第44話
有紗と別れてからテストがあったお陰で、あれからは廊下ですれ違う位で何の接触を持っていない。あっちは何か言いたそうな顔だったが、無視しておいた。
今更何を話すような事でもないし、あいつが見ているのは今も昔も翼だけだ。その事を俺にはっきり言われた事で自覚すればいいのだが。
「…24点って…」
ていうか、有紗の事なんか考えてられなかった。
昨日今日と行われたテストの採点をさっさとしてしまおうと、まずは一年の分を取り出した。俺は一年と三年の中高入学組を受け持っている。そのために、テストもあと一日を残して俺は既に暇なわけだ。まぁ、採点が残っているが、それも今からやればテスト終わりの次の日にはテストを返せる。片付けるのは早いに越したことはない。
さすがに期末試験なだけあって範囲は広い為、点数も余り伸びてはいない。
神崎のクラスは高校入学組だが、日本史、世界史、地理の社会は選択の為、中学入学組と混合クラスだ。
一年で日本史を選択しているのは、持ち上がりを含めて合計三クラス。たった三クラスだが、そこそこの奴らが集まっているので、赤点も少なく補習もまだ行われていない。
それなのに、24点を取った神崎。ぶっちぎりで最低点数を獲得したこいつに、点数を出した瞬間、思わず頭を抱えてしまった。
おい、これどうするよ…。
これじゃあ再試も怪しいもんだろ…。
補習の担当は俺ではなく、もう一人いる持ち上がり組を担当している日本史教師なのだが、このクソジジイは如何せん底意地っつーものが悪い。
ネチネチ嫌みを言われた後、『若い先生はいいですねぇ、時間が沢山あって。空いた時間何してるんですか全く私にはわかりませんなぁ』と軽くセクハラじみた言動を繰り返すおかげで、教員連中…とりわけ若い教員からすこぶる評判が悪い。
しかも自分が、さも仕事をしています的な雰囲気を出しているのが癪に障る。実際の仕事量は俺の半分にも満たないくせに、あのクソジジイ。
実際、あまりの仕事量の少なさから、理事長から目を付けられているという事は本人だけが知らない事実だ。
救いの無い事に生徒からの人気もあまりよくないようで、あからさまに嫌っている子達も多数いる。男女学年問わず嫌われたクソジジイを微々たる程度にだけ気の毒には思うが、俺は全てを許容出来る程広い心の持ち主ではない。
とりあえず再試をなんとかすれば補習はないのだが、この点数と解答を見る限り、はっきり言って難しいかもしれない。
放課後を潰すか、冬休みを潰すか…補習を受けるとしたらどっちかなんだが、冬休みを潰すとなると桐生さんや美奈がうるさそうだ。と言うか、絶対文句を言いそうだ。
何せ補習授業はクリスマスにも行われる。神崎に彼氏がいないのはわかってはいるが、あのシスコン兄妹が義妹の為には自身のクリスマスをも放棄しそうな勢いだから、絶対に補習は避けさせてあげたい。
これはどうしたものかと悩んだが、結局は本人次第なんだよな、こういうのって…と思い直した。追試と言っても、問題は期末の問題をそのまま出題するので、死に物狂いでやればなんとかなるだろう。
…多分。
一息つこうとコーヒーを煎れて、再びデスクの前に戻ったら携帯が鳴っていた。時間を見ると、22時。こんな時間に一体誰だと思って、表示を見ると桐生さんだった。
あまりのタイミングの良さに少し笑ってから電話に出た。
「もしもし。」
『あ、亨?僕だけど、今大丈夫?』
「はい、大丈夫ですけど、どうかしました?」
『悪いな、こんな時間に。あのさー、少し頼みがあるんだけど、聞いてもらえないかな。』
頼み?なんか、嫌な予感がするのは気のせいか?
「内容にもよります。」
『おっ、じゃあ内容によってはいいんだな?』
「だから内容によります。合コンの数合わせとかマジでやめて下さいよ。桐生さんだったら合コン行かなくても間に合ってるでしょう。」
『ははっ、合コンじゃないって。大体合コンなんて行ったことないし。…と言ってもまぁ、当たらずとも遠からずってところかな…。』
「じゃあ嫌です、お断りします。ていうか、桐生さん合コン行ったことないんですか?」
『だって零からお前は来るなって言われてたから行ったことないよ。って、おい、待て待て!断るのが早いぞ。実は、年明けてからすぐに『カサブランカ』のコレクションがあるんだが、その男性モデルが一人足りないんだよ。お願い亨、頼まれてくれないか?』
げ。
なんだって、そんな面倒な事を頼もうとするんだ、この人は。そもそも俺はモデルじゃないし、『カサブランカ』のコレクションと言えば、あの母親と祖母も毎年観に行ってる。なのに、モデルなんか絶対嫌だ。煩いに決まってる。
「嫌です、お断りします。すみません、絶対無理です。」
『たーのーむっ!!!!僕がこんなに頼んでも無理って言うわけ?』
「嫌ですよ、マジで。大体、『カサブランカ』ってレディースだけじゃなかったでしたっけ?なんで男のモデルが必要なんですか。メンズの服出すんですか?」
『あぁ、メンズラインのモデルじゃなく、エスコート役っていうかな。あくまでも『カサブランカ』はレディースラインだけなんだけど、今回はランウェイ歩いて行く時に男のモデルがエスコートする事になったんだよ。』
「へぇ…。て言うか、まだコレクションの内容って秘密なんじゃないんですか?桐生さん。」
『あぁ、ここまで聞いて嫌だとは言わせない作戦だ。亨、出ろ。』
「嫌です。用件それだけだったら切りますよ。俺、まだテストの採点が残ってるんです。」
直も食い下がろうとした桐生さんだったが、テストと聞いて少し大人しくなった。どうせ、義妹の事でも考えてるんだろうな、このシスコンは…。
『…お前、今なんか失礼な事考えてないか?』
「いや?どうせ、義妹の事を考えてるんだろうなと思っただけですよ。当たりでしょう?」
『…ちっ…お前、本当に嫌な奴だな。じゃあ、唯の点数は?赤点取って無いよな?』
舌打ちまでした桐生さんに苦笑しながら、この点数は言ってもいいのだろうかと一抹の不安を抱いた。この点数の悪さ、前回の非じゃないぞ。しかも、案じている通り赤点だし…。
俺が黙ったので、大体は察したのだろう。桐生さんは、少しだけ暗い声で「赤点なんだな」とボソリと呟いた。
『…何点なんだ…?』
「24点です。」
『にじゅ…っ!……そうか…唯…父さんに雷落とされるな…可哀想に…。』
俺としては、可哀相なのは神崎の頭だと思ったが、流石に言うのは憚られるので止めておいた。
年号は適当、人物は正体不明の奴ばかり、説明問題は最早問題の意味を成してはいなかった。いっそのこと採点をしないでそのまま返そうかと思った位だ。
「桐生さん、『鉄砲』『設楽ヶ原』『織田信長』『武田勝頼』使って長篠の戦いを説明出来ます?」
『うわっ、なにそれ、懐かしい!えーっと?あれだろ?『織田信長が設楽ヶ原において、鉄砲を用いて武田勝頼率いる武田軍を退けた』ってやつ。』
「神崎は『織田信長と武田勝頼が設楽ヶ原で鉄砲の練習をした』って答えたんです。」
『…随分とざっくりした答えな上に、なんか間違ってるな…。』
真面目に書いてるのが哀愁を誘う。
基本的に神崎の答案には空欄がない。空欄が無いのはいいことだが、数を撃っても当たらないときは当たらないもので、ほぼ完璧に間違えている。はっきり言って、24点でも取れた方だと思う。
「神崎は再試があるので、桐生さんもちゃんと言っておいて下さいよ。ちゃんと日本史理解しろって。」
『再試…。じゃあ再試が良かったら補習は無しなのか?』
「そう言う事です。補習は放課後か冬休み返上ですから。」
『冬休み返上とかって最悪だな。僕が唯といる時間が無くなるじゃないか。』
端から聞けば、彼氏の様なセリフに軽く呆れて、次いで悠生の事を更に哀れに思った。
俺だったらこんなシスコン兄がもれなく付いてくる彼女なんて、絶対にお断りだ。しかも兄だけじゃないし…。
『お前、また失礼な事考えてるだろ。』
「気のせいですよ。じゃあ切りますよ、いいですか。」
『ちっ、ムカつく。あんなに可愛い唯の事考えて何が悪いんだ、全く。ていうか、やっぱりモデルの件は考えて直す気にはならないか?』
「しつこいですね、嫌ですって。なんだったら翼に話してみましょうか?まぁあいつも嫌だって言いそうですけど。大体、俺らに頼む位だったら、桐生さんがやったらいいじゃないですか。一時期だけとは言え、やってたじゃないですか。ねぇ、『広告界の伝説』。」
『ははっ…古い話を持ち出すねぇ、お前は。まああれは、唯におねだりされて受けてみたら受かっただけだし、受けるって決まったからには本気出さないとね。そしたらいつの間にかあんな事になっただけなんだけどさ。だから、僕がモデルをやる事は無いよ。』
神崎からおねだりって…。そんな昔からシスコンだったのか…。
しかもそれが今や『広告界の伝説』とまで言わしめる逸話になっているとは…。いやはや、シスコンもここまで行くとすごいな。
『亨…お前失礼すぎるぞ。』
「何でもないです。じゃあとりあえず翼に聞いてみますよ。ま、十中八九断られると思いますがね。」
『ああ、頼むな。じゃあな。』
そう言って電話が切られ、ふと笑った後、俺は冷めたコーヒーを飲みながら残ったテストの採点を再開した。
唯の学校は、一学年8クラス。
うち、2クラスが中学入学組、3クラスが高校入学組、残り3クラスが持ち上がり組となります。
中高入学組は試験を受けて進学して来たのに対して、持ち上がりは理事長と3人の教師との面接と小論文だけ。
あくまでも隔たりは無いものの、授業の内容には若干差があります。