第6話 今月の分は貸しな
「一台も買えないんですけど」
「知ってる」
浅利さんはカウンターの奥から出てこない。俺が入ってきた時点で、財布の中身まで見当がついているらしい。
外は雨だ。傘の雫が土間に落ちて、黒い点が増えていく。店の中は湿気で紙の匂いが強くなっている。棚の上のほうで、開封済みのコネクタの袋が湿気を吸って波打っていた。
朝いちばんで来たのに、もう先客が二人いた帰りらしく、カウンターの上に伝票の控えが二枚残っている。
「三万千二百円あります」
「電池が一本九千円だ。三本買って終わりだな」
「電池だけだと、第三十九層が空いたままです」
浅利さんは扇風機の首を止めた。羽が惰性で二回まわって、止まる。
それから、カウンターの下にしゃがみ込んで、段ボールを一つ引き出した。埃をかぶっている。
「四万五千」
中には灰色の筐体が入っていた。新品ではない。角が擦れて、塗装が剥げている。型は三世代前だ。
「どこの下がりですか」
「クランが二年で捨てたやつ。中層に据えて、撤収するとき引っこ抜いてった」
「引っこ抜けたんですか」
「普通は抜けるんだよ、兄ちゃん」
そうだった。俺が据えたものだけが抜けない。世の中の中継機は、ねじを外せば外れる。
「動きますか」
「動く。出力は落ちてる。測ってねえけど、規格の八割は切ってるだろうな」
「電源部は」
「そこは生きてる。俺が通電して確かめた」
この人は、動くと言ったものが動かなかったことが一度もない。
俺は蓋を開けて、中を覗いた。基板は綺麗だ。コンデンサが二本、頭が膨らんでいる。接点は緑青が出ているが、磨けば戻る。
八割なら、使える。使える場所が減るだけだ。
新品なら八万円する。四万五千円は良心的だ。良心的でも、財布には三万千二百円しか入っていない。
「四万五千円ですね」
「そう」
「一万四千円足りません」
「知ってる」
浅利さんはボールペンの尻でカウンターを二回叩いた。
「これ、どこに使うの」
「第三十九層です」
彼の手が止まった。前と同じだ。三十八と言ったときも、こうなった。
「二十層の電池は」
俺は答えなかった。
「二十層のほうが先だろ。あそこは人が通る」
「はい」
「三十九なんか誰も行かねえよ。深層帯はA級の遠征しか入らねえし、あいつらは自前の無線背負ってる」
「はい」
「じゃあなんで」
説明しづらい。説明しようとすると長くなる。長くなるのは分かっているが、聞かれたので答えた。
「三十九が埋まらないと、四十から下が全部繋がらないんです。四十層から四十七層までは、もう機材が据わってます。八台ぶん、去年までに置いてあります。でも三十九が空いてるので、そこで切れてる。八台が全部、遊んでる状態なんです。中継はバケツリレーなので、途中で一人が手を離すと、それより下は全部床に落ちる。三十九層に一台入れれば、その八台がいっぺんに生き返るんです。一台で八台ぶん働くのは、今この一箇所だけなんですよ」
「……八台」
「はい」
「四十七層」
「はい」
浅利さんは言葉を止めた。天井を見て、それから店の奥のほうを見た。奥の壁には、埃をかぶった作業服が一着掛かっている。
彼はすぐに視線を戻した。俺も見なかったことにした。
「兄ちゃん、それ、会社の仕事か」
「先月で切られました」
「知ってるよ。じゃあ誰の仕事なんだ」
「誰の仕事でもないです」
浅利さんは、何か言いかけて、やめた。
「二十層は、いつやる」
「来月です。二十日に入金があるので、その次の週に」
「四か月って言ったろ、電池」
「四か月あるので、来月で間に合います」
「間に合わなかったら」
「そのときは、二十層より下が全部止まります」
言ってから、自分でも間抜けだと思った。それが分かっていて、三十九層を先にする。
浅利さんは伝票を書きはじめた。ペン先が紙に食い込む音がする。
金額の欄に、三万一千円と書いた。
「あの」
「四万五千は言い値だ。言い値なんか誰も払わねえよ」
「浅利さん」
「今月の分は貸しな」
彼は伝票を破って、こちらに滑らせた。控えの紙には、割引の欄も、貸付の欄もない。三万一千円の売上が一件、それだけが残る。
俺は現金を置いて、段ボールを抱えた。
「兄ちゃん」
振り向いた。
「三十九層のな、北の壁」
彼はそこで口を閉じた。
「北の壁が、どうかしましたか」
「いや。気をつけて行けよ」
◇
作業場に戻って、筐体を全部ばらした。
接点の緑青を、細かい紙やすりで落とす。力を入れると銅が減る。撫でるように、同じ方向へ。指の腹で触って、引っかかりがなくなったら終わりだ。
膨らんだコンデンサを二本、半田ごてで外す。松脂の焦げる匂いが土間にこもる。手持ちの新品に替えるとき、極性を間違えると爆ぜる。老眼が入ってきたので、拡大鏡を出した。
基板の裏に、前の持ち主の整備印が押してあった。二〇二三年の日付。その下に判読できない筆跡で何か書いてある。誰が触ったものにも、誰かの手癖が残る。
外装のゴムパッキンが硬化していた。三十九層は水が滴る階層だ。ここが抜けると一年で終わる。パッキンだけは新品を使うことにした。千八百円。
組み直して、出力を測る。
規格値の七十六パーセント。
浅利さんの見立てより悪い。
この数字だと、カバーできる距離が三割落ちる。第三十九層の節点候補は三か所あった。図面に書いてある北壁の二段目と、東の分岐と、下り口の天井付近。
東の分岐は、四十層の上位ノードまで距離がある。七十六パーセントでは届かない。下り口も同じだ。
残るのは、北壁の二段目だけになった。
ノートに実測値を書き込む。七六パーセント。候補三→一。
選べないというのは、そこが駄目だったときに、その日が無駄になるということだ。往復二十六時間と、四万五千円と、有給のない一日が消える。
予備の案がないまま降りるのは、十五年で四度目だ。四度のうち二度は、その日を無駄にして帰ってきた。
◇
夜、須賀原にメッセージを送った。
『第二十層の節点、電池が三割です。四月の点検で交換されていないと思います。外注さんに伝えてもらえますか』
既読はつかない。彼はいつも返信が早い。夜中でも一分で返してくる男だ。
三十分待って、風呂を沸かした。上がっても、まだ来ていなかった。
携帯を伏せて、棚の上から書類ケースを下ろした。
青焼きの図面を、作業台に広げる。
紙は褪せて、線が薄い。第一層から第五十層までの縦の断面図に、節点の位置が丸で打ってある。丸の横に、細かい字で注記が入っている。
第三十九層の欄。
北壁 二段目 要確認
同じ結論だ。十五年前に、誰かが同じ場所を選んでいる。
俺はそのことに、特に何も思わない。この図面は十五年見続けている。線の掠れ方も、折り目の位置も、全部覚えている。もう風景だ。
図面の右下に、一行だけ、注記とは違う筆跡で何か書いてある。
俺はそこを読まない。読まないと決めているのではなく、読む日ではない、というだけだ。
畳んで、背嚢に入れた。
雨が抜けたら降りる。予報では金曜に上がる。中古一台と、棚に残っていた使いかけの電池が二本。第三十九層の北壁、二段目。
雨の日に降りないのは、坑の下のほうで水位が上がるからだ。三十九層の北壁は、水を被ると足場が消える。
携帯が光った。ニュースの通知だ。
『第三十八層からの攻略配信、視聴数が急増 「見えなかった階層」に注目集まる』
俺は通知を消した。
深層の映像は、この二週間で少しずつ増えている。三十七層が映り、三十八層が映り、来週には三十九層が映るようになる。
地上でそれを面白がっている人間は、たぶん何十万人かいる。
誰も、床の話はしない。




