第105話
大分機嫌が良くなったのか調子よく飲み出した桐生さんにほっとした俺と悠生も、とりあえず止まっていた箸を動かしていたが、桐生さんがふと動きを止めた。なんだ?と思っていたら、どうやらマナーモードにしていた携帯が鳴ったようだ。
桐生さんは俺達に断って電話に出たのだが、一言二言話すと、一気に眉間に皺を寄せて苦い表情を浮かべていた。少しだけ漏れ聞こえる音声の限りでは、どうやら話相手は男らしい。もしかしたら仕事関係でトラブルが発生したのかもしれない。なにせ、あの吉川をモデルに仕上げなければならないのだし。だとしたら、これだけ厳しい顔をしている以上、もしかしたら桐生さんは帰るのかもしれない。
「ああ、もう……いいや、連れて来てくれない?連れてきたら僕が連れて帰るから。うん、うん…ああ、そうだね。僕飲んでるから、タクシーだね。え?本当?……いいや、連れて来ていいよ。うん、ありがとう。じゃあ後でね。」
「どうしました?」
どこか疲れた様子で携帯を切った桐生さんは、すっかりぬるくなってしまったであろう熱燗を新しいものに変えて貰うと、ふーと息を吐いた。
「悪いけど、ちょっともう一人増えるんだ…」
「え、あの、だったら俺達帰りましょうか?ねえ、亨さん。」
「そうだな。桐生さん、俺達帰りますよ。」
「ああ、いいよいいよ。て言うか、居て。……悠生、よろこべ。美奈だぞ。」
「ええ!?本当ですか?!」
「今から美奈が来るんですか?」
「ああ…ただし、盛大に酔ってるらしいけどね。」
と言う事は、あのただでさえやかましい美奈が酔っている。お世辞にも酒が強いとは言えない美奈の事だ、盛大に酔っていると実兄が言うのだから、相当鬱陶しく酔っているだろう。ああ、面倒くさい…
だが俺の気持ちとは裏腹に、悠生の気分は一気に晴れやかになったらしい。顔色がさっきまでと全然違う。これもまた面倒くさい要因の一つだ。桐生さんも渋い顔をしていると言う事は、確実に絡んでくるであろう美奈の鬱陶しさを予想しているのだろう。
俺と桐生さんは二人して、吐くに吐けない溜め息を飲み込んだ。
しばらく差し触りのない話をグダグダと話していると、今度は俺の携帯が鳴った。スマートフォンの画面上に表示されていたのは、『前田美鈴』の文字が。すみませんと断って電話に出ると、先日聞いたばかりの声が耳に届いた。
『もしもし、亨さん?今大丈夫ですか?』
「ああ、大丈夫だ。なんだ、どうした?」
『あのですねー、翼、ロンドンから帰って来た?帰って来たのに全っ然会えないんですよ!これってどういう事だと思います!?』
「知らねーよ。あいつも忙しいんだろうけど、お前の方こそ暇だってわけじゃないだろ?つーか、そんな事でいちいち電話してくんなよ。」
『あ、ムカつきますね。亨さんのくせに。』
「……切るぞ。」
『逮捕しました。』
「は?」
『だからー、亨さんが注意するように言ってた男です!えーーーっと、ややや、矢部?あ、違いますね。谷野?ん、まあいいです。その男なんですけど、さっき逮捕しましたので一応報告しておこうと思って。』
翼の彼女である美鈴は翼が通っていた大学の後輩であるのと同時に、現役の警察官でもある。
美鈴は国家一種を取っているので所謂キャリア組のエリートなのだが、今は警視庁に出向中。若いながらもやはりキャリアと言う事で、階級は警部補。警視庁捜査一課で女がてら頑張っているらしい。たまに相棒である刑事のデリカシーの無さに、もう最悪っ!と翼に愚痴っているのをたまたま聞いた事があるが、普段付き合う分には普通の女性だと思う。
まあ、翼の彼女だというのである程度フィルターがかかっているのは仕方無いにしても、さっぱりした性格でわりあい気に入っている。
そんな彼女に頼んでいたのは谷野の件。性犯罪者は常習性が高い犯罪だと言うのはすでに周知の事実。実際、谷野の件も例に漏れずその類の男ではないかと予想していたが、こんなにも早くに尻尾を出すとは意外だった。でもまあ、あいつの思考回路なんて端から興味ないので驚くに値しないんだが。
美鈴の話を聞くと、どうやら通勤通学の電車の混む時間に車内で痴漢行為が最近多発していたらしい。被害者の女子高生などから事情を聞いてみると、どうやら犯人は複数ではなく単独。中肉中背で、うちの学校の最寄の駅周辺で下車するらしいと言う情報の元、さりげなく注意していたらしい。が、犯人は悪知恵が働く奴なのかなかなか尻尾をつかませなかったようで、俺が谷野に注意してくれと美鈴に頼んだ事が逮捕のきっかけになったらしい。
美鈴が逮捕、そのまま署に連行し一応手荷物内をあらためてみたところ、エスカレーターや階段の下方から女子高生を盗撮した写真や、それらを盗み撮りしたであろう写メが出るわ、出るわの大豊作。ついでに家捜しもしてみると、学校の更衣室などの盗撮写真がわんさかあるわ、PC内には出会い系を使って女子高生とのやり取りが頻繁に記録されているわ…
美鈴は立ち会わなかったらしいが、女子高生を娘に持つ父親の刑事などは、あとで相当苛立っていたらしい。
ともかく、谷野は完璧にクロだった。
それで、美鈴は『児童買春』と『都の迷惑禁止条例』を適用し、現行犯で逮捕したのだそうだ。
まあすでに学校の方で懲戒免職の処分を受けているし、直接的な被害と言えば神崎の事だけだ。それに付いては被害届を出していないようなので結局の所はお咎め無しになるのだろうが、それでも逮捕された罪状を聞いた限りでは執行猶予が付いたとしてもそう以前のように大手を振って歩けない。
それで良しとするべきなんだろうが、それでも引っかかるものがあるというのは事実。もやもやする気持ちの出所がわからないまま、電話の向こうでは相変わらず美鈴が喋っていた。
『でー、ですねぇ。って、聞いてます!?』
「あ、ああ。聞いてる。そうだ、今回の礼は何がいいんだ?」
『えー!?亨さんがお礼してくれるんですか!?私、翼の彼女ですけど!!』
「知ってるっつーの。」
とりあえず後で翼に電話して、美鈴とデートしろとせっついておくか。
などと考えていると、スパーンと頭を叩かれた。
「いっ…!」
『亨さん?』
「美鈴、悪いが一旦切るぞ。」
『え、ええ!?亨さん?どうしまーーーー…ブッ』
美鈴との電話を切り、俺の頭を叩いた闖入者の面を睨む。
「…いてえんだよ。」
「あーらごめんなさい?相も変わらず、女癖が悪い男が邪魔だったから、つい。」
「てめぇ美奈、お前仮にも俺の頭を叩いて置いて、それが謝罪?ふざけんじゃねえぞ。」
「あんたの頭ん中って言ったら、どうせ女の事しか入ってなくて、振ればキャーキャーって悲鳴が上がってくるような可笑しな頭なんだから一発や二発叩かれた位でどうってことないわよ。ねえ、お兄ちゃん?」
「僕にふるなよ。」
上手く逃げた桐生さんの隣に立っていた美奈の顔にじろりと視線を差した所で、美奈はビクともせずに悠然と微笑むばかり。
またうるさいのが来やがった。