第119話
「「こんにちはー!」」
「はいはい~って、翼くんに亨くん!いらっしゃい。ほら、唯~。お兄ちゃんたちが遊びに来てくれたわよ。」
「う~?」
俺と翼がいつものように祥子さんの家へ遊びに行くと、いつものように笑顔で出迎えてくれた。その腕にはまだまだ喋れない赤ちゃんが抱かれている。
その赤子と言えば、ちょっとした騒ぎと化した出産事件から早いもので半年という時間が経った。今では、俺達の顔を見てきゃっきゃと笑うようになった事が地味に嬉しい。
まあ、千歳先生も祥子さんも「唯は人見知りしない子だからねー」なんて言っているが、それでも毎日とはいかないまでも頻繁に顔を見せている俺達には懐いてくれているように思いたい。
現に一週間ぶりに遊びに来た俺達の顔を見た唯は暫くじーっと凝視した後、祥子さんの腕から身を乗り出して「きゃーあ!」と歓声をあげた。
「あらあら、唯ったらお兄ちゃん達が大好きねえ。さ、ほら抱っこしてもらいなさい。」
「う。う、あ~!」
うぶうぶと何ごとかと幼児語を話しながら、翼の腕にようやく願い通りに抱っこされた唯はいたく満足げだ。少し目線が高くなったのが嬉しかったのか大人しくしていられないようで、小さな体を揺するようにしてはしゃいでいた。そのかなり激しい動きに翼は危うく落としそうになったりしていたが、必死に持ちこたえている。まあ、その悪戦苦闘ぶりが余計に楽しいのか、唯はさっきより動いていたが。
当時同世代と比べて早い成長期を迎えていた俺達は、アメリカに来てから更に身長が伸びた。あまりに伸びたので成長痛も発生したものだが、そのお陰か、二人とも既に170cmになろうかという伸び具合。
そのせいで150cmちょいしかないらしい祥子さんを見下ろすようになってしまっているのだが、そこはやっぱり大人と子供。両親と同じ年くらいの人を同列に扱うような真似はしない。
それに、俺にとって祥子さんは千歳先生と同じくらい好きな人でもあったから、余計に敬う形になるのは当たり前というやつだ。
「うー、うぅ~。あ~!」
「今日も元気だな、唯。いい子にしてたか?」
「あぅ~。ぶぷー?」
「あはは、何言ってるかわかんね。」
「もう駄目だ!亨、パス!唯ったら大人しくしてくれないんだもん。僕疲れたよ。」
「はは、しょうがねえな。ほら、唯おいで。」
柔らかい小さな体を抱っこし、赤ちゃん特有の匂いを吸い込むと途端に顔が緩む気がするのでなるべく我慢。まあ気を引き締めていても、結局は可愛らしい仕草だったり笑顔なんかにデレッとなってしまうのだが、それは翼も同じ。
俺達には妹がいない分、女の子…しかも産まれたばかりの赤ん坊が珍しいという事もあるのかもしれない。千歳先生が「デレデレだなー」と言うように、正に揃いも揃って『唯にデレデレ』なのだ。
俺達が二人がかりで構っていても、泣きもせず楽しそうにしているのだから余計に可愛いっていうもんだろう。もし母さんが唯のことを知ったら、いの一番に飛んできて構い倒すに違いない。あれほど女の子が欲しかったと公言しているのだ、唯をお人形にする光景が容易に想像出来てしまうのが怖い。
まあ、いくら元気のいい唯とは言え、やはり赤ちゃん。
すぐに腹を空かせて泣くし、おむつが濡れても泣く。だが「ひえぇぇ~ん」と泣くものの、要求が満たされれば泣き止む辺りをみれば、唯は手の掛からない子供なのだろう。
先程哺乳瓶で俺があげたミルクをんくんくと勢いよく飲んだ唯は、満腹で眠くなったのかうとうとと船を漕いでいた。
「あらま、唯ったら眠くなっちゃったのね。ごめんね亨くん、この子ちょっと寝かせてくるわね。」
「はい、じゃあ……って、唯、手放してくれよ。」
「ぅんーん。」
眠くなって船をこいでいるくせに、小さい手で俺の服を掴んで離そうとしない唯に皆で苦笑していると祥子さんが「仕方ないわね」と言って哺乳瓶を片付け始めた。
「亨くん、唯が寝付くまでそのまま抱いててくれる?勿論駄目だったらいいのよ。」
「大丈夫です。」
「寝るまででいいから、無理しちゃ駄目よ。唯もそろそろ重くなってきたでしょう。ずっと抱いてたら腕痺れちゃうからね。」
「さっき抱いた時わからなかったけど、ほとんど先週と変わらなくないですか?今何キロですか?」
「今はね、4キロちょいかしら。この子産んだ時の体重が2600グラムだから、大きくなったでしょ~!」
「おお。そんな大きくなったかー!」
そう言いながら、既に眠りに入っている唯をあやしながら抱いていても、あまり重さを感じない。これでも大きくなっているのだから赤ちゃんと言うのは不思議だと思う。
指をしゃぶりながら眠っている唯を抱きながら、祥子さんに案内されてベビーベッドへ向かう中そんなことを考えていた。
ふと目を開けると一瞬そこが何処だかわからなかったが、次第に頭がはっきりしてくると実家の自分の部屋だというのを思い出した。
そう言えば、珍しく土曜日だというのに休日の父に呼び出されて実家に来ていた。父に呼び出されるのはあまりないので何かと思って来てみると、「亨、チェスの相手になってくれ」と言う実にくだら…いや、プライベートな用件だ。
来てしまった以上仕方ないので久しぶりに相手になったのだが、元々父はチェスが強く、滅多に勝った事がない。故に今回も五戦やって一勝も出来なかった。
「なかなかだったけど惜しかったね。」
「……小ずるい手ばっか使いやがって………」
「ん?何か言ったか?」
のほほんと笑っている父にムカついたが、結局父に勝てるだけの実力がないのをわかっているから悔しいけど完敗したのを認めるだけ。
そんな俺に対して父も「もう少しなんだけどな」と言うだけだ。
五戦もしていたら昼前に来たはずが、既に夕方の六時を回りかけていた。その頃には出かけていた祖父母や仕事をしていた翼も戻り、久しぶりに家族全員で夕食を取ろうということになったので、食事が出来るまで自分の部屋に戻って少し眠っていたのだ。
むくりとベッドから起き上がって部屋の照明を点けると、開けていたカーテンを閉めた。
「しかし…懐かしい夢を観たな…」
くぁっとあくびをして、本棚からアルバムを取り出す。
そのアルバムにはシカゴ時代の写真があって、もちろん千歳先生と祥子さん、唯との写真もとってある。
今さっき夢で観た通り写真の中の唯はまだ小さい。なぜかハイハイした時の写真や立った写真、中には大泣きしている写真もあるが、ほとんどの写真は唯が笑顔で祥子さん、もしくは千歳先生に抱っこされているものだ。
その何枚かは、俺か翼にも抱っこされている。
「………」
大きくなった唯は、いつ日本に帰って来るのだろう。
溜め息をつこうとした時、部屋のドアがノックされた。食事の用意が出来たので、渡瀬が呼びに来たのだろう。
「はい。」
「私ですけど、入っていいかしら?」
祖母の声がしたのでドアを開けると、そこには携帯を持った祖母が立っていた。
しかも、何故かわからないが至極嬉しそうな顔をして。
「おばあ様?どうかしましたか。」
「亨、唯さんが帰って来たのよ!それでね、あなたと話したいことがあるんですって。」
「え?」
「ああ、唯さん。今亨と代わるわね!」
はい!と電話を渡された。
本当に帰って来たのなら、さっき帰国するのか?と考えていた事とタイミングが良すぎて気持ちが悪い。
「もしもし。」
『こんばんは、先生。神崎です。』
「ああ、久しぶり。」
随分と懐かしく感じるこの声が、何故だか俺に安堵感をもたらしているということに気付くのに、この時にはまだわからなかった。