第59話
神崎を送り届けて、携帯で友人に連絡を取ろうと思って取り出そうとしたら無いのに気付いた。
確か、翼に神崎のピンクのメイド服を見せてから使ってない。まさかガネッティの店に置いてきたわけじゃないし、だとしたら家か。
仕方が無い。今日は実家に泊まろう。そう思って、マンションとは反対方向の道路へと車線変更した。
帰る道すがら、神崎の様子がおかしくなったホテルの前を通った。
なんだって、神崎はいきなり様子がおかしくなったのだろう。確か、前の車がホテルに曲がった辺りから黙ってしまった事から推測すると、乗っていた人物が知り合いか何かだったのだろうか。俺からは乗っている人物まではわからなかったが、神崎には誰が乗っていたのかわかったのもしれない。
しかも、なんでいきなり脈絡もなく美奈の事なんか…。
しかしまぁ、美奈は気が強いと思っていたが、実際にグレイシ-柔術まで習っていたとは。今度桐生さんに聞いてみようと思う。確か、美奈にも付き合っている彼氏はいたはずだ。確か一般人だと言うので公にされてはいないが、高校の時からの彼氏だと聞いた事がある。
あの美奈にしては、長い。『あの』と言うとまたキャンキャン言われるので黙っておくが、美奈の彼氏だ。相当我慢強くない限りはやっていけそうにないと思うのだが…。
つらつらとそんな事を考えながら実家の敷地に入って行くと、丁度父の送迎の車が車止めの前にいた。俺も自分の車を駐車スペースに停め、ちゃっかり俺を待っている父の所へと急いだ。
「おや、久しぶりだね。亨。」
「父さんも元気そうだな。翼から聞いてたけど、相変わらずだ。」
「そうそう変化はあるもんじゃないよ。今日はどうしたんだい?」
「昼間に携帯を忘れてったから、今日はこっちに泊まろうと思って。おじい様もいるんだろ?」
「そうだね。」
終始ニコニコと微笑む父、遠藤グループ現CEOである遠藤蒼偉。57歳。
この人ははっきり言って、謎の一言に尽きると思う。笑顔を絶やすことがないお陰で、何を考えているのかよくわからない。まぁ、そのお陰で若いと言えば若いのだが、さすがに先程まで目の前にいた桐生総一郎ほどではない。
笑った顔は確かに俺達に似ているのだが、父が声を荒げた事は俺が今まで生きてきた中で一回もないように思える。父はそれほど穏やかな人だ。よく考えれば祖母の穏やかな性格を継いだのだろうが、あの祖父の血はどこにいったんだと不思議に思うほど。叔父や叔母の性格は絶対に祖父譲りなのに…。
俺が教師になりたいと言った時も、「いいんじゃない?」の一言で許してくれた。怒られた経験がないからこそ、一番逆らってはいけない人なんだろうなと思う。そこは翼も同じ考えらしい。幼い頃から父を怒らそうと考えた事は無かった。まぁ、その分母親に叱られて育ったが。
「そういえば、雅さんが桐生総一郎の娘さんが来るって騒いでいたよ。」
「あぁ…。母さんの趣味に付き合わされてた。ピンクのメイド服着てな。」
「ははは、雅さんらしいねぇ。」
「お帰りなさいませ、旦那様。おや、亨坊ちゃん、如何されました。」
渡瀬が出迎えに玄関まで来ると、父は颯爽と母さんのいるであろうリビングへと向かった。それを少し呆れた目線で見送って、渡瀬に今日は泊まる旨を伝えると心無しか嬉しそうな顔をした。
確か自分の部屋に携帯を置いてあったんじゃないかと思って、自室に向かおうとするとしゃがれた声が背後からかかった。
「亨じゃないか、久しぶりだな。」
「おじい様。元気そうで何よりですね。」
「お前…、その言葉使い止めろ。きーしょーいー!」
「…てめー、その口調の方がきしょいっつんだよ!」
祖母と違い、この家で口汚い事を言っても許されるのは祖父だけだと思う。と言っても、こんな口を利くのは俺しかいないが。
遠藤グループ総帥、遠藤愁清、御年79歳。
戦後の財閥解体を生き抜き、現代の遠藤グループの礎を築きあげた雄であると共に、今や伝説の域に達した経営の仏様…らしいが、俺からすれば、飄々としたお節介なクソジジイであることに変わりは無い。
経営に関する眼は確かで、今でも家に政財界のお偉いさんだとかが祖父の意見を聞きにやってくることがある。如何にも昭和を生き抜いたジジイの貫禄があるものの、祖母、珠緒の尻に完全に敷かれている。なまじ祖母がおっとりしているからそう見えないのだが、家にいれば否が応でもわかる。あの祖母の作った毛糸の残骸を見て、祖母を猫と称したものの、結局は首に巻いて出かけていたのを何回も見た事がある。誰が編んだのかわかりきっているからこそ何も言わなかったが、今となってはそれがよかったのか…。
「遂に見合いでもする気になったか。」
「見合いなんかしねぇって何回言わせれば気が済むんだ。あーぁ。遂にボケたか。全く。」
「なんじゃとー!珠緒ー!!亨が苛めるー!!!!」
「だからそれがキモイって言ってんだよ、ジジイ!!」
うふふふと笑いながら祖父を諌める祖母を見ながら、ようやく自室へと行けた。机の上に置かれている携帯を確認すると、何件か着信が入っていたが、メールで返信をしてリビングへと向かった。
「あれ、亨、帰ったんじゃなかったのか?」
「携帯忘れてな。面倒だから今日泊まる事にした。」
「ふーん、ま、いいけどね。久しぶりに全員揃ったねー。」
「それはいいけど…女の子の華がないわ…。ねえ、蒼偉さん。」
「どうしたの、いきなり。あぁ、桐生総一郎の娘さんね。どうだった?」
「可愛かったわー…。」
「そうなのかい?」
うっとりと頬を染めた母、雅をうんざりとした眼で眺めながら、そういえば桐生さんのモデルの件を思い出した。父と母は神崎の事に夢中だし、祖父と祖母もその話に入っている。母に知られると五月蝿いので、なるべく穏便に済むように翼に小さな声で聞いた。
「桐生さんから相談あったんだけど、一応お前にも聞いておくって言った以上、聞いておかなきゃなと思って。ちなみに俺は断ったんだけどな」
「桐生さんって秀人さんの方?うん?何、一体…。」
「『カサブランカ』のコレクションが年明けに開催されるの知ってるか?」
「うん、毎年同じ日だからね。それがどうかした?」
「モデルやらないかって誘われたんだが、お前やるか?」
露骨に嫌そうな顔をした翼を見て、「だよな」と苦笑した俺は桐生さんに断りの電話を入れなければいけないなと思ったのだが、さすがに耳聡い母が気付いた。
心無しかキラキラと目が輝いているように見える…。なぜだか堪らなく嫌な予感がするのは気のせいではないだろう。
「たす「嫌だね」まだ何も言ってないじゃなーい。」
「言いそうな事がわかるから嫌だって先手打っておかなきゃね。」
「もー…じゃあ、と「俺はもう断ってあるから無理」なんなの、この子達ったら!蒼偉さん、何とか言ってやってちょうだいな!」
「そんな事言ってもねー」と渋る父ではなく、祖母が母の味方をしたようだ。今まで祖父と話していた祖母は、くるりと身体の向きを変えて俺達に向き直った。柔らかい笑顔を浮かべたその顔を見て、母の時同様嫌な予感がしたは、俺だけではないと思う。
「私も見たいわー。」
「「………仕事がありますから。」」
「有休取りなさいな。」
「「駄目です。」」
「もう。面白みの無い子達ねぇ。せっかく、唯さんのご両親の結婚記念日だって言うのに。」
「「え…?」」
「あら、知らなかったの?と言っても、私達もさっきちらっとだけ唯さんの口から聞いたばかりなのだけれど。ねえ、雅さん?」
父に構って貰っていた母も、その事を思い出したのか身を乗り出して俺達に訴え始めた。
「そうよー。『カサブランカ』のコレクションって毎年同じ日でしょう?それって、唯ちゃんのご両親の結婚記念日だったんですって。何でも、桐生総一郎が唯ちゃんのお母さんのウェディングドレスを作ったんですってよ。あなた達、桐生総一郎に会ったんでしょ?何か言って無かった?」
「いいや…。」
「何も言って無かったよ…。」
「でも、自分の再婚した奥さんが亡き親友の奥様だったなんて…。因縁めいたものを感じるわー…。」
「それでも自身のブランドのコレクション日を毎年その日にしたのも凄いなぁ。どっちも彼にとって大切な人達だったんだろうね。」
父の言った言葉を反芻しながら翼の方を見ると、やはり同じ様な表情をした翼がそこにいた。
ようやく出ました。双子の父と祖父。
亨と親子仲、祖父との仲は悪くないです。
□遠藤蒼偉 57歳。
現遠藤グループの最高経営責任者(CEO)。翼、亨の双子の父であり、妻・雅を一直線に愛する愛妻家。妻を『雅さん』と呼ぶ。弟と妹がいるが、いずれも性格は似ていない。
母、珠緒の性格を受け継いだのかおっとりとした穏やかな性格をしているものの、双子からは怒らせると絶対怖いという認識を持たれている。
危険認識能力に長けているため、母・珠緒が作るバレンタインチョコの危険性を誰よりもわかっている。その為、仕事に託けてよく逃げる。
□遠藤愁清 79歳。
現遠藤グループ総帥。戦後の混乱期を乗り越え、尚且つ高度経済成長とバブルを乗り越えさせ、発展させ世界的企業に育て上げた経営の仏様と称された雄。現在は経営を息子・蒼偉に任せているものの、その伝説的な経営手腕を乞われて自宅に人を招いて経営術を披露している。
双子の祖父であると共に、蒼偉の父。妻は珠緒。警備を撒いて、市場巡りをするのが趣味。
早くひ孫の顔が見たいので孫二人に見合いを薦めて結婚を促しているが、運命絶対信者の妻によって阻まれている。