第29話 三十層に、与圧装備は要らない
【79:装備の受領記録が残ってた】
八月十五日、未明。
【80:どこの】
【81:協会の開示請求。二〇一一年度の物品受領簿。事故報告書は不開示だったが、受領簿は出た】
【82:中身】
【83:二〇一一年三月十一日付。受領者、通信班・白鳥慧。名前が出てる】
【84:班長の名前だ】
【85:受領品目を貼る】
【86:中継機二台。与圧装備一式。深層用照明二基。予備電池十二本。携行食四日分。医療パック】
【87:与圧装備?】
【88:待て。第三十層での事故ってことになってるよな】
【89:なってる】
【90:三十層に与圧装備は要らない】
【91:要らないな】
【92:説明。与圧装備は魔素濃度0.6以上の区画で使う。呼吸に混ざると頭痛と吐き気が出て判断が鈍るからだ。0.6を超えるのは第四十五層から下】
【93:三十層は】
【94:0.3前後。マスクすら要らない】
【95:じゃあなんで持ってったんだ】
【96:予備電池十二本ってのも変だ】
【97:計算する。坑内用ヘッドランプの連続点灯が約六時間。十二本で七十二時間。予備を含めて片道二十時間ぶんの想定だ】
【98:第三十層までは片道八時間だぞ】
【99:往復十六時間。電池は三本で足りる】
【100:携行食四日分】
【101:三十層に四日いる用事はない】
【102:おい】
【103:やめろ】
【104:何を】
【105:言わないぞ。俺は絶対に言わないからな】
【106:言えよ】
【107:】
【108:じゃあ俺が書く】
【109:白鳥班長は、第三十層で死んでない】
【110:もっと下だ】
【111:与圧装備が要る深さってことは、四十五層より下】
【112:十五年前の公式発表が嘘だってことになる】
【113:嘘っていうか】
【114:書き換えだ】
【115:誰が書いた】
【116:協会の記録管理部】
【117:いまDBを閉じてる部署だ】
【118:会見、三日後だぞ】
【119:一個だけ確認させてくれ】
【120:どうぞ】
【121:AJの一番古い日付は二〇一一年六月。班が解散した翌月だ】
【122:そうだ】
【123:班長が死んだ場所を隠して、班を潰して、その翌月から、別の誰かが一人で同じことを始めてる】
【124:始めてるな】
【125:その誰かは、班長がどこで死んだか知ってたのか】
【126:】
【127:知ってたら、十五年黙ってるのは無理だ】
【128:じゃあ知らないんだ】
【129:知らずに、十五年、同じ場所を埋め続けてたのか】
【130:やめろ】
【131:やめない】
その夜のうちに、関連スレは十本に増えた。板の記録が、また更新された。
◇
同じ日の午後、秋葉原の裏通り。
浅利無線のシャッターは上がっている。店には客がいない。八月の土曜の午後で、表通りは人が多いが、この路地までは来ない。
午後三時を過ぎたころ、表の路地に車が停まった。タクシーだ。この路地にタクシーが入ってくることは、月に一度もない。
スーツの男が入ってきた。
部品屋の床にスーツは似合わない。半田と埃の匂いの中で、その男だけが違う場所から持ってきたもののように立っていた。
「浅利さん」
浅利は顔を上げた。それから、しばらく何も言わなかった。
浅利の指がボールペンの上で止まった。
「よく来られたな」
「はい」
「十五年か」
「十五年です」
早見総一は、それ以上入ってこなかった。入口から二歩の位置に立っている。
「花を、毎年」
早見が言った。
「三月に、届けています」
「知ってる」
浅利はカウンターの上のボールペンを転がした。
「墓の管理人に聞いた。名前を書かねえ客がいるって。花だけ置いて、包み紙は持って帰るって」
早見は答えなかった。
浅利は三年目にその話を聞いて、四年目に一度、命日に張り込んだことがある。朝の六時に行った。花はもう置いてあった。それきりやめた。
「あんた、包み紙を捨てられねえだろ」
「はい」
外を人が通った。話し声が遠ざかる。
「三日後、会見に立ちます」
「聞いた。テレビでやってた」
「何を言うべきか、まだ決めていません」
「決まってねえのに来たのか」
「決めるために来ました」
「俺に何が言えると思ってんだ」
「分かりません」
「分からねえのに来たのか」
「はい」
浅利は椅子から立ち上がった。
店の奥へ歩いて、部品箱の隙間を抜けて、壁の前で止まる。
ハンガーに、紺の作業服が掛かっている。二週間前に一度外して、また掛けた。埃は落としてある。
「あれ、あいつのだ」
早見が、初めて奥を見た。
「班が解散したとき、荷物は全部、遺族に渡した。これだけ残った。ロッカーに掛かってて、伝票に載ってなかったからだ」
「はい」
「取りに来る奴がいなかったから、置いてある」
早見は動かなかった。十五年、彼はこの店に来ていない。作業服を見るのも初めてだ。
胸に刺繍がある。日本坑管理協会、通信班。いまはもう存在しない部署の名前だ。
「あんたが書き換えたんだろ」
浅利が言った。声は普通だった。責める調子がない。
「三十層って」
「はい」
「なんで」
早見は、一度目を閉じた。
「班を、続けさせないためです」
「あ?」
「白鳥班長が第五十層で死んだと発表すれば、通信班は続きました。班員が四人残っていましたし、世論も動いたはずです。班長が到達した最深部が公式記録より八層深いということになれば、協会は予算をつけざるを得なかった」
「いいことじゃねえか」
「次に死ぬのは、四人全員だと思いました」
浅利の手が止まった。
「あの人は、二台で行きました。三台要ると言って、二台で行った。班員は全員それを知っていて、誰も止めなかった。止めない班です。次に予算がついたら、同じことを四人でやります」
「……」
「第三十層の事故ということにすれば、班は解散になります。解散になれば、誰も行かなくなる」
早見はそこで、初めて視線を落とした。
「そう考えました。二十六歳から協会にいて、十四年目でした。その判断が正しかったかどうかは、いまも分かりません」
浅利は作業服のほうを見ていた。
「四人は」
「三人は坑に関わらない部署に移りました。一人は辞めました」
「誰も死んでねえな」
「はい」
「そのうち一人は、うちに来る客だった」
早見が顔を上げた。
「資材だ。俺だよ」
「……はい」
「俺は辞めたほうだ」
浅利は鼻から息を出した。笑ったのではない。
「じゃあ、あんたの読みは当たってたんだ」
「当たっていたと思います」
「思います、か」
「十五年後に、たった一人で第四十七層まで埋めた人間が出てくるとは、思っていませんでした」
店の中が静かになった。
「あの人は、班を続けさせなくても、続けました」
早見は言った。
「私が消したのは、班ではなかったのかもしれません」
◇
その夜、江東区の作業場。
俺は土間で図面を広げていた。
肩は少しよくなった。整骨院に二回行って、二千八百円ずつ払った。上げるとまだ痛いが、前には出る。
浅利さんへの四十八万円は、まだ返せていない。八月の入金は二十日で、家賃を引くと十万も残らない。返し終わるのに半年かかる計算になる。
半年かかると言ったら、返せるときでいい、と言われた。それはもう、六月にも聞いた台詞だ。
第四十八層の節点。図面の丸には、注記が入っている。
東壁 中段 濃度要再測
第四十九層。
下り口正面 岩棚 落石注意
第五十層。
注記がない。丸だけが打ってある。
濃度も、地形も、書いていない。書けなかったのだと思う。あの人も、そこまでは行っていなかったから。
携帯が鳴った。灯からだ。
「明後日の会見、見る?」
「作業があるので」
「作業って」
「第四十二層の測定です。三年ぶんの季節変動を取ってあるので、今年の八月も取っておきたいんです」
「会見の日に?」
「会見の日じゃないと、坑が空いてます」
電話の向こうで、息を吐く音がした。
「あんた、自分の話をされてる会見なんだけど」
「俺の名前は出ないと思います」
「出るよ」
「出ても、俺は坑にいるので」
「……分かった」
切れた。
俺は図面に目を戻した。
残り三層。第四十八層、第四十九層、第五十層。
あと三層だ、と、十五年前に同じ紙の前で言った人がいる。
先月、初めて聞いた話だ。




