第96話
誰もが息を飲んだ衝撃の一言を放った桐生総一郎は、何事も無かったかのようにまだ携帯で話を続けている。内容から察するに会社の誰かなのだろうが、そちらの方も予想していなかった事だったのか、何度も同じ事を繰り返し話しているが、埒があかなかったのだろう。
最終的には今から会社に戻るからと言って、ようやく電話を切った。
携帯を懐にしまってからすくっと立ち上がった桐生総一郎は、何も言えなくなった吉川親子を一瞥した。
「さて…と、話は聞いてただろ?明日、ちゃんと来いよ。もうコレクションに関わってる奴らに連絡いってるし、早い内に美奈にも連絡いくだろう。今更出来ません、なんて言うなよ。それと、龍前寺。」
「はい?」
「唯は停学処分でいいぞ。俺がアメリカに連れて帰るからな。」
「ちょ、それじゃ、停学の意味が…と言うか、そもそも停学処分にすると決定したわけじゃ…」
「別に退学にしてもいいが、そうなったら俺に連絡しろ。俺も月末まではアメリカにいるから、昨日みたいに時差関係なくかけてくるんじゃねえぞ。いいな、わかったか?」
「……ふう、仕方ないですねぇ…。ですが、停学処分にはしませんよ。」
ぴくりと器用に片眉を上げた桐生さんだったが、それ以上は何も言わなかった。
とりあえず神崎の処分は無しになったようだが、ほっとする間もなく、コンコンと再び理事長室のドアがノックされた。
理事長が返事をすると、入って来たのはこれまた壮年男性で。だが、ガタイがいいのか着ているスーツが窮屈そうに見えたのは俺だけではないだろう。
俺と変わらぬ身長だが、肉付きは彼の方が遥かにいい。と言うか、マッチョ体型と言っても過言ではない。
ふと目線を来訪者の顔に焦点を当てるとどこかで見た事のある顔に、俺は思わずぶわっと全身に鳥肌が立った。
勿論。悪い意味で。
「遅れてすまない。龍前寺理事長が戻られたと聞いたからね、急いできたんだが…おや?もう結論は出たのか?」
「高田。お前も来たのか。」
「桐生さん…来てたの、か。確かNYにいるって聞いていたんだがね。」
「文字通り、飛んで来た。」
はははと笑いながら桐生さんと握手を交わしている、『高田』と呼ばれた男。
そう、アルマーニのスーツを着てロレックスの時計をしている彼は、確かに昨日俺が見た事のある人物で。だが、その時はスーツなんか着ていなかったし、勿論今の様に快活に話していたりもしない。
昨日見た彼は…いや、『彼女』は…
「ああ、吉川さん、紹介します。うちの学校の理事の一人でもある高田晋平さんです。」
『あの…お隣さんなんです。五月雨マリアさんって言って、新宿でお店持ってるんですって。』
神崎の声がリフレインする。
そうだ、この男…いや、女は、マリアだ。
神崎が『晋平』と呼んでいたし、妙に筋肉質の身体も見覚えがある。
だが、今は昨日のようにクネクネしていないし、ましてや女装もしていなければ、特有の厚い化粧もしていない。勿論、裏声でもない。
至って普通の壮年男性。しかもちょっとガタイの良い所を見ると、そっち系か?とも思うでもない感じに仕上がっている。
だが、まさかマリアが理事会のメンバーだなんて思いもしない。しかも、お固い事で有名な理事会に置いて、二丁目の自分の店でママなんてやってる人物がメンバーでいいのか?
更に言えば、神崎の住んでるマンションの隣の部屋の住人が理事会メンバーだなんて、いいのか?
などと色々な疑問が俺の頭を渦巻いている中、ふと視線をこちらに寄越した高田氏が俺を見て、したり顔でにやりと笑った。
そう、神崎のマンションで見たのと同じような笑みで…。
ぞわっと寒気がしたのはどうやら俺だけでは無かった様で、隣にいた悠生もぶるっと身震いしていた。その後、何でだ?と言う顔をしていたので理由は言わない事にした。
知らぬが仏と言う言葉もあるんだし。
寒気を隠しつつ前を見据えると、高田氏は理事長に谷野について話を聞いているところだった。
「生徒の処分云々もそうですが、事を起こした教師。彼は今どこに?」
「とりあえず自宅謹慎の処分を。そうですよね、校長?」
「はい、その通りです。」
「そうか…しかし事情はどうあれ、犯罪は犯罪だからね。懲戒免職処分は免れないだろう。そうだろう?」
「その通りです。」
「早い内に手を打っておいた方が良いだろうね。一度あったことは二度あると言うし…早急に処分した方が、当校にも影響は少ないだろう。」
「二度もあって堪るか。性犯罪者が…」
理事長がまあまあと取り成す一方、高田氏と桐生さんは厳しい顔をしている。
まあ、それもそうだろう。昨日見ただけでも相当可愛がっている神崎が殴られたという事だけでも相当怒っていたマリアだ。
同じ被害に遭うでろう『誰か』の事を考えると、逮捕された方がいいのだが、そう上手くいかないのも実情で。
今回の事だって、結局は神崎が被害届を出さないことでうやむやになってしまう。だが、神崎の精神状況を見る限りでは、とても被害届を出せる状態ではない事は明らかだ。
せめて、俺が協力を頼んだ警視庁の友人が何らかの証拠や、事件に繋がる関連性を見つけてくれていると有難いのだが。
「さて、と…俺はもういいな。これから社に戻らないとならないんだ。」
「…停学処分にはしませんが、とりあえず来月初めくらいまでは休みにしましょうか。」
「別に二学期は何の行事もないんだろ?だったら、三学期が始まるまで休ませるさ。」
「しゅ、出席日数が足りなくなりますが…」
小さく異論を唱えた校長だったが、桐生さんに一瞥されて黙り込んだ。まあ、仕方ないな。
「別に、留年するだけの日数の足りなさじゃないんだろ?だったらいいだろ。」
「桐生さん、それじゃああまりにも…」
「あまりにも?……ま、いいか。兎にも角にも、唯の気持ち次第だな。あいつが学校に行きたいって言うんだったら何も言わない。だが、行きたくないって言うんだったらここを辞めさせる。それでいいな?さて、俺は本当に行くぞ。これから五点ほどデザイン画を書かなきゃならなからな。」
はっと嘲笑うようにして、何も言わなくなった吉川親子をちらりと見てから桐生さんは理事長室から出て行った。
残された面々も一様にして溜め息をつくと、さて…と言う高田氏の一声で解散になるようだった。
「さて、私も帰ろうかな。…あれ、吉川さん、だったかな?どうした?様子がおかしいけど…」
「吉川さん?どうかしました?ああ、桐生さんのコレクションに出るのがそんなに嬉しいんですね?わかります、わかります。すごく華やかですからねぇ、『カサブランカ』のコレクションは。」
「はい?……理事長、それはどういうことかな?」
ぴくりと動いた高田氏…いや、マリアの青筋。そんな些細な事に目が行ってしまった俺はなんだなんだ、一体…。
かくかくしかじかと言う話を一通り聞き終えると、マリアは一瞬絶句した後、大爆笑し、一同を驚かせた。くつくつと涙目で笑っているマリアは、面白そうに吉川を見た。
「凄いなぁ、君。そんな事言ったんだ?」
「は、はい?」
「私は桐生と長いけど、今まで彼が情やコネで使ったモデルなんて、一人もいないんだよ。もしかしたら、美奈もコネでコレクションに出るとかって思ってたでしょう?」
「ち、違うんですか…?」
「そんな事、あるわけないだろう。」
笑っていた顔を一瞬の内に冷笑に変えたマリアは、顔を強張らせた吉川に言う。
「桐生総一郎のコレクションに一度でいいから出たいっていうモデルは、それこそ山の様にいる。だけど、彼はコネや情では一切動かない。わかるかな?だが、今回君が『お願い』したのは、それを根底から覆すことだ。しかも、ようやく受かった美奈を退けてね。」
「………」
「美奈の代わりに来たのが君みたいな、ただの女子高生だとわかったら…ふぅ…さぞかし皆は落胆するだろうねぇ。桐生美奈と言えば、押しも押されぬトップモデル中のトップモデル。スタイルも、美貌も仕事に対するプライドも、何もかもが君とは違う。そんな美奈を押しのけて、一介の女子高生が『カサブランカ』のランウェイを歩く。…なんともまあ、桐生も冒険心があるよねぇ。」
「ちょ、ちょっと!!それは聞き捨てならないわ!!優子ちゃんはスタイルだってよくて、可愛いわよ!!」
流石にカチンと来たのか吉川母が怒り出すと、マリアは嘲笑を隠そうともせずに彼女等を一瞥すると、徐に理事長室のドアに手をかけた。
「まあそう思ってるなら明日、会社に行ってみればいいんじゃないかな。色んな目で見られると思うよ。ま、頑張って。」
そう言い残すと、マリアは帰って行った。