第五十七話
しつこく鳴る携帯をじっと見続けていると、出ない事に諦めたのかようやく着信が止まった。正直助かった。今お姉ちゃんと話をしても、絶対変な答えしか返せないと思う。とは言え、週二で訪ねてくるお姉ちゃんの事だ。それまでにはなんとかしないといけないだろう。忘れる事が出来なさそうだけど。
彰義さんがホテルに入ったのは間違いない。しかも、隣に乗ってたのはお姉ちゃんじゃなく、お姉ちゃんよりももっと大人しそうな人だった。あんなにラブラブだった二人に何があったのかはわからないけど、とにかくわかっているのはお姉ちゃんは浮気の類を嫌悪しているっていう事。パパとお姉ちゃん達のママが離婚したのも、彼女が浮気をしていたっていうのも原因の一端だったらしいし、それでなくとも先生の女癖の悪さに対する、あれだけの罵詈雑言を考えると…
修羅場だ。絶対に修羅場だ。
「…先生。お姉ちゃんね、ホイス・グレイシーが大好きなんです。」
「…は?」
「グレイシー一族最強の男、ホイス・グレイシーにマジ惚れで、あまりに好きすぎてグレイシー柔術習ったおかげで、お姉ちゃんはパパとお兄ちゃんを袖車絞めで失神寸前まで追い込んだ事があるんです。」
あれはすごかった。倒れてるお兄ちゃんはピクリとも動かず、パパは必死にタップして白旗上げてたけど、お姉ちゃんは力を緩める事が無かった。落ちる寸前お母さんが現場に遭遇、それで事なきを得たけど、それからは桐生家ではお姉ちゃん最強と言う私達だけの暗黙の了解が出来た。
それなのに…それなのに彰義さんが…あのひょろい、もやしっ子の彰義さんがお姉ちゃんに勝てるわけがない。
どうしよう、どうしよう。お姉ちゃんが怒り狂って、彰義さんに関節技かけるのかな。いや、絞め技かけてる画が浮かぶ。勿論加減無しで。ちょっと見たいとか思っちゃったけど、それはさすがに悪すぎる。
「なんだ、いきなりグレイシー一族とか。美奈がなんかしたのか?」
「…へ?…あ、いえ…何でもないです。何でも…」
「ふぅん…ところで、お前んとこのマンションの前に横付け出来ないんだが」
え?
言われた通り車止めの場所を見ると、トラックが道を塞いでいた。仕方ないから地下駐車場の場所を教えて、そっちに行ってもらった。
レイフのレストランに行く前に、先生の駐車料金月いくら?とかって聞いたけど、それはパパにも言えることで。うちは三台も駐車スペースを確保している。勿論パパ、お兄ちゃん、お姉ちゃん。お兄ちゃん達はパパに幾らか払ってるらしいけど、総額で幾らかなのか知らない。
ぼんやり考えながら、キュキュキュとタイヤの鳴る音が響く駐車場。
さて、明日はバイトだし早めに寝ようかな。あー…勉強もしなきゃ。せっかく先生に休日返上で教えてもらったんだし、再テストは落とせない。となると、少しだけおさらいしてから寝よう。
こうやって現実逃避したい。だって、今頭がぐちゃぐちゃでこんがらがっている。先生がお父さんの知り合いだったって言うだけでも衝撃的なのに、彰義さんの浮気現場を見てしまった。勉強もしなきゃいけない。もういっぱいいっぱいだ。
それなのに、現実って言うものは常に人の思惑なんかに構うわけがない。
「おい、あそこのエレベーターの前で下ろす…って…神崎、美奈がいるぞ。」
「え?」
「ほら、あのベンツ。美奈だろ?」
ベンツ…。確かにお姉ちゃんはベンツ乗ってる。でも、何でこんなにタイミングよく…ってさっきの電話ー!?
「え、うそ、なんで?」
「さぁな。美奈の隣に横付けするから待て。」
プァンとクラクションを鳴らしてお姉ちゃんに合図した先生は、言葉通りお姉ちゃんの横に車を停めた。
車から出て来たお姉ちゃんの手には相変わらずナイト用のリードが握られていて…って言う事は…
「ナイトー!!!!」
「わんっ!」
いっそいで先生の車を降りた。ナイトもお姉ちゃんの助手席に大人しく乗っていたのに、ドアを開けるやいなや飛び出してきたのをがっつりと受け止める。おぉ、この重量感。やっぱりナイト太ったよ!
がっしがっしとナイトと熱い包容をしていると、ほったらかしにしていたお姉ちゃんがガバッと覆い被さってきた。
「唯、あたしはー!?」
「あ、ごめんね。お姉ちゃん、どうしたの、いきなり?」
「またナイトを頼みたくてね。あたしこれからグアムで仕事なのよ。だから、一週間よろしくね。ついでに、今日泊めて?って言うのを電話で聞こうと思ったのに、唯ったら出ないんだもの。どうかした?」
「え」
「ところで、あたしの目端に写ってる男は幻よね。なんで唯がこいつの車に乗ってるの?駄目よぉ、いくらなんでも、教師だって最近じゃおかしな奴なんかザラだから。」
「おい、聞こえてるぞ…」
あ、先生忘れてた。
ナイトと一緒に先生の方を見ると、車の窓から上半身を乗り出しているようにして私達を見ていた。
お姉ちゃんを見るとあからさまに嫌そうな顔をしているし、先生は先生で微妙な顔で私達を見ている。そんな二人に挟まれた私とナイトはどうすればいいんだろうねーとお互いに首を傾げている状況。地下駐車場で。
幸いにも誰も通らないからいいものの、往来があったら邪魔なはず。ちょちょちょっと少しだけ移動して邪魔にならない場所に移ると、少しばかり大人しくなったナイトを側にお座りさせて、車にいる先生を見た。相変わらず無言のままお姉ちゃんと睨み合っている。
「あの、先生ありがとうございました。」
「いや、別に。じゃあな、ちゃんと復習しとけよ。」
「うわっ!先生っぽい!!いやー!!!!」
「先生だもん。お姉ちゃん少し黙っててね。」
そう言うとぎゅうぅぅっと抱き付いている力が強くなった。苦しい…。
「美奈、大事な妹が苦しそうだぞ。」
「うっさいわね。」
「……あ、そう。じゃあ親父さんにも宜しくな。」
「はい、わかりました。言っておきます。運転気をつけて下さいね。」
あぁと短く返事をした先生が走り去った後、お姉ちゃんが明るくエレベーターまで誘ったのはいいんだけど、彰義さんの事、どうしよう。
「唯?どうかした?」
「えっ!?ううん、何でもないよ!それより、お姉ちゃんグアム行くの?」
「そうよー。何かお土産欲しいものある?」
ないよと返事を返すと、口を尖らせて猛抗議してきた。いっぱい買ってきてーって言われる方がいいんだそうだ。
「そう言えば、パパも明日からN.Yだって言ってたよ。相変わらず忙しいね。」
「そうらしいわね。お兄ちゃんも明後日から一週間香港だって言ってたわよ。だからナイト預けに来たの。ねー、ナイト?」
「わんっ!」
あ、大丈夫そう。だったらこういう感じに話を持っていかなきゃ。それに、先生の車で送ってもらったことも言っておかなきゃ。変な勘違いされたら先生に迷惑かけるしね。
「そう言えばね、今日レイフに会って来たよ。ご飯も食べてきた。」
「嘘、レイフ来日してたの?いいなぁ、あたしも行きたかったなー。呼んでくれたら行ったのに。何、パパと行ったの?」
「そうそう。あとね、先生とお兄さん、翼さんっていうんだけどね。お父さんの知り合いだったの。お母さんも知ってて、私がお母さんのお腹の中にいるときも知ってた。一歳になるまで遊んでもらってたらしいよ。」
「えー!?なにそれー!?」
今日あった事を話して、くすくす笑いながら部屋まで着くと、いろいろ聞きたいけど明日は早いからって言うことで、お姉ちゃんはシャワーを浴びて少ししてから寝てしまった。
私はと言うと、お姉ちゃんがシャワーを浴びている間に、お姉ちゃんの分の朝食の準備をしてから少しナイトと遊びつつ、今日の復習がてら勉強。いつしか時間も遅くなってきていたので、私もシャワーを浴びてから濡れた髪を乾かしている時に、ふと思い出したのは彰義さんの事。何時までも隠し通せるわけがないし、嘘を付いてまで彰義さんを守るつもりもない。それでも、お姉ちゃんが傷付くのは嫌だし、泣かないお姉ちゃんが泣くのかと思うと辛い。
ふわふわと温風で髪が舞う中でどうすればいいんだろうと考えこんでいる内に、知らず知らず足が書斎に向いていた。
お父さんの写真を手にとって、じっと見る。
私がお母さんのお腹にいた頃を知っている先生と翼さん。私が覚えていないお父さんとの思い出がある二人。
つくづく不思議な縁だなと思う。お兄ちゃんの後輩だったし、パパの仕事相手でもあった。いろいろと張り巡らされた糸みたいな物があるのだとすれば、私は一体どこにいるのだろう。
「ねぇお父さん、どうすればいいのかなぁ。もしもお父さんだったらどうする?」
私一人が呟いた言葉を、側に寝そべっていたナイトだけが聞いていた。
ホイス・グレイシーのファンの方、間違ってたらすみません…。