第17話 一人のほうが、安全なんです
「連れてって」
七月十三日の午前四時半、坑口の階段の下に、その人が立っていた。
装備は昨日と同じ、継ぎ接ぎのやつ。ただ、荷物が増えている。三日ぶんの食料と水。予備のランプ。ロープ。全部、深いところへ行く人の装備だ。
坑口の階段はまだ照明が半分しか点いていない。受付のシャッターも上がり切っていない。この時間に来る人間は多くない。
彼女は昨日から待っていたわけではないと思う。ただ、俺がこの時間に入ることを、どこかで調べてきたらしい。
「無理です」
「なんで」
「入坑の書類が」
「五人目でしょ。私、B級だから、同行者としては書類が通る。むしろ私が入ったほうが正規になる」
その通りだった。
俺の同行者欄は、いま中層のクランの隊列を借りて埋めている。灰色のやり方だ。探索者登録のあるB級が同行者に入れば、書類は完全に白くなる。
「装備も、たぶん私のほうが上。第三十二層まで四年通ってる。魔物の避け方も分かる」
これも、その通りだった。
「あんた、右腕上がってないでしょ。昨日、見た」
「上がります。前には」
「上には上がってない」
俺は背嚢の紐を締め直した。左手で。右の肩は、まだ熱を持っている。湿布を三枚重ねて、その上からサポーターを巻いてきた。
昨日、彼女の配信が伸びているのは知っていた。通知が二百件溜まっていた。開かなかった。
「一人のほうが、安全なんです」
「意味わかんない」
彼女は一歩詰めてきた。今度は距離を取らなかった。
「B級の私がいたほうが安全でしょ。何言ってんの」
「……そうなんですけど」
「そうなんですけど、じゃなくて」
説明できない。
据え付けをしている間、俺は魔物に見つからない。手を離せば終わる。理由は知らない。鑑定書に書いていない。二十一のときに一度受けただけで、それ以来調べていない。
人が横にいたらどうなるかは、試したことがない。
試したことがないというより、試す機会がなかった。十五年、深層に一緒に降りてくれた人が一人もいなかった。
もし、俺の横にいる人には効かないとしたら。
俺が据えている三時間のあいだ、その人だけが、そこに立っている人間として扱われることになる。据え付けの最中、俺は音を出す。工具の音も、金属が岩に当たる音も出る。
いままでは、音を出しても見つからなかった。横に人がいたら、その音は、その人のものになる。
それは、たぶん、俺が一人で降りるより危ない。
説明するには、まず自分の技能の話をしないといけない。技能の話をするには、なぜそうなるかを言わないといけない。
言えない。知らないからだ。
「言いたくないんだ」
「言えないんです」
「同じでしょ」
「違います」
彼女は俺の顔を見た。目つきが悪い。怒っているわけではないらしい。
「じゃあ三十二層まで」
「え」
「三十二層まで一緒に行く。そこで待つ。あんたが上がってくるのを待つ。それなら文句ないでしょ」
「待つって、何時間になるか」
「知ってる。四年通ってるから」
断る理由が、思いつかなかった。
第三十二層までなら、彼女の庭だ。四年通っている。俺より詳しい可能性すらある。
「霧島」
彼女はそう言った。
「霧島灯。名前。まだ言ってなかった」
「網代です」
「知ってる。あんたの会社、先月潰れたんでしょ」
「潰れてはいないです。俺が切られただけです」
「ふーん」
彼女はカメラのレンズを袖で拭いた。二回。
「霧島さん」
「なに」
「三十二層で待つあいだ、行き止まりの前に座らないほうがいいです。あそこは空気が動かないので、長時間いると頭が痛くなります。二十メートル手前の分岐のほうが、風が来ます」
「……四年通ってるけど、知らなかった」
「測ったことがないと、分からないと思います」
◇
第三十二層で別れた。
彼女は行き止まりのほうへ歩いていって、壁の箱の前に座った。カメラは出さなかった。
そこから下は、俺だけになる。
第四十二層に着いたのが、その日の午後八時半。
協会が認定している人類の踏破記録は、ここまでだ。
節点はAJ-0451。二〇二四年の四月に据えた。電池はまだ持つ。今日は出力の実測だけして、上位ノードとの疎通を確認する。数字を控えて、蓋を閉める。十二分で終わった。
ここに来るたびに思うことがある。この階層に人が立ったのは、公式には二〇二三年の秋だ。そのとき映像は上がっていない。回線が届いていなかった。
いま、ここは映る。第四十二層からの生中継は、去年から何本も上がっている。
その映像を成立させている箱の前に立っているのが、記録の上ではこの階層に一度も来ていないことになっている人間だというのは、書類の都合であって、坑の都合ではない。
第四十三層。
ここは面倒だ。
夏になると、魔素の吹き溜まりが動く。この階層は西側に横穴があって、そこから空気が入ってくる。冬は流れが安定していて、東の壁面でも通る。七月から九月にかけては、その流れが弱くなって、東側に魔素が溜まる。
冬に据えた位置のままだと、夏だけ減衰が二桁変わる。
だから、夏は角度を変える。
外装のアンテナ部を緩めて、二十二度、北へ振る。振ってから出力を測る。足りない。もう三度。足りない。戻す。
四回やり直して、通った。一時間十分かかった。
汗が顎から落ちて、床の砂に跡をつける。この階層は乾いている。
この作業は、ノートには書いてある。手順書には書いていない。書き方が分からないからだ。「夏は北へ二十五度」と書いても、その年の気温と湿度で変わる。測って合わせるしかない。
測り方は書ける。合わせ方は書けない。十五年やって、まだ書けていない。
作業の途中で、十メートル先の通路を何かが通った。
大きい。掘り手ではない。足の数が多い音がする。
俺はアンテナの根元に手を当てたまま、動かなかった。
通り過ぎるのに一分半かかった。
手を離してから、三十数えて、それから工具を片付けた。
第四十四層。
AJ-0463。電池が二割を切っている。天穹が保守から降りた十七か所のうちの一つで、今月中に落ちる予定のやつだ。
交換して、配線の被覆が擦れていたので張り直した。壁の角に当たっていて、あと一年で芯が出る。
四分の作業が、四十分になった。右腕が使えないからだ。
配線を張り直すには、両手を上げて、片方で押さえて片方で締める。上がらない腕をどうにか肘の高さまで持ってきて、あとは背中と首で支えた。三回、工具を落とした。
終わって、蓋を閉めて、刻印の下に日付を書いた。
2026.7.14
日付が変わっていた。
◇
第三十二層に戻ったのは、七月十四日の深夜だった。
行き止まりの前に、彼女がいた。
寝袋を敷いて、その上に座っている。カメラは畳んだまま。ランプを最小に絞って、壁の箱を見ていた。
「待ってました?」
「一回上がった。寝て、また降りてきた」
「そうですか」
「三十時間くらいでしょ、あんたが戻ってくるまで。計算した」
合っている。三十一時間半だ。
「どうやって計算したんですか」
「三十二層まで九時間かかった。あんたのペースだと、一層あたり四十分くらい。四十四層まで八時間。作業が三か所で三時間から四時間。帰りは同じ。足したら三十時間」
「合ってます」
「そりゃ、四年やってれば分かる」
「四十四層まで行ったんでしょ」
「はい」
「協会の記録、四十二層だけど」
「そうですね」
「四十四層に、あんたの箱があるの」
「四十七層まであります」
彼女は寝袋の上で膝を抱えた。
「……それ、記録には」
「登録してないので、残らないんです。作業許可証は第十層までのものなので、それより下に行った記録は、書く欄がありません」
「欄がない」
「はい」
「欄を作れって言えばいいじゃん」
「言う先が、たぶんないです」
彼女は黙った。ランプの光が壁の箱に当たって、AJ-0243の刻印が浮いている。
「それ、おかしいと思わないの」
「思わないです」
「思えよ」
声が低かった。彼女は俺を見ていなかった。壁の箱を見ていた。
「あんたが四十七層まで降りて置いたから、私はここまで撮れてる。三十二層まで撮れてるのは、あんたが十五年前にここに置いたから。それを、記録する欄がない」
「制度がそうなので」
「制度がそうなら、私が記録する」
彼女は立ち上がって、寝袋を丸めた。
「私、撮るから」
「何をですか」
「あんたが置いてる箱、全部」




