第33話
奢られるはずが、酔っ払った悠生を解放して逆に奢る破目に。
やたらと絡もうとするこいつをタクシーに押し込んで、自分も代行車でマンションへ帰った。
部屋に帰って、真っ直ぐ冷蔵庫へ向かい、水を取り出し一口飲んだ。
久しぶりにドクターの事を誰かに話した気がする。あの人の事は翼しか知らない。
俺達は十一歳の時、父の仕事の関係で二年間アメリカのシカゴに住んでいた。
当時、日本から遠く離れたアメリカに住むことに納得していなかった俺は、自宅近くの公園でブスッと座っていた。
その時声をかけてきたのが、ドクターだった。
「君、日本人だよね?どうしたの、こんな所で。親は?」
「…おじさん、誰…?」
「おじっ…!…俺?俺はあそこの病院で医者してるんだ。今、コーヒー買いに出て来た所。あ、ちょっと待ってな。」
そう言って、手術着の上に白衣を着たその人は、コーヒーを2つ持ってまた俺の所に戻って来た。
「はい、どうぞ。コーヒーでいいかな?」
「…ありがとうございます…。」
温かいコーヒーを受け取り、一口飲んだ。日本の物とは違うそれに顔をしかめる。
隣を見ると医者と名乗ったその人は、コーヒーを飲んで一息付いていた。
俺の視線に気付いた彼は、あぁと破顔して俺に向き直った。
「そういえば、君の名前聞くの忘れたな。名前は?」
「…知らない人に言えるわけないだろ…。」
「うわぁ、君は口悪いねぇ。今から直しておきなよ。大人になったら苦労するから。とは言え、君の言うことも一理あるな。俺は千歳。よろしくな。」
「亨…です。」
「亨か。いい名前だな。」
そう言って、俺の頭にぽんと手を置いた。
大きな掌だった。少しだけ消毒液の匂いがする、温かい掌。
「で?亨はなんでここに一人でいるの?観光でもしてて迷子になった?」
ふわりと笑んだ先生は、また一口コーヒーを飲んだ。
口を噤んだ俺が何かを話すことはなかったが、彼は黙って俺の隣に座っていたまま、それ以上聞こうとはしない。
沈黙が俺達を包んでいた時、ピーピーと電子音が鳴った。先生はポケットからポケベルを取り出して、顔を引き締めて小さな画面を凝視している。
「…どうしたんですか?」
「あぁ、病院から呼び出しだ。近くで追突事故があったらしい。俺は行くけど、亨はどうする?迷子だったら警察が来るまで、病院で待つこともできるけど。」
「いや、俺この辺に住んでるんで、大丈夫です。」
「そうなのか。じゃあ、俺病院に戻るから。気を付けて帰れよ。」
「はい。あ、コーヒーごちそう様でした。」
「いいえー。今度病院へ遊びにおいで。って、病院に遊びに来るって言うのもおかしな言い方か。まぁ、いいか。千歳って言えば大概は通じるから。おっと、ヤバイ、サイレン鳴ってるな。じゃあな!」
ぺこりと頭を下げて、お礼をした。
先生は既に病院へ走って向かっている。それを見ながら、俺は公園を後にし自宅へと戻った。
それから俺は頻繁に先生のいる病院へ遊びに行った。
英語ばかりの周囲に嫌気がさしていたのも手伝って、家族以外の日本語は当時の俺には貴重な酸素みたいなものだ。そんな俺に多分、先生は気付いていたと思う。俺との会話は常に日本語だったから。
先生の仕事ぶりは近くで見ていると凄さがわかった。
「亨、こっち来るな!あっちで大人しく待ってろ!!」
そんな風に言う時の先生は、必死の形相で患者を救おうとしているのがありありとわかる。ケープもグローブも血まみれで、看護師や、同じ医師に早口の英語でいろいろ指示している。
ばたばたしている処置室の前で黙って立っていると、いつの間にか隣には翼がいた。
以前、俺を探していた翼は、先生と一緒にいる俺を見て目を丸くしていた。いつの間に病院の先生なんかと仲良くなったんだと思っていたのだろう、いろいろ俺と先生に聞いた挙句、先生に会いに行くと言うと、僕も一緒に行くと言って聞かなかった。
以来、俺達は先生を訪ねて病院に来ているので、周りのスタッフとも顔見知りになっていた。
「先生、大丈夫かな。亨は、あの人助かると思う?」
「どうだろうな…。血いっぱい出てたし。駄目なんじゃない?」
忙しそうな先生に、今日は帰ると伝言を残してその日は翼と帰った。
次の日、翼と一緒に病院に行こうと近くを通っていると、先生が奥さんらしい人と二人で歩いていた。俺達に気付いた先生は、笑顔で手を振って、隣の女性と一緒に俺達の方へ寄ってきたので、俺達も走った。
「先生、こんにちは。」
「こんにちは。今日は翼も一緒か。昨日は悪かったな、相手してやれなくて。」
「いいえ、いいんです。それより、先生、あの人どうなったんですか?やっぱりダメだった?」
「助かったよ。一時は危なかったんだけどね、なんとか持ちなおした。今はICUにいるけど、近いうちに一般病棟へ移る事になるだろう。」
正直、俺も翼もダメだろうと思っていたので、驚いて先生を見ていると、隣にいた女性が声をたてて笑った。よく見ると、お腹が大きい。
「千歳君、私をこの子達に紹介してくれないの?冷たいわね、ねぇ?」
そう言って、彼女はイタズラっぽく微笑んで俺達を見ている。それを見た先生は、しまったなと言いながら彼女の肩に手を置いて
「翼、亨。紹介するよ。俺の奥さん、祥子だ。祥子、この子達は「翼君に、亨君ね」その通り。」
と簡単に紹介したので、俺達も頭を下げた。
祥子さんは妊娠中で、もうすぐ産まれるの、とお腹を撫でてとても幸せそうな顔をしていた。先生もそれを見て微笑んだ。
「よかったら、触ってみる?今日はこの子、良く動くのよ。」
「いいんですか?」
「どうぞ。ほら、亨君も遠慮しないで。」
言われて、二人で祥子さんのお腹に恐る恐る手を当てた。その時、どんっ!と手のひらに衝撃が走る。翼を顔を見合わせ、すぐに自分の手を見た。
確かに感じる、その衝撃。
「ほら、今日はとっても元気なの。」
「すごい!!」
「あ、また動いた!!」
その確かに感じる衝撃に感動していた、一ヵ月後。
祥子さんは、無事小さな女の子を出産した。千歳さんは、その女の子に『唯』と名前を付けた。
なんでその名前なの?と聞いた事があった。先生は、いつものようにふわっと笑ったあと、こう答えた。
「俺が愛してる祥子が産んでくれた、俺の唯一無二の大切な子供だから。だから『唯』。」
俺と翼は、その子に夢中になった。構って、遊んで、笑って。
唯はとても可愛い。泣いてるときも、寝てるときも。何よりも笑った顔が一番可愛い。
唯が初めて自分の名前を呼んでくれた時は、本当に嬉しかった。
「とー、りゅ?」
「とーおーる。亨だよ、唯。」
「とーりゅ。」
「何回聞いても『とーりゅ』だな。じゃあ、唯、たすく。たーすーく。」
「たしゅ、く?」
「僕の方近くない?なぁ、亨。」
「いや、お前も違うだろ。な、唯?」
「とー…る。」
びっくりして唯を見た。ニコニコしながら、俺の膝によじ登って抱き付いてきたので、抱えなおして抱っこしてやった。翼は必死になって自分の名前を呼ばせようとしているが、何度聞いても『たうく』にしか聞こえない。
なんて言うか、優越感…。そして、感動。何よりも単純に嬉しかった。
唯を囲んだ日常。先生は相変わらず命の現場で働いて、祥子さんは唯を大切に育てている。
彼ら三人の幸せそうな顔を、今も、俺は覚えている。
唯がハイハイを卒業して、一人で歩けるようになった頃俺達は日本に戻る事になった。
二年が経ってアメリカにも慣れ、当初持っていた疎外感も感じなくなっていたが、やはりふとした時に日本に帰りたいと感じていたのも事実で。
帰国する事に異存は無かった。だけど、唯と離れるのが寂しくて。翼も一緒だったと思う。帰国一週間前から、俺達は時間の許す限り唯と一緒に過ごした。
「たしゅく。」
「最後まで僕の名前呼べないままで終われるか!唯、僕の名前ちゃんと呼んで。たーすく。たすく。」
「たー、しゅー、く。」
「しゅじゃないよ。唯。」
「とーる、たしゅくいじめる。」
「そうだな、唯。翼は唯をいじめてるよなー?」
「うん。いじめるー。」
「いじめてないだろ!!」
「やー、たしゅく、こわい。とーる、たしゅくこわい。」
よたよたと覚束ない足取りで、俺の前まで歩いて来て、そのまま大人しく抱っこされている唯と離れるのは本当に辛い。祥子さんが丁寧に揃えている、長くて細い髪を梳きながら撫でてやると、にこーっと唯が笑って、俺にしがみ付く。それを見て、本当に心から愛しさが湧いてくる。
そのまま思った事を口にした。
「あー…。唯を日本に連れて行きたいな…。そう思わないか、翼。」
「そうだなー。せめて僕の名前ちゃんと呼べるようになるまででもいいから、一緒にいたいよね。」
「おいおい、聞き捨てならないな、ガキ共。悪いが、唯はまだ嫁には出さないぞ!!ほら、おいで、唯。」
「おとーたーん!」
唯は、するりと俺の腕から先生の腕に抱かれて嬉しそうにしている。
その時、チリッと走った痛みはなんだったのか。
わかることがないまま、俺達は日本へ帰国した。結局最後まで、翼は『たしゅく』のままだった。
先生どうしてるだろう…。元気だろうか。祥子さんも元気してるかな。
唯もでかくなっただろうな。
そう言えば…神崎も名前が『唯』だったな。
まさかそんながあるはずが無い。大体、先生はずっとアメリカにいるって言ってたし。あの『唯』もアメリカのハイスクールに通っているだろう。
なんだか、今夜は懐かしい夢が見れそうだ。
そんな事をつらつら考えながら、心地よい酔いも手伝って俺は眠りに落ちた。
次は唯視点に戻ります。