第三十七話
ハグの嵐が通り過ぎ、ようやくパパ達が平静を取り戻してくれた。
となると、やっぱり言われるのは…
「唯、再テスト頑張ってね。」
「お兄ちゃん、何で知ってるの…って先生…しかいないよね。」
「うん、亨。」
にっこりと微笑まれたら、もはや逃げ場はない。
パパは既に腕を組んで考えこんでるし、お姉ちゃんに至っては、ナイトのご飯を用意しに行ってしまった。
「再テストでダメだったらどうなるんだ?」
「放課後が補習で潰れるか、冬休みが潰れるかのどっちかだって。私、放課後はバイトあるから補習受けられないし…冬休みって事になっちゃう。」
「じゃあ、クリスマスは日本にいるってことじゃないか!唯、補習受けよう?再テストは合格点取れなくていいからさ。いやー、桜のバイトも意外に役にたつなぁ。」
「…なんでそんなに嬉しそうなの、お兄ちゃん。ちょっと、見てよ、パパ……ひっ!!」
ギリギリとこちらを睨んでいるパパが怖くて、思わずお兄ちゃんにしがみついた。しがみつかれたお兄ちゃんも、あまりのパパの形相に顔色が変わっている。
そう、この視線が意味するものは…説教。
「バカか、秀人!!唯に再試も合格点取れないように勧めてどうする!!お前、クリスマス仕事だって何回言えばわかるんだ!!」
「なんで僕だけ!?父さんは唯連れてパリ行くって言ってるし、仕事入れなくてもいいじゃないか!」
「パリはともかく、仕事云々の文句は高橋に言え!お前のスケジュール管理はあいつだろ!だいたい、中途採用の高橋を秘書にしたのは秀人、お前だったな。」
そうなの?ぐっと詰まったお兄ちゃんを見て、首を傾げた。
高橋さんって、お兄ちゃんの高校時代からの友達だって聞いてる。確か大学だって同じだ。…って事は先生の事も知ってるのかな…。
「中途採用って…高橋さんって、新卒でパパの会社に入ったんじゃないの?」
「…零は元々、霞ヶ関の官僚だったんだよ。退官してうちに入った。」
思いがけない言葉にびっくりした。
「官僚?そうなんだ…。あれ、でも、何で私それ知らないの?」
「官僚って言っても、一年か二年で辞めたからね。あの頃は唯が小学生だったから、知らなくても無理ない。」
「へぇ…。何で辞めたのか、お兄ちゃん知ってるの?」
「まぁ、一応ね…。」
お兄ちゃんは珍しく言葉を濁して、顔を背けた。
きっと何かあったんだろう。でも、言いたく無いことを無理矢理聞いてはいけない。
それに、今、高橋さんはお兄ちゃんと一緒に仕事をしてて楽しそうだ。それでいい事にしちゃおう。
「そっか。じゃあクリスマスはお兄ちゃん仕事なのね。」
「ぐっ…!」
「唯、再試は何としても合格点…いや、満点を取れ!なんだったら、俺が教えて「パパは仕事あるでしょ!」」
「それに、先生が教えてくれるらしいから、頑張るよ。」
「バカ遠藤が?」
いつの間にか、ナイトのご飯を用意して戻ってきたお姉ちゃんが、むっつりした口調で『先生』という単語に食いついた。
しかし、お姉ちゃん…バカ遠藤って…。お兄ちゃんも苦笑するしかないのか、バカ遠藤ねぇと呟いている。
「うん、あのね。この前、バイト先でお客さんと仲良くなったんだけど、そのお客さんが先生のおばあちゃんだったの。」
「前に、飯連れて行ってもらったっていう、あれか?」
パパが思い出すかのように言ったので、頷いて、そうそうと言った。
お兄ちゃんはかなり驚いている様子だ。
天下の遠藤グループ総帥の奥様と知り合いなんだもん。そりゃ、驚くよね。
「唯、凄いね。遠藤グループ総帥の奥方とも仲良くなってるとは…。」
「遠藤グループ総帥の奥方って…そんな人に連れて行ってもらったのか。ちゃんとお礼言ったか?」
「言ったよ!!なんかね、訳わかんない内に料亭に連れて行かれたの。そしたらね、先生と先生のお兄さんが…」
「翼?翼にも会ったの?」
その名前を聞くと、パパがピクッと反応した。
「…たすく?遠藤翼か?」
「うん、そう言えば父さん、この前遠藤の会社と一緒に仕事したんじゃなかったっけ?」
「あぁ…遠藤企画開発部長な。若いのに部長って…と思ったけど意外にやるな、あれは。まだ少しだけ脇が甘いが…な。」
くすくす笑ってるパパを見て、お兄ちゃんは苦笑を、お姉ちゃんは不思議そうな顔をしている。
「バカ遠藤ってお兄さんいたの?」
「うん、双子なんだよー。」
「うそー!?あの顔がもう一人!?」
「こら、美奈。翼と亨に失礼だろ。だけど、最近唯の周りに遠藤の輪が広がってるね。」
「…唯、気をつけてね。バカ遠藤に何かされたら、あたしに言ってね。すぐに行くから。」
そう言いながら、お姉ちゃんは私の頭を撫でてくるので、思わず頷いてしまった。
別に何にもないと思うけどね。
「でね…土曜日、遠藤先生の実家に招かれて…」
「「「実家に招かれた?」」」
ハモった!
「う…うん。本当は珠緒さん…先生のおばあちゃんなんだけど、珠緒さんに編み物教えてたんだけど、それで招かれたの。そしたら、あ…赤点取っちゃったから、先生がそこで勉強見てくれるって。」
「編み物教えてるって、唯、お前…。」
相当驚いたのか、パパが前のめりになって私の顔を覗きこんだ。パパはお母さんから私が編まなくなった理由を知っているらしい。はっきりと言われた事はないけど、お母さんの事だ。きっと教えているはず。
「うん、教えてるだけ。バイト先で知り合ったんだけど、そのきっかけがお母さんのテディベアなの。そうそう、パパのね。」
くすくす笑ってパパの反応を伺った。案の定渋い顔してるし。
お姉ちゃんもその顔を見て笑ってる。あのテディベアは、家族の中で『昔のパパ』と言えば通じるぐらい浸透している。そのテディベアを桜さんの店に置くことに誰も反対しなかった。
お母さんは裁縫が好きだった。パパのデザイナーとしての華やかな仕事の方より、自分の手で作った温かい雰囲気の方が好きなの、と昔こっそり教えてくれた。そのお母さんの作ったテディベアだ。裁縫店に置いてあるのは本望だろう。
渋い顔をしていたパパはふっと息を吐くと、またソファーの背もたれにもたれた。
「そうか。編み物もいいけど、唯、ちゃんと勉強教えて貰えよ。もうマリベルに連絡したんだからな。」
「うっ…。わかってるよぅ…。」
ちゃんと勉強しないと、今度こそヤバイ。色んな意味で…。
頭の片隅で、珠緒さんのマフラーがどうなってるか、そのことにも少しだけ身震いした。