第46話
予定より早い時間に実家に着くと、出迎えた渡瀬がやけに上機嫌で驚いた。
我が家の執事は、父が生まれる前から仕えているらしく、まさに家の事を知り尽くしている。
小さい頃はよく、爺、爺と言って困らせたものなので、その影響からか、未だに俺や翼の事を『坊ちゃん』扱いするので、少し困る。
「おはようございます、亨坊ちゃん。大奥様と奥様は、唯様を連れて奥様の自室にいらっしゃいます。」
「おはよう、渡瀬。…神崎は早速、母さんに捕まったのか…。」
「左様でございます。」
…案の定だ。
何やら耳を澄ませば、キャーキャーと母のはしゃぐ声が聞こえてきて、思わず眉間に力が入る。
それを見て、渡瀬がくすくすと笑っているので、溜め息を一つ付いた。
するとそれを聞いた渡瀬が、どこか関心したように口を開いた。
「唯様はとてもお可愛らしいお嬢さんでいらっしゃいますね。私や後藤に対して敬語は不要だと仰いましたよ。『神崎様』と言うのも止めてくれと。」
「ああ、まあそうだろうな。」
そりゃあ単なる高校生だしな。
桐生総一郎の義理の娘って言ったって日常を見る限り、ワガママに育てられている感じもないし。
あのシスコン兄妹にベタベタに甘やかされていそうなのに、あそこまで素直に育ったのは、奇跡だ。
きっと亡くなったという神崎の母親がしっかりとした人だったんだろう。
「それも踏まえ、私も後藤もその他の使用人共々、最早、唯様の愛らしさにメロメロでございます!!」
…
は?
怪訝な顔をした俺を見ていた渡瀬は、素早く俺の背後に回り、背を押し始めた。
何だと思い後ろを振り返るも、ニコニコと笑う渡瀬が直も背を押し、先を促す。
「さあ、亨坊ちゃん、唯様がお待ちでございますよ。お早く行って差し上げて下さいまし!この渡瀬、唯様のお可愛らしい姿を保証いたします!!」
耄碌したか、渡瀬…!
だがよくよく見ると、そこにいたメイドまでもがうんうんと頷いているのを見て、これは駄目だ、本気だと確信した。
母の毒牙がここまで…。
しょうがないので言われた通り、『魔のピンクの間』に足を運ぶと、開け放たれたドアの向こうにいたのは、ピンクのメイドだった。
いや、正確に言うと、ピンクのフリッフリのメイド服と、ブリッブリのフリルがたっぷりのエプロンを付けた神崎だ。
俺に気が付いた神崎は、軽く狼狽えたが、そこにそもそもの元凶である母、雅と、その母とノリノリで神崎で遊ぶ祖母、珠緒の姿が見えたので、軽くキレた。
遊ぶつもりだったら帰るぞと言うと、慌てた神崎が着替えようとしたのだが、まだ遊び足りない母がゴネた。人形遊びが好きな母の事だ。このまま黙ってると、一日が呆気なく潰れる。つか、潰される。
ふと思い立ち、携帯のカメラを使ってメイド姿の神崎を撮った。これを桐生さんに送ってやろうか…。
この写真を桐生さんに送ると、すぐさま俺に電話がかかってくるだろう。それもすごい勢いで。
その光景が、他人の俺ですら手に取るようにわかるのに、そこは義妹。自分の義兄の性格はわかっているらしい。
心持ち青くなった神崎が母達を追い払い、ようやく着替えてくれるようになったので、またはーっと溜め息を付いた。
何だか朝から疲れるな…と既に帰りたくなった。
とりあえず、着替えている神崎を待つためにリビングでお茶を飲んでいて、ふと携帯で撮った写真を何気なしに見ていたら、覗き込んできた母がニヤリと笑ったのを見て、少しばかり顔が引きつった。
何時も、この顔をした母がする次の行動が読めない。祖母は我関せずで、のほほんとお茶を楽しんでいるので当てにはならない。
一触即発の雰囲気の中、ようやく神崎が現れ、その時にはもう母の興味は神崎しか無いので、ある意味助かった。
しかし、変則で仕掛ける母に、簡単には油断をする事が出来ないのだが。
話題は何時の間にか、神崎が着ている服の話になっていた。黙って話を聞いていると、どうやら自分で編んだらしい。
自分は体が小さいからすぐ編めると言っているのだが、どう見ても売っているものと遜色がないそのカーディガン。やはり器用だなと関心していると、母が自分にも編んでとねだった瞬間、神崎の目が変わった。
他人に編むのが苦手だと言って断る彼女に、不思議そうな顔をしている母と祖母。
苦笑しながら俯く神崎は手持ち無沙汰を隠すかの様に、手に持ったカップをいじっていた。
この前の様に機嫌が急降下し、怒りこそしなかったが…
なんでそんなに泣きそうな顔をしてる?
俺より年下の、それも教え子の中にはそんな風に笑う子はいない。それほど彼女は、年に似合わない笑い方をする。
何を抱えているのかはわからないが、この話題は美奈の言っていたとおり、神崎の地雷なのだろうなと思った。
辛そうに笑う彼女をそれ以上見たくなくて、話を断ち切って勉強をさせようと立ち上がって、神崎を促す。
当初はリビングでしようと思ったが、ここじゃ先程までの雰囲気もあり、幾分空気が悪い。
それに、母も祖母もいるので気が散るだろうと思い、自分の部屋でやろうと連れて行こうとしたら、母が余計な一言をくれたので、怒鳴っておいた。
その時にはもう、あの悲しそうな顔をしていなかったので、内心ほっとして部屋に神崎を押し込んだ。
ただ、もうあの顔はもう見たくないなと頭の片隅でぼんやり考えていた。