第15話 カメラ、切りますね
右の肩が、上がらなくなった。
七月十一日の朝、布団から起き上がろうとして、右腕が言うことを聞かなかった。肘から先は動く。肩の付け根だけが、力を入れると熱を持つ。
六月に四回、七月に入って四回降りている。そのうち三回は片手作業の姿勢があった。使いすぎだ。
湿布を三枚重ねて貼って、サポーターを巻いた。腕を回すと、肩の奥で何かが引っかかる。上には上がらない。前には出る。
前に出れば、据えられる。梯子は左手で登る。
病院に行けば、たぶん一週間休めと言われる。行かなければ、言われない。
通帳には十二万ある。七月の家賃は払った。八月ぶんは、まだない。
土間に座って、ノートを開いた。
天穹が保守から降りた区間の節点、十七か所。電池の残量と、切れる予定日を書き出す。
第二十七層、八月十日。
第三十一層、八月二十四日。
第三十四層、九月七日。
第二十九層、九月十九日。
三十日で十七か所。一日に一か所降りたとしても、往復に丸一日かかるところが十一ある。物理的に足りない。
まとめて回れないかを、二時間かけて検討した。第三十一層と第三十四層は同じ日に行ける。第二十九層は経路が別で、通り道にならない。四か所を一回で回る経路が一本だけあるが、背嚢の重さが二十八キロになる。積めない。
電池代は九千円が十七本で、十五万三千円。手元は十二万。
足りないものを数えても増えないので、順番だけ決めた。深いところから潰す。深いところが落ちると、影響する階層の数が多いからだ。
いちばん早く落ちるのは第二十七層で、それが浅いほうにある。浅いところが落ちると下が全部消えるので、結局そこからになる。
順番を決め直して、同じ結論に戻った。
◇
坑口の受付で、判をもらった。
単独ではない。第二十四層の保守を請けているクランの隊に、名前を入れてもらった。四人の隊列の五人目として入坑して、第五層で別れる。
規則違反だ。書類の上では二名以上の同行になっている。実態は違う。
協会の通達は「単独入坑を受付段階で止める」というもので、同行者欄が埋まっていれば通る。埋め方までは書いていない。
通してくれたクランのリーダーには、来月の保守を一件、無料でやると言った。
「別にいいよ、そんなの」
「よくないので、やります」
「網代さん、それ、いつも損してるでしょ」
「計算はしてます」
計算はしている。合わないことも知っている。
第二十七層に着いたのは、午後二時だった。
節点は通路の中ほど、壁の窪みの奥にある。AJ-0187、二〇二二年十月設置。
蓋を開けて、残量を見た。
九パーセント。
八月十日の予定が、前倒しになっている。この夏は暑い。地上が暑い年は、浅層の湿度が上がる。
電池を差し替える。四分で終わる作業だが、右肩が上がらないので、体をねじって左手でやった。八分かかった。
窪みの奥は空気が動かない。汗が流れて、目に入る。拭こうとして、右手が上がらないことをまた忘れていた。左手の甲で拭いた。手袋の匂いがした。
蓋を閉めて、ねじを四本。
筐体を袖で拭いて、刻印を出す。AJ-0187。その下に、二〇二二年の日付が書いてある。俺の字だ。
新しい日付を、その横に足した。
2026.7.11
油性ペンのインクが、湿気で少し滲んだ。
背後で、光が動いた。
◇
通路の入口のほうから、ヘッドランプの光が伸びてきた。二十メートルほど後ろだ。
声がする。
『——で、この二十七層なんですけど、ここ最近ちょっと変で』
早口だ。息継ぎが少ない。第八層のあたりでも同じ調子で喋っていた気がする。
『先月まで、二十七層の下で映像が飛ぶ日があったんですよ。今日は飛んでない。なんか、直ってる』
俺は振り向かなかった。作業は終わっている。工具を袋に戻して、背嚢の紐を締めていた。
光が止まった。
『……あ』
声が変わった。早口が消えて、低くなった。
『すみません、ちょっとカメラ切りますね』
カチ、と音がした。
足音が二歩、近づいて、止まった。
俺は背嚢を背負って、振り向いた。
この前の人だった。第三十二層で会った、背の高い人。カメラを胸の前で下ろしている。
「あんた」
「どうも」
「……なんで、二十七層」
「電池が切れそうだったので」
彼女はしばらく黙っていた。ヘッドランプの光が、俺の足元の工具袋に当たっている。
「切れそうって、なんで分かるの」
「据えたのが自分なので、いつ切れるか計算できます」
「据えた」
「はい」
「これ、あんたが置いたの」
「四年前です」
「他のは」
「他のも、だいたいそうです」
彼女は何か言おうとして、やめた。喉のところで一度、言葉が引っかかったのが見えた。
「行くの」
「上がります。そちらは」
「三十二層」
「今日は水が多いです。二十九層の下り、右の壁沿いのほうが乾いてます」
彼女は少し黙った。
「なんで知ってるの」
「さっき通ったので」
「そう」
「気をつけて」
俺は通路を戻った。すれ違うとき、彼女は壁のほうへ体を寄せた。坑の中で他人とすれ違うときの、正しい避け方だ。
背中で、足音が遠ざかっていくのを聞いた。
それから、ぼそりと声がした。録音していない人の、独り言の音量だった。
「……なんで、ここ電波入るんですけど」
◇
地上に出たのは、夜の九時だった。
作業場に帰って、右腕を吊るようにして湿布を貼り直す。サポーターを外すと、肩の付け根が熱い。
片手でノートを開いた。
第27層/電池交換/AJ-0187/2026-07-11/残量100
十七か所のうち、一つ。
残り十六か所。二十九日。十一万一千円。
携帯が光った。須賀原からだった。
『二十七層、電池替わってました。うちの外注じゃないです』
『ありがとうございます』
俺は画面を見ていた。
返信の文面を、頭の中で三通り作った。三通りとも消した。
返信をすると、俺がやったことになる。
やったのは事実だが、それを自分の手柄として置いておくのは、なんだか違う気がする。あれは会社の資産で、俺は会社を辞めていて、頼まれてもいない。頼まれていない仕事を「やりました」と言うのは、押し売りに近い。
それに、礼を言われると、次も期待される。次があるかどうかは、俺の肩と通帳の話であって、約束できることではない。
言わなければ、期待されない。期待されなければ、裏切らない。
設置記録票の作業者欄が空欄なのは、十五年ずっとそうだった。空欄でいいと思ってきた。書く欄がないから書かないのだと思っていたが、たぶん、欄があっても書かない。
携帯を伏せた。
湿布の匂いが土間に広がっている。運河のほうで、深夜の船が一度鳴った。
◇
その夜、配信のアーカイブが公開された。
『【三十二層】いつもの行き止まりまで【アカリ】』
彼女は編集をしない。撮った素材を切らない。失敗も待ち時間も、全部そのまま出す。それがこの人のやり方だと、コメント欄がいつも褒めている。
三時間十二分の動画に、視聴が四万ついている。
【今日も行き止まりまで】
【安定の三十二層】
【でも二十七層のとこ、なんか映ってなかった?】
【え】
動画の一時間二十七分あたり。
第二十七層の通路。ヘッドランプの光が、二十メートル先の壁を照らす。
窪みの奥に、灰色の箱がある。
その前で、紺の作業服の男が、片手で蓋のねじを締めている。
『すみません、ちょっとカメラ切りますね』
声のあと、カチ、という音が入る。
映像は、切れていない。




