第33話 四百七十四台です
臨時取締役会は、四十分で終わった。
八月三十日、日曜。株式会社天穹本部、三十三階。
議題は一つだった。資料は五枚。読み上げたのは監査役だった。
七月二十七日の通信途絶と、それに伴う遭難。第二四半期の広告収益の減少見込み、十一億円。契約解除を通知してきたスポンサーが六社。株価は八月十八日の会見以降、四営業日で二十二パーセント下げている。
「以上です」
誰も質問しなかった。
数字はどれも正確で、どれも反論の余地がない。この部屋は数字で動く部屋で、梶原はその作法を誰よりも守ってきた。今日の資料も、彼の部下が彼のやり方で作っている。
梶原篤は、いつもと同じ位置に座っていた。長机の中央から二つ左。ネクタイの結び目が乱れていない。
「梶原さん」
議長が言った。
「はい」
「あなたが削った四千二百万円の話は、もう誰も覚えていません」
彼は資料を閉じた。
「覚えられているのは、あの一言だけです」
会見の映像は、切り抜きが出回っている。十四秒の動画で、再生数が四千万を超えた。灯の告発動画の切り抜きよりも多い。
一台、外しただけです。
その十四秒に、四千万人がついた。
彼が十五年かけて積み上げた実績は、社内の資料の中にしかない。社外に出ている彼の映像は、この十四秒だけだ。
梶原は上着の内ポケットから封筒を出した。用意してきたものだ。今朝、家で書いた。
「本日付でお願いします」
「弁明は」
「ありません」
「あの発言の意図を説明する機会は、まだ作れますが」
「意図はありませんでした」
議長が顔を上げた。
「一台外せば済むと、本当に思っていました。それだけです」
彼は封筒を机に置いた。置いてから、角を指で揃えた。癖だった。
四十分で終わった。
◇
同じ日の午後、江東区。
シャッターを半分上げたところに、人が立っていた。
背嚢を担いで出るところだったので、俺は一度、荷物を土間に下ろした。
男は私服だった。半袖のシャツにスラックス。腕時計はしていない。
顔を見るまで、誰か分からなかった。
スーツで会っていた人間を私服で見ると、たいてい分からない。それとは別に、俺はこの人の顔をよく覚えていなかった。
「網代さん、ですね」
「はい」
梶原さんだった。
会議室で二度、会っている。六月一日と、その前の年の予算の説明で一度。どちらも彼は資料を見ていて、俺の顔をほとんど見なかった。
いまは、見ている。
こちらの顔を、正面から見ている。
「今日付で、辞めました」
「そうですか」
「ニュースは明日の朝に出ます。その前に、伺おうと思いまして」
「わざわざですか」
「はい」
彼は一歩も近づいてこなかった。シャッターの外に立ったままだ。
運河のほうから風が来る。八月の終わりの、まだ熱を持った風だった。
「私は、あなたが何をしていたか、知りませんでした」
「そうだと思います」
俺はそう答えた。責めたつもりはない。実際、知らなかったはずだ。知っていたら、あの会議で四千二百万円の話にはならない。
「先月、初めて数えました」
梶原さんは言った。
「四百七十三台という数字を、自分の電卓で数えました。設備課の人件費が十五年で六億三千万、一台あたり十三万円、そのうち八万が機材で、五万が人の分です」
「はい」
「第四十七層まで往復四十時間の作業が、五万円でした」
彼はそこで言葉を切った。
「その五万円を、私は費用として見ていました。費用は減らすものです。減らせば数字がよくなる。二十年、その仕事をしてきました」
「はい」
「あなたの十五年ぶんの仕事は、コストなんですよ、と申し上げました。六月一日に」
「言われました」
「あれは、間違っていました」
「いえ」
俺は言った。
「コストだったのは、たぶん本当です。回収できないので」
俺は少し考えて、訂正した。
「四百七十四台です」
彼の顔が動いた。
「二十七日に、一台外したので。据えた台数は四百七十四で、いま生きているのが四百七十三です」
梶原さんは、何も言わなかった。
訂正したかっただけだ。数字が一つずれていると、落ち着かない。記録の話をするなら、正確なほうがいい。
言ってから、彼が息を止めているのに気づいた。
外した一台の話をしたことになる。あれを外させたのはこの人で、外したのは俺だ。台数の話をすると、必ずその日の話になる。
そこまで考えていなかった。
彼はしばらく、シャッターの縁のあたりを見ていた。
運河のほうで、船が鳴った。夕方の便だ。この時間に必ず一度鳴る。
「……網代さん」
「はい」
「私は」
そこで止まった。
続きを探しているのが分かった。彼は数字で説明する人だ。数字のない話を、たぶん十年以上していない。
謝罪の言葉を探しているのだと思う。
俺は待たなかった。待つと、彼が言えないままここに立ち続けることになる。
それに、謝られても困る。この人が謝る相手は、俺ではなくて第四十一層に八日いた八人のはずだ。八人はもう退院している。会いに行ったかどうかは、聞かなかった。
「すみません」
俺は腕時計を見た。
「入坑の時間なので」
梶原さんが顔を上げた。
「……行かれるんですか」
「はい」
「今日も」
「今日もです」
俺は背嚢を担ぎ直した。二十四キロ。第四十八層の下見なので、中継機は入っていない。測定器と、食料と、水と、記録用の紙。
シャッターを下ろすとき、彼はまだそこにいた。
道を歩き出して、二十メートルほどで一度だけ振り返った。
彼は同じ場所に立っていた。腕時計をしていない手を、そのまま下げている。
あの人は、部下の名前を全部覚えている人だと総務の誰かが言っていた。名前は覚えて、顔は見ない。両立するものらしい、と六月に思った。
今日は、顔だけ見て帰った。
◇
坑口まで歩いて二十分。
道すがら、考えていたのは第四十八層の節点のことだった。
図面の注記は、東壁 中段 濃度要再測。白鳥さんは実測していない。四十層より下の数字は、上の階層の伸び方から外挿した推定だ。
四十層から四十七層までは、推定と実測の差が平均で〇・〇四だった。推定より実測のほうが高い。深いほど、その差が開いている。
四十八層で同じ傾向が続くなら、濃度は〇・六三前後になる。
〇・六を超えると、人間の側が保たない。頭痛と吐き気が出て、判断が鈍る。
与圧装備が要る。
持っていない。中古でも十二万円する。浅利さんへの四十八万円が、まだ半分も返せていない。
今日は下見だ。四十七層まで降りて、四十八層の下り口の手前で濃度を測って、引き返す。往復で四十時間。測るためだけに二日使う。
測らずに行くと、判断が鈍った状態で据えることになる。それだけは、やらないと決めている。
携帯が震えた。灯からだった。
『見た? 辞めたって』
『はい』
『それだけ?』
『作業があるので』
『そう』
既読がついて、それきりだった。彼女はいつも短い。用件が済むと切る。切るのがうまい人だと思う。
旧倉庫街の路地を抜けて、地下二階への階段を降りた。
受付で作業許可証を出す。同行者欄は空欄のままだ。
職員は判を押した。若い人で、判を押してから顔を上げた。
「あの」
「はい」
「テレビの」
「たぶん、別の人です」
彼は少し笑って、それ以上言わなかった。
「網代さん、通達は解除になってます」
「そうですか」
「昨日付で。上から連絡が来てます」
「わかりました」
単独で入れることになったらしい。二か月ぶりだ。
坑口の前に立った。
通路の奥から、いつもの空気が来る。乾いた岩と、金属と、少し湿った風。十八年、この匂いは変わっていない。
「お邪魔します」
誰にも聞こえない声で言う。
十五年、一度も欠かしたことがない。
第四十八層まで、あと一段だ。




