第31話 白鳥さんの機材は、残っていますか
協会は三日で、十五年変えなかったものを変えると言い出した。
八月二十日、午前十時。日本坑管理協会本部、理事会室。
議題は二つあった。前の週まで、どちらも予定になかったものだ。
一つ、坑内到達記録の認定区分の見直しについて。
二つ、坑内設備の設置記録票の様式改正について。
「一つ目から」
議長を務める理事が、資料を開いた。
「現行の到達記録は、探索者登録者のみを対象としています。これを改め、設備作業その他の非戦闘業務に従事する者の到達についても、記録および認定の対象とする新区分を設ける。……こういう案です」
「反対はないだろう」
別の理事が言った。
「反対したら、今度は理事会が叩かれる」
誰も笑わなかった。
会見から二日で、協会には抗議の電話が三千件以上入っている。所管の省庁からの照会が二件。制度を守るために十五年動かなかった組織が、二日で動いている。
動機は不純だが、出てくる案は正しい。早見はそのことを、皮肉だとは思わなかった。正しい案が出るのなら、動機は誰のものでもいい。
「二つ目です。設置記録票の様式に、作業者名の記載欄を追加します。協会指定様式ですので、改正すれば全事業者の帳票が変わります」
「十五年、なかったのか」
「ございませんでした」
「なぜだ」
「設備は会社が据えるもので、人が据えるものではない、という整理だったと思われます。様式を作ったのは開門の翌年で、当時の起案者はもう協会におりません」
「その整理で、十五年」
「十八年です」
早見総一は、議事録の欄に手書きで書き込みをしていた。この部署の長は、記録を必ず自分の手で清書する。二十六年、そうしている。
「で」
議長が資料を閉じた。
「新区分の第一号認定は、誰にする」
部屋が静かになった。答えは全員の頭に一つしかない。
「網代亮さん、と申し上げるつもりでしたが」
早見が言った。
「本人の同意は」
「連絡が取れません」
「取れない、というのは」
「電話に出られません。着信が三十件を超えている状態だと思われます。それと、坑に入っておられるようです」
議長が眉を上げた。
「この時期に?」
「第四十二層で測定をされていたようです。会見の日に」
誰かが「会見の日に」と繰り返した。
その日の午後二時、会見場には百七十人がいて、四社が中継していた。同じ時刻、当人は第四十二層で濃度計の数字が落ち着くのを待っていた。
制度が十五年ぶりに人を探していて、その人は坑の中にいる。
「文書で通知を出せ」
「出しました。用件の欄を埋めて」
七月に出した出頭要請は、用件の欄が空白だった。今回は埋めた。埋めるまでに三十分かかった。書式に、そういうことを書く欄がない。
「返答は」
「ありません」
早見はペンを置いた。
「私が、伺います」
◇
午後四時、江東区。
シャッターを半分上げたところに、スーツの男が立っていた。
協会の面談室で見た顔だ。背筋の伸び方が同じで、立ち方も同じだった。ただ、あのときは机の向こうにいた。
「網代さん」
「早見さん」
土間には新聞紙が敷いてあって、その上に工具と、分解した測定器が広がっている。座る場所がない。俺は工具箱を寄せた。この人が座るとは思わなかったが、他にできることがない。
彼は座らなかった。革靴の先に、土間の埃がついている。
「制度を、改めます」
「はい」
「非戦闘職の到達記録を認定する区分を新設します。設置記録票にも、作業者名の欄を作ります」
「そうですか」
声の出し方が、たぶん薄かった。早見の眉が少し動いた。
「第一号として、あなたの十五年を認定したい」
俺は測定器のカバーを閉じた。ねじを二本、締める。
「はい」
「同意していただけますか」
彼は原稿を持っていない。今日は、たぶん自分の言葉で喋っている。
俺は少し考えた。
考えたのは、同意するかどうかではない。この人に聞けることが一つある、ということのほうだった。
「その前に、伺っていいですか」
「はい」
「第五十層に、白鳥さんの機材は、残っていますか」
早見の口が、開いたまま止まった。
風が入ってきて、新聞紙の端が持ち上がった。俺は手で押さえた。
「白鳥さんは、二台持って降りたと聞きました。四十八層と四十九層と五十層に置くつもりで、二台しかなかったと」
「……はい」
「どこに置いたかは、記録に残っていますか」
「残っていません」
「二台の型番は」
早見は上着の内側から手帳を出した。ページをめくる手が速い。この十五年、何度もめくったページなのだと思った。
「TR-一一〇八A。協会が二〇一〇年度に調達したものです」
「電池は内蔵型ですか」
「……そこまでは」
「一一〇八Aなら、外付けです。蓋を開けて替えられます」
早見は手帳を持ったまま、動かなかった。
「潜行計画書は」
「予定だけです。実際に置いたかどうかは、誰も確認していません」
「確認しに行った人は」
「いません」
早見は、そこで一度言葉を切った。
「誰も、そこまで行っていないので」
俺はねじを締め終えて、測定器を棚に上げた。
「なら、行きます」
「え」
「三層です。四十八層、四十九層、五十層」
彼はこちらを見ていた。
俺は自分が変なことを言ったとは思っていない。図面には丸が三つ残っていて、そのうち二つには白鳥さんの機材があるかもしれない。あれば、電池を替えれば使える。なければ、新しく据える。
どちらにしても、行かないと分からない。
十五年、その紙のとおりに埋めてきた。書いた人が実際にどこまで行ったのかは、書いていない。書いていないことは、行って見るしかない。
「網代さん」
「はい」
「認定の話は」
「あとでいいです」
「あとで、ですか」
「先に、通したいので」
早見は何か言おうとして、やめた。
「網代さん」
「はい」
「会見で、あなたの到達は記録できないと申し上げました」
「聞きました」
「聞いておられたのですか」
「音だけ。四十二層で流してました」
早見の顔から、表情が一度なくなった。
「そうですか」
「あれは、正しい説明だと思います。様式がないので」
「様式は、作ります」
「そうですか」
それから彼は、深く頭を下げた。会見のときの角度より、深かった。
下げられても、返すものがない。俺は測定器の棚のほうを見ていた。
◇
彼が帰ったあと、ノートを開いた。
第四十八層。図面の注記は、東壁 中段 濃度要再測。
第四十九層。下り口正面 岩棚 落石注意。
第五十層。丸だけ。
必要な機材を数える。
三台。ただし、四十八層以深は前例がない。濃度の実測値がなく、白鳥さんの推定しかない。推定が外れれば、位置を変える。位置を変えれば、出力が足りなくなる可能性がある。
予備を二台。合わせて五台。
五台で四十万円。
浅利さんへの四十八万円が、まだ返せていない。
それと、重さの問題がある。
第四十七層まで片道十九時間。第五十層なら二十一時間。往復で四十二時間。食料と水と予備電池で九キロ。工具が四キロ。
残りは十二キロ。
中継機は一台十一キロだ。
一回に一台しか運べない。五台なら五往復。一往復四十二時間で、間に休養を入れると、二か月半かかる。
二か月半のあいだに、上の階層の電池が四本切れる。切れるたびに、そこから下が消える。消えたら、また上から順に埋め直すことになる。
十五年、この計算をしてきた。一人でやる限り、この計算は変わらない。
紙の上で、何度計算しても同じ答えになる。
俺は鉛筆を置いた。
携帯が、さっきから震えている。伏せて置いてあるので、机の板が鳴る。
着信履歴を開いた。
三十七件。全部、知らない番号だった。報道か、協会か、どこかの会社か。出ていない。出る理由が思いつかない。
その中に一件だけ、知っている番号が混ざっていた。
昨日の夜に二回、今日の昼に一回。留守番電話は入っていない。
須賀原望。




