第54話
聞いていた以上の溺愛ぶりに、初めはどうなるものかと冷や冷やしていたが、意外にも食事の時は普通だった。ガネッティはシェフに徹するらしい。三ツ星シェフが作る美味いイタリアンに舌包みをうって、有意義な会話。桐生総一郎も案外気さくな人柄のようだ。そう思っていた。
今の今までは。
「唯、ブロッコリー食え。」
「やだ」
「唯、口開けろ」
「やーだー!!!!」
親が聞き分けのない子供を言い聞かせるようにしているのはいいが、その様子が凄い。わざわざ口までブロッコリーを運んで食わせようとしている。それを必死に拒絶しているのは、誰あろう神崎だ。そっぽを向こうとした顔が顎をガシッと掴まれ、ブロッコリーが目の前にスタンバイ。食え、嫌だの攻防がさっきからずっと続いていて、完全に俺達を忘れている。
なんか昔もこんな事あったような…。
「昔もミルク飲むの嫌がった時、千歳先生こうだったよな。」
「ああ。ガンとして飲まなかったな。」
懐かしい光景を思い出した。初めての子育ての千歳先生と祥子さんは、悪戦苦闘しながら一日一日唯を育てていた。たまにミルクを飲ませるのを手伝ったりしてみたけれど、唯は機嫌が悪い時なんか絶対飲まなかった。仕方なく祥子さんに渡すと不思議と飲むから、それを見てムキになって、もう一度飲ませようとすると、唯はべぇぇと吐いた。ブロッコリーは単純に嫌いなんだろうが、そんなところは成長していない。
「あー、もう、食べないったら!!」
「身体にいいんだぞ、ブロッコリー。」
「じゃあパパが食べればいいじゃない。ほら、中年だし、野菜生活、野菜生活。ね?」
その中年はにこーっと笑った。それはそれは魅力的な。そして背後が真っ黒な。
ひくっと引きつった俺と翼は、思わず姿勢を正していた。
「おっと、悪いな。このバカ娘がブロッコリー食わないから、千歳の話出来なくて。」
「「いえ…」」
そう言うしかない。実際、ブロッコリー問題が噴出するまでは和やかに千歳先生の話も聞けたし、祥子さんの事もぽつぽつと教えてくれていた。
それにしても、千歳先生と桐生総一郎が幼馴染だったという話は驚いた。しかも家が近かったらしく、小さな時から一緒になって遊んでいたらしい。千歳先生の実家は老舗の和菓子屋で、本来ならば跡を継いでもおかしくなかったのに、それを先生の両親は医者の道に進む事を承諾してくれたようだ。何故かその話になった時話に入って来なかった神崎は、食べないブロッコリーをフォークで行儀悪くつんつん突いていたのを、桐生総一郎に見つかって今に至る。
「亨が日本史の教師になったのって、千歳の影響か?」
「え?」
「千歳は歴史が好きだったからな。特に日本史。それなのに、娘にはその脳みそが受け継がれなかった。残念だなー、唯。」
「うるさいよ!」
なおもブロッコリーとにらめっこしている神崎を他所に、まさか桐生総一郎からそんな話が出ると思わなかった。確かに千歳先生の影響は受けた。医者の道も考えてなかったわけではない。しかし、俺が生と死に向き合って、それに携われるような人間ではない事がわかってから、その考えは打ち消した。そして次に選んだのが教師の道だった。それも日本史の。
昔遊びに行った時、先生は城について熱心に教えてくれて、いろいろな時代小説を貸してくれた。主に戦国時代の比率が多かったが、それでも千歳先生のレクチャーが面白かったおかげで、俺自身も歴史に興味を持つようになった。今でこそ歴女だなんだと言うけれど、俺は結構年季が入っていると思う。
俺が教師になると言った時、両親はわかってくれたし、祖母も了承してくれた。しかし、グループ総帥である祖父はあまりいい顔をしなかった。祖父が俺に目を掛けてくれていたのは知っていたが、俺はあえてその道を選ばなかった。それに、遠藤グループの後継者は翼だと決まっている。かと言って、翼一人が背負いきれるものでもないし、そこで俺は祖父と一つ賭けをした。その賭けは今も続行中だ。
「あぁ、パパが修学旅行でナンパしたってお父さんにバラされて大変だった…いったー!!」
「だからあれは千歳のせいだって言っただろ!」
デコピンをされた神崎を見ながら、話題を祥子さんに移した。と言っても、まだ亡くなって一年しか経っていない事を考えると、あまり聞くのも失礼だろう。そう思って少しづつ聞いていると、やはり話の中心は何故桐生総一郎と再婚したかと言うことだ。この話題は神崎も身を乗り出してきた。どうやら詳しく知らないらしい。いつもはぐらかされるとぼやいていたから。
「内緒だ、内緒。そうベラベラ話すもんでもないしな」
そう言って笑った顔が何故だか悲しそうに見えたのは気のせいだろうか。
だが、翼がお墓参りしたいと言うとその表情は消えた。しかし、千歳先生と祥子さんの墓が別々な事実には驚いた。
「お父さんは神崎のお墓に入ってますよ。お母さんは違います。墓地も違いますし。」
「墓地まで?」
何故だ?
あんなに先生と祥子さんは仲睦まじかったのに、何故墓はおろか墓所まで違う。あぁ、そうか。再婚したからか?翼も同じ疑問が浮かんだのだろう。俺達の顔を見た桐生総一郎が苦笑して、神崎にキッチンにいるガネッティとデザートを作ってこいと席を外させた。神崎も特に文句は言わず、真っ直ぐキッチンに入っていくのを見送って、桐生総一郎が口を開いた。
「墓参りか…。どっちにも行っていいが、千歳の墓は少しわかりづらい場所にあるんだよなー…案内してやれればいいんだが、あいにく俺はコレクションがあるから忙しくてな。」
「唯が行けばいいんじゃなんですか?あ、男と一緒だから駄目とかですか?」
「ははっ、そんな簡単な事…簡単じゃないが…ま、それもあるが。」
あるのか。まぁ、今まで見てきた光景を考えればさもありなん。翼が言った理由を違うと答えた桐生総一郎は、グラスに入った水を一口飲んで一息置いて、神崎が行けない理由を話した。
「唯は神崎の家から反対されてるんだ、千歳の墓に近づくなってな。」
「え…?」
「そもそも唯が今、神崎の姓を名乗ってるのを知らないからいいものの、知ってたら絶対に使わせないだろう。」
「嫌われてるって事ですか?」
「嫌われてる。まぁ…そうなんだろうな。千歳には姉と妹がいるんだが、特に妹が、両親が亡くなる原因にもなったアメリカ行きを企画した祥子を許せなかったらしくてな。特に俺と再婚してからは、千歳を裏切ったと思ったんだろう。その許せない対象に唯も加わった。だから唯は身内の中で肩身が狭いんだよ。法事にも出させてもらえなくてな。」
あまり詳しく聞くのも失礼なのだが、いまいち納得出来ない。神崎が肩身の狭い思いをしてるのはわかった。だが何故、祥子さんと神崎を恨むんだ?
「…事故が起きたのは七月でな。」
「七月…七月って確か唯の誕生日…」
「そう。唯の二歳の誕生日に日本にいる両親を招いて、なかなか会えない孫娘を祝ってもらおうと企画したのが祥子だった。そして喜んで賛成してくれた千歳の両親は、事故で即死。千歳も一週間後に死んだ。唯の叔母はなかなか親離れ出来ない奴でな。それに千歳も相当慕ってた。なのに一気に奪われたんだ、誰かを恨みたくなるのも当然だろう。ただ、その矛先が祥子だったんだ。千歳が死んでも、唯と暮らして行けるぐらいの共有財産やら千歳の保険金はあったんだが、千歳の遺骸は日本にある神崎の墓に埋葬された。両親共々な。祥子は葬儀には出たものの、日本で執り行われたからな。知り合いもいなければ、顔見知りもいない中での葬儀は辛かっただろう。ましてや千歳を亡くしたばかりだったからな。」
「…そうですか…」
「唯は千歳の娘だからそれなりに扱われてたんだが、祥子が俺と再婚するって決めた時、二人とももう神崎とは縁を切るって言われたんだよ。もう墓にも来るなってな。」
「そんな。」
いくらなんでも、姪だろう。あんまりじゃないか?
「唯の従兄弟共も親から言われてるらしくて、唯も遠慮して近寄ろうともしない。まあ、今となってはそれで良かったのかもしれないが。」
どこか遠くを見ているような目で、神崎がいるキッチンの方を見ていた桐生総一郎は再び俺達の方へ視線を戻すと、苦笑してまたグラスに手を伸ばした。
「喋り過ぎたな。ま、千歳と祥子を知ってるならいいか。だから、唯は千歳の墓には行けないんだが…どうする?場所は教えてやるが…」
「ええ、教えて下さい。自分達で場所は何とかしますんで。」
こんな事を聞いて、さすがに神崎に案内させるわけには行かない。もしも親類に鉢合わせでもして、またあんな泣きそうな顔を見るのは正直堪える。
翼もうんうんと頷いている所を見ると、どうやら同じ考えらしい。短い間に随分距離が縮んだものだ。満足そうに笑んだ桐生総一郎は先ほどまでの寂しげな雰囲気から、再び和やかな雰囲気に戻っていた。
「そうか。祥子の墓の場所も教えてやるよ。そこは唯に連れて行ってもらえばいい。」
「いいんですか?さっき…」
「唯に変な気起こしたら、俺が墓に埋めてやるから安心しとけ。」
冗談だけどな。とにっこりと笑ったのだが、全く目が笑っていない。俺は大蛇に睨まれたカエルの様に、背中にだらだらと変な汗が流れているのがなんとなくわかった。
夫婦間相続の事とか、死後のお墓問題とか間違っているかもしれませんが、あくまでもフィクションという事で…。