第百十六話
な、難産でした…。
冷たい目と誰もかもを突き放すような言葉。
初めてお姉ちゃんのそんな顔を見て、さすがに私も怯んだ。だけど、ここで怖気付いたら駄目だと自分を叱咤する。
お姉ちゃんの冷たい視線から目を逸らさずに見返すと、一呼吸置いて話し始めた。
「逃げたらいけないとは言ってないでしょ。行き先を言わないで姿消したら誰だって心配するってこと、お姉ちゃんだったらわかってると思ったのに。」
「誰もあたしのことなんか心配しないわよ。」
ふんと鼻を鳴らしそっぽを向いたお姉ちゃんは、どことなく寂しそうで。
だけど、誰も心配しないなんて絶対にないんだって事は否定させない。
「そんなことない。お兄ちゃんが時差も忘れて夜中にあれだけ電話かけてきたんだもん。絶対みんなに連絡とりまくってると思う。」
「あの人がやりそうな事よねえ…。昔っからそうだったもの。実の父親よりも父親らしかったわ。」
お姉ちゃんは乾いた笑いをしながら水を一口飲むと、キツイ口調で喋りだした。
「お兄ちゃん、パパのことなんか言ってたでしょ?」
「え?ケンカしたからなんとかって…」
「決まりかけてたモデルの仕事を契約直前になって降ろされたから、納得いかなくて直接聞いたのよ。そしたら何て言ったと思う?『お前にはまだ俺のブランドを着こなして、なおかつ服に負けずに自分が輝けるだけの魅力はない』って言ったのよ!?あれだけ苦労してきたあたしの努力を直に見ておきながら、そんなこと言ったのよ!?」
「………おね、ちゃ…」
「なんなのよ!どいつもこいつも!!頑張ってきた仕事は横からかっ攫われる、男も横取りされる。これじゃああたしがどんなに努力したって、結局は無駄なんじゃない!だったら最初から頑張らない方がいい。戦わずに逃げたほうがどんなに楽なわけ?ねえ、そうでしょ?」
そう言いながら、ぼろぼろ泣いているお姉ちゃんの言葉はあまりにも苦しくて。見ている私の方も辛くなってくる。
お店のテラスで大きな声を上げているのは注目の的にもなるけど、今はそんな事を言ってる場合じゃない。店員さんがちらちら見ているから、もしかしたら追い出されるかもしれないけど。
多分。
多分だけど、お姉ちゃんは自分でそう言っているにも関わらず、それを自分自身では許していないはずだ。
今までの苦労を厭わずにやってきた自分へのプライドと、誇り。それは絶対に失ってはいないだろうし、今は悲しみと憤りで周りが見えなくなっているのかもしれないけど、お姉ちゃんの周囲はその努力を大いに認めている。だからこその、あの地位に立ち続けているのだと思う。
それに。
あれだけお姉ちゃんに対してキツイことを言ったというパパだって、お姉ちゃんのことは第一に考えている。
『カサブランカ』のモデルを降ろされたという。私にはパパの仕事関連で何があったのかわからないけど、あれだけお姉ちゃんがモデルをやると言って嬉しそうな顔をしていたのだ。悔しかったのはパパだって同じだと思う。
ただそれが、双方とも逆の立場だと言うのがややこしい。
でも。
「パパね、お姉ちゃんが『カサブランカ』のモデルやるって私に教えてくれたとき、すっごい嬉しそうな顔してたんだよ。」
「そんなの嘘よ。じゃなきゃ、パパが名役者だったってことね。」
「ううん、嘘じゃないよ。パパはお姉ちゃんが自分のブランドを着てくれること、すっごく楽しみにしてたと思う。」
「だったら…っ!」
私はふるふると頭を振って、何か言いたそうなお姉ちゃんを黙らせた。
「パパが言ってたんでしょ?『俺のブランドを着て輝くにはまだ早い』って。『まだ』って言う事は、『いずれ』は着て欲しいんだよ。お姉ちゃんに着て欲しいとから、そんなキツイこと言ったんだと思う。お姉ちゃんは天邪鬼だからそういう風に言わないと、きっと契約直前に降ろされたとかになった時にそのまま仕事を辞めかねないもん。」
「そ、そんなこと…ない…」
「絶対にないって言える?お母さんに誓って?」
「………わ、からない…。確かにこっちに来た時はモデルのこととか、仕事のこととか全部忘れたいと思ってたけど…だけど辞めたいとは思ってない…」
「じゃあやっぱりパパの一言が引っかかってるんじゃない?このままじゃ終われないって、自分の心が言ってるんだと思うよ。今はその言葉を聞かないようにしてるかもしれないけど、日本に帰ってまたパパと顔を合わせたときは「なにくそー!!」って思うかもよ?」
「なにくそって…」
そう茶化して言うと、ようやくお姉ちゃんの顔にも笑顔が戻ったようで、少し笑って今しがた流れた涙を拭っていた。
一気に和んだ私達の座っている席に、今まで日本語での会話(しかも明らかにケンカ)の間に割って入ってこれる雰囲気でもなかったせいで、出来上がった料理を今か今かと運びたそうにしていた店員さんが待ってました!とばかりに料理を運んでくれる。
私が頼んだお肉とお姉ちゃんが頼んだサラダが目の前に並ぶと、ぐぅ。と私のお腹が実にタイミングよく鳴った。それに吹き出した私達は、各々料理を口に運ぶ。
「お姉ちゃん。そんな野菜ばっかりじゃ逆に身体に悪い。人間に良質なタンパク質は必要なんだから。私のスペアリブ食べて、食べて。美味しいよ!」
「唯こそ野菜食べなさい、私の半分あげるから。」
「ブロッコリーいらない。」
「好き嫌いしないの。」
私が頼んだお肉はハーフスラブサイズ(スペアリブ5~6肋骨分)なので、私達二人でシェアして丁度いいくらい。まあ、お姉ちゃんは食が細いというか、職業柄あんまり食べないからほとんど私が食べたけど。
お姉ちゃんが頼んだダブルサイズのグリーンサラダも、ブロッコリーは断固拒否したものの、ほとんど私が平らげた。
帰り際に二人で騒がしくしてしまった事を店員さんに謝ると、豪快に笑って許してくれた。
『仲直り出来たみたいでよかったじゃないか!それより、お嬢ちゃん。そんなに小さいのに、どこにあれだけの肉とサラダが入るんだ。お嬢ちゃん達は日本人か?俺は何十年もこの店で日本人観光客にも同じような量出してるけど、お嬢ちゃんみたいに小さい子があれだけ食ってるのは初めて見たぞ!』
とまあ、誉められてるんだか貶されてるんだかわからない言葉を貰い、引きつったジャパニーズスマイルで店を後にし、そのまま当たり障りのない会話をしながら辺りをぶらぶらと歩く。
途中、公園を見つけたので園内に入ってベンチに座ると、はあー!とお姉ちゃんが大きな溜め息をついて晴れた青空を見上げた。
「なーんか、悩んでたのが一気にバカらしくなっちゃった!」
「解決、出来そう?」
「まだ完全には消化出来ないかな…でも、いつまでもウジウジ悩んでるのもあたしの性に合わないし、パパを送り襟締めで落としてやりたいし。」
そ、それはまた、物騒な…。パパ、頑張って。なむなむ。骨は拾ってあげるから。
「日本に帰る?」
「うん。唯はどうする?そろそろ帰ろうと思ってたんでしょ?」
「そうだねぇ………決めた。私、お姉ちゃんと一緒に帰る。」
「そうしよっか。」
ベンチから立ち上がって、私達は手を繋いで真っ直ぐに佐江子さんの家へ向かった。
ようやく日本へ帰国するというのを告げるために。