったみたいなの…」
「えー!?本当!?大丈夫、祥子さん!!」
「うん、まだ大丈夫だけど…ちょっと電話が遠くて…お願い、千歳君に電話して?」
「わ、わかった!!」
焦った俺は、震える手で千歳先生が勤める病院に電話をかけた。出たのはいつもアメをくれたりする受付のオジサンだったが、俺が祥子さんの陣痛が始まったと教えると、慌てて千歳先生を呼び出してくれた。
電話口に出た先生は、俺よりもはるかに焦りまくっている声で様子を聞いてきたので、電話を直接祥子さんに手渡した。
一言、二言か話すと俺に電話を戻して来て、「話したいんだって」と言うので電話に出た。
『亨、俺が戻るまで祥子を頼むからな!』
「わかった!でも早く来て!」
『おう!!じゃあ、よろしくな!』
そう言って電話は切られた。
それから千歳先生が来るまでの、短い様で長い時間が本当にどうすればいいか全くわからず、逆に祥子さんに気を使わせていたんだと思う。あまりにテンパりすぎて、今となってはほとんど覚えていない。
気が付いたら病院の待ち合い室の椅子に座っていた俺の隣に翼が座って、「大丈夫か?」と聞いて来たので、それで正気に戻ったという感じだ。
祥子さんと一緒に分娩室に入ろうとしていた千歳先生は、祥子さんから駄目だとお達しが出たらしく、大人しく…と言っても、一枚のドアを隔てた廊下側でうろうろしすぎて不審者のようだった。他の先生方や、看護士などに苦笑されていたのだが、それでも彼が置かれている状況をわかっているらしく、肩に手を置かれたりして励まされ、事務の若い男の人には大げさに背中を叩かれていたりしたのに抗議していた。
結局陣痛が始まってから出産にかかった時間は、初産にしては早いものだった。
母子共に健康ですよとお墨付きを貰ってから、それから俺と翼は病室に通された。
「祥子さん、大丈夫?」
「先生も…大丈夫?なんか、さっきジャクソン部長に呆れられてなかった?」
「うっ!お前ら見てたのか!!」
くすくすと笑いながら俺達の会話を聞いていた祥子さんが、大分疲れた顔をしながらも、それでも相変わらずの柔らかい表情のまま、抱いていた赤ちゃんを俺に差し出してくれた。
「この子、女の子なの。ごめんねー、サッカー出来ないね。」
「翼も亨も、この子を抱いてもいいぞ。まだ頭が座ってないから、こう、頭に手を当てて支えて…そう。さっき生まれたばかりだから、しわくちゃだけど、絶対可愛くなるぞ、この子。」
「今から親バカ?全く、困ったパパになりそうねー。どう?赤ちゃん抱いた感想は?」
感想も何も。
余りに小さすぎるその子は、それでもしっかりと呼吸をしている。ちゃんと身体も温かいし、赤ちゃん特有の匂いもさせている。確かに顔はしわくちゃで、正直サルっぽいなーとか失礼な事も思ったけれど、くわぁ…と小さな口であくびをした瞬間、俺は何とも言わない感情に包まれた。
「…うわ…」
「小さいねー…手とか本当に小さいや。ほら、僕の指手の平全部で握ってるし。」
「ね、先生。この子に名前は付けた?」
俺と翼が仰ぎ見た彼等は俺の質問に対し、満面の笑みで答えた。
「唯。神崎唯。」
「「ゆい?なんでゆい?」」
「俺の愛する祥子が産んだ、俺の唯一無二な宝物。だから唯。」
「ゆーいー、ほら、パパが貴女に名前を付けてくれたわよ。良かったわねー。」
「あぁ、ほら、なんか嬉しそうに見えないか?」
「あら、本当ね。」
そう、あの時確かに笑い合っていた彼等二人はもう居ない。
その名前を付けた娘を、この世界に遺したまま。
そんな二人に大事に思われて、この世に生まれてきた娘…唯が何故、谷野に押し倒されてこんな状況になっている。
俺は無意識のまま入って来たドアを後ろ手で閉めると、未だに彼女に圧し掛かったままの男の襟首をおもむろに掴むと、あらん限りの力でそのまま後ろに引っ張った。
ガターン!!と机とイスに突っ込んだ男を無視し、俺は着ていた白衣を脱ぐとそのまま彼女をそれを着せてやった。
そして、今までに出したことのないほど低い声でその辺に転がっている男に声をかけた。
「おい、何やってんだ、お前。」
ジャクソン部長に関しては、詳しくは『カサブランカ~』の千歳編で書く予定ですが、まだ総一郎が終わりません。
取りあえずは病院内の絶対権力者でもある外科部長です。




