第百十三話
個人的考えなので、批判はご遠慮ください。
隣から寝息が聞こえてきたことで、私は詰めていた息を小さく吐いた。
お姉ちゃんは元々感情が豊かな人なせいか、しょっちゅうとは言わないけど泣いたりしている。
泣くことですっきりすると世間一般的に言われているせいか、フラストレーションが溜まったときなどは泣ける映画を観て号泣したりしている。あまりに号泣しているので心配になって聞いても、「こうすることですっきりするのー」とあっけらかんと言うのでそう言うものなのかなと思っていたのだけど。
だけど、今みたいに隣にいる私も悲しくなってくるように泣くお姉ちゃんを見たのは本当に初めてで、私は驚きからか、お姉ちゃんに対して何もしてあげることができなかった。
多分お姉ちゃんも私からの反応を期待していなかったのもあるんだろう。私はただ寝たふりをしてお姉ちゃんの話を黙って聞いていた。
彰義さんの浮気のことは私は当然知っていた。そのことによってお姉ちゃんが傷付くであろうことも当然だけど、わかっていたつもりだった。でもまさか、相手の女の人が妊娠していたなんて知りようも無かったことだし、ホテルに二人で入ったのを目撃しただけではわかるわけもない。
だけど、その妊娠という事実を知らされたお姉ちゃんがどれだけの衝撃を受けたであろうことはわかる。
特にお姉ちゃんは…と言うかお兄ちゃんもだけど、基本的にあの二人は出来ちゃった結婚は反対派だ。子供の頃から古風な考えを持った大人に囲まれていたのが影響しているのかもしれないけれど、結婚から子供が出来るまでの順序と言う、確固たるスタンスを持っている。
なまじパパと前妻さんとの結婚が出来ちゃった婚だったから、辛酸を舐めらされた子供達っていう思いもあるのかもしれない。まあ、あれだけ遊んでいるお兄ちゃんのことだから、下手をすれば二、三人くらい子供がいたっておかしくない状況であるにも関わらず、そこのところはちゃんとしっかりしているらしい。今の所、そう言う衝撃カミングアウトは無いままなのだけれど。
お姉ちゃんもそういうスタンスを持っているせいか、出来ちゃった結婚に対していい感情を持っていないようで、同級生の友達やモデル仲間なんかが結婚するとなった時にそういうのだと聞くと、微妙な顔をする。
「またでき婚…なんで皆避妊しないのかなー。そのうち二人でいるのが嫌になって離婚するってなっても、間に挟まれた子供が犠牲になるのはわかりきったことなのにねー…」
そう言うから、お姉ちゃんが結婚するときはできちゃった結婚じゃないんだろうなーと思ってたのに。まさか彰義さんが、お姉ちゃんとは違う人を妊娠させてたなんて正直信じられない気持ちで一杯だ。
それに。
何で『カサブランカ』のモデルが無しになったんだろう。
確かにパパは「美奈が出る」って言ってたはずなのに…。
お姉ちゃんが頑張っている姿を誰よりも見てきたのはパパだし、自分の…ましてや『カサブランカ』のモデルとして選んだパパはどことなく嬉しそうだったのは間違いなかった。
自分の娘を自分のブランドのモデルとして起用する。
それだけをみれば別になんてことないのかもしれないし、実際違うデザイナーだったらしていることなのもかしれない。だけど、パパがチーフを勤めていた『Dupont』のモデルに起用されたお兄ちゃんだって、パパが同ブランドを辞めてからのことだったので当然パパは関知していない。あれはお兄ちゃんの実力だとパパが誇らしげに話してくれたのも覚えている。
パパは仕事に関しては一切私情は挟まない。挟むとしたらお母さんから得たちょっとしたヒントとかだけだった。それ以上パパは仕事の内容に関しては口を挟ませなかったし、お母さんもお母さんでパパの仕事には何も言わなかった。
若く見えるお母さんをモデルとして起用してみればいいんじゃないか?という声もあったようだが、パパはありえないと一蹴し、それを聞いたお母さんも笑って否定していた。
「私は元看護士よー?モデルじゃないわ。それに、こんな小さなモデルなんて見た事ないわよ。」
そんな愛妻ですらランウェイに立たせなかったのに、娘と言えど決してその誓いのような鉄則を破る事がなかったのだ。
それにも関わらず、お姉ちゃんを起用しようとしていた。
それはパパ自身…と言うか、ファッションデザイナー『桐生総一郎』が、『桐生美奈』と言うモデルを認めたからに他ならないだろう。
あの時私に教えてくれたパパの顔は、なんて表現すればいいのかわからない。
父親としての嬉しさももちろんあったけど、一デザイナーとしてのわくわく感みたいなのも感じられた。
ある種、二面性がある人にようやく認められ、尚且つ好奇心も刺激しているお姉ちゃんという存在は本当に凄いと私は誇りに思った。
それなのに…。
なんでコレクションの一ヶ月前なんかになって急に降ろされたんだろう。
お姉ちゃんの涙の原因は、もちろん彰義さんのこともあるだろうけど、大半はパパの選択の結果だったのではないだろうか。
お姉ちゃん越しに見える月はとても綺麗で。
逆光になっていて見えなかったお姉ちゃんの表情も、暗さに目が慣れたのかぼんやりと見えてくる。メイクという名の鎧を落としたお姉ちゃんは、いつも雑誌の表紙を飾っているときほど気丈には見えない。逆に、あどけない表情をしているふうにすら思ってしまった。
お姉ちゃんより子供の私がそんな風に思ってしまうのは、やっぱり涙の後を幾筋も残したまま寝てしまったからだろう。
そっと着ていたパジャマの裾で拭いてあげると、口許が綻んだ気がした。暗いから気のせいかもしれないけど、そんな気がした。
こんなに泣いてたら、きっと明日は目が腫れるだろうな…。
起きたら近所のコーヒーショップに行く前に、お姉ちゃんに濡れたタオルを差し出してあげなくちゃ。
夕食であんなに高カロリーなもの食べたんだから、明日はちゃんとウォーキングさせなきゃ駄目だよね。シカゴの街を観光がてら連れ回してやろうかな。
シカゴになかなか来た事がないお姉ちゃんは楽しめるかもしれないし、私も久しぶりにシカゴの街を歩きたい気分だ。
だったらいつまでも起きてはいられないな。たっぷり寝て、それから考えよう。
何時以来かわからないけど、どこか前向きになった気分で目を閉じた。
でも、あ、と気付いて身を少しだけ起こす。
「お姉ちゃん、大好きよ。」
私は小さく呟き、そのままお姉ちゃんのおでこに軽くキスをした。
寝ぼけているのか、お姉ちゃんは私を抱き締めてくれた。
私達はそのまま、お互いの身体だけではなく、心の暖かさも共有しながら眠りについたのだった。