第五十六話
パパに何か言われたのか、顔が真っ赤な先生を気にしながらレイフと話していると、そろそろ帰ろうかと翼さんが声をかけてきた。先生は大丈夫かなと気にしたけれども、なんとか持ち直したようだ。一体何を言われたんだろう。一応は翼さんに聞いてみたけど苦笑してはぐらかされてしまった。
レイフに美味しかったよとお礼を言って、ぎゅーっとハグをして、ほっぺにちゅーして別れた。今度はイタリアにおいでって言われたけど、学生が簡単に行けるもんじゃないよ、レイフ。まぁ、お兄ちゃんに言えば連れて行ってくれそうだけど、ご飯を食べる為だけにそんなワガママは言ってられない。
そんな事を考えていると、翼さんが先生となんだか言っているようだったけど、私が関係なさそうな話だったので聞かないで、あえて車の外の景色を見ていた。
久しぶりに叔母さん達の事を思い出す。叔母さんにはあまりいい想い出はないけれど、お父さんのお姉ちゃんはそれなりに優しかった。ただそれはお母さんが居なかった時に限られていたけども。
神崎のお墓ももう何年も行っていない。お父さんの法事にも。行きたいと思うし、お線香の一本でもいいから上げさせて欲しいと頼んでも、やはり許可は出なかった。悲しいと思うよりも、単純に寂しかった。
だからお母さんは、お父さんの遺品と写真を飾っていた。それが遺影や位牌代わりである事にはもう慣れた。
それに、会った事のないお祖父ちゃんお祖母ちゃんの命日が私の誕生日だったこともあって、私は自分の誕生日があまり好きではない。自分の誕生日を祝うために訪米した二人が死に、それにお父さんまで亡くなってしまったという事実が、私の誕生日に対する価値観を決定付けた。
お母さんも私のせいではないと言ってくれたが、その重荷は生涯消える事はないのだろうと思う。
それに、知っているのだ。私の誕生日を祝ってくれて興奮した私が寝静まった後に、お母さんがお父さんの写真の前で一人で泣いていた事に。お母さんからお父さんを奪ってしまった罪悪感と、神崎の家から拒絶されてしまった痛みは未だに癒える事がない。
そんな事を考えていると、いつの間にか遠藤家のやっぱり大きい屋敷の前で車が停まった。
あ、そうか、翼さんを降ろしてから私のマンションまで送ってくれるんだっけ。わざわざ悪いなぁ…。しかもこれから先生と二人きりだし。それにさっき怒らせてしまった事もある。
有紗先生と喧嘩でもしたのかな…。あんなに否定するっていう事は、付き合ってないのかもしれないし。いや、でもキス現場見たしなぁ…。しかも、あの時先生が乗ってた車ってコレなんだよねぇ…。
そう、今私が乗っているこの外車がそのキス現場(現車?)だ。流石に助手席に乗る事は出来ない。だってそこは彼女席だし。お嬢様か!と言われようが後部座席から助手席に移動する気なんてサラサラ無かった。
ようやく長い庭?も抜けて車止めらしい前まで来ると、翼さんが降りて私のいる後部座席までわざわざ回ってきてくれて、おやすみと言ってくれた。
「じゃあ、唯、またね。」
「また…の機会があるかわかりませんけど、さようなら。」
そうやってにっこりと笑っておいたのだけど、何故か翼さんが動こうとしない。じーーーっと見られているのは何で?首を傾げて、何ですか?と疑問を口に出して見ると意外にも翼さんは笑った。
「あぁ、ごめんごめん、ハグしてくれないのかなと思って。桐生さんにもガネッティにもしてたのに、僕にはないのかなーって思ったんだよね。」
「…して欲しいんですか?」
「そりゃあねぇ。はい、唯、おいでー♪」
「おい、翼…本気か、お前。」
運転席から呆れたような声が聞こえたけど、まあハグならいいやと思い、後部座席のドアを開けた。
暖かい車内と違い、外はやっぱり寒い。うぅ…寒い…と首を竦めながら、翼さんに抱きついた。やっぱり人肌は暖かいなーと思いながら、コアラのように抱き付いていると、後ろからキャー!!と言う声が聞こえたような気がした。
「あ、あっち見ちゃ駄目だよ。ほらほら、寒いからね、早く車乗って。じゃあねー、気を付けて帰ってね。亨、安全運転でな」
「…お前…はぁー…まぁいい。父さん達にもよろしく言っておいてくれ。じゃあ後は頑張れよ。」
「ん?あれ、もういいんですか?じゃあ、翼さん、おやすみなさい。」
「うん、おやすみー。」
ひらひらと手を振って見送ってくれる翼さんを残して、遠藤邸を後にした。
車内は…何て言うか、ビミョーな空気が流れていて、そのビミョーな空気を壊さないように、壊さないように…
「おい。」
「げ!」
「げって何だ、げって。お前、大概失礼な奴だよな。」
先生の言葉にムッとしたけど、思っていた事が声に出てしまったんだから仕方がない。せっかく空気を壊さないようにしていたのに…と内心嘆息していると、バックミラー越しに目があった。
「お前、祥子さんの墓参り行くのに都合のいい日あるか?」
「え?あー…っと…ちょっと待ってくださいね。」
そう言って携帯のスケジュール帳を開いて、バイトのある日を確認する。やっぱり休日の方がいいだろうし、それにお墓参りだったら早めに行った方がいいのかもしれない。とりあえず年内だよねと思い、カチカチと確認し、十二月の第二日曜日はどうだろうと思って聞いてみた。
「この日はどうですか?ちょうど冬休みの前だから…あ、逆に先生方って忙しいですよねー。」
「いや、そうでもないだろ…わかった。第二日曜日な。空けておく。」
「すみません、クリスマス前の忙しい最中に…。」
心の中で有紗先生にも謝ろうとして、また自分の失言に気が付いた。
途端に無言になった先生の不機嫌オーラが車内を包んで、またいたたまれない気分になってしまった。
無言の空気が痛い。痛すぎる。早く着け~早く着け~と念仏の様に唱えていると、前方を曲がった車に見覚えがあって、思わず運転手と助手席に座っている人を見ると、車はこちらに気付く事無く、そのまま手前の建物の駐車場へと消えて行った。
「ねえ、先生…そこの建物って…」
「あ?どれだ…って、ラブホだろ。なんだ、冗談でも入りたいとか言うなよ。」
「…言いませんよ…」
自分の目が信じられずに、車の中からもう一度建物を仰ぎ見て、自分でも血の気が引いていくのがわかった。
その時携帯へ着信があり、表示された名前に内心震えた。
「…出ないのか?」
「………」
「おい、どうした?」
先生が何か言ってるけど、聞こえなかった。
相変わらず手の中の携帯は軽快に音を鳴らしていて、私が出るのを待っている。
表示はお姉ちゃん。
だけど、何を言えばいいのかわからない。
――お姉ちゃん、彰義さんが浮気してるの知ってた?――
そんな事は絶対に聞けない。