第13話 名前が入っていれば、聞けるのに
出頭要請。日時指定。用件の欄は、空白だった。
協会の書式というのはこういうものらしい。誰が出すのか、何を聞かれるのかは書いていない。書いてあるのは、七月一日午前十時、豊洲支局の面談室、という三つだけだ。
二日ある。
だったら、先に第二十四層の交換を済ませられる。
六月二十九日、午前六時入坑。背嚢に中継機が一台。今月最後の八万円が、この箱になっている。
梅雨明けが近い。坑口の階段が乾いていて、降りるときに靴底が鳴らない。第五層あたりまでは地上の気温が入ってくるので、この時期は暑い。作業服の背中がすぐ湿る。
第二十四層の節点は、下り階段の踊り場の上、天井から一メートル下がった位置にある。二〇一七年に据えたAJ-0201。電池が二割を切っていて、筐体のパッキンも硬化している。丸ごと入れ替える。
梯子を立てて、上に乗った。
外す工程に入る。手を当てて、据えたときの手順を逆から辿る。位置、角度、固定の順番。全部覚えている。覚えていないと外せない。
九年前に自分がどう手を置いたかを、体で思い出す作業だ。ノートに書いてあるのは位置と角度だけで、手の順番は書けない。書き方が分からない。
三分。
その三分のあいだ、第二十四層より下は圏外になる。
「あ」
下から声がした。
振り向くと、階段の下に須賀原が立っていた。作業服の上に、見慣れないヘルメット。その後ろに、別の会社の作業服の男が二人。
「網代さん」
「うん」
「なんで、ここに」
「保守です。個人で受けてます」
嘘ではない。中層のクランから、この階層の面倒を月に一件で請けている。金額は言わないが、往復十四時間で二万八千円だ。
後ろの二人が、何か言いたそうにこちらを見ていた。エヌ・ティー・サポートの人たちだろう。立会いの日らしい。
「そちら、どちらの業者さんですか」
年上のほうが聞いてきた。
「網代通信です」
「聞いたことないな」
「先月作りました」
彼は手元の書類を見て、それ以上は聞かなかった。第二十四層は彼らの契約範囲の外で、誰が触っていようと報告事項ではない。
「あの、それ」
須賀原が梯子の上を指した。
「どうやって外してるんですか」
「手前のボルトを抜いて」
「それはやりました」
彼はファイルを胸に抱えていた。付箋が四十七枚。角がへたっている。
「二十層のとき、僕、同じ手順でやったんです。四十一ページ、そのとおりに。ボルト全部抜いて、それでも動かなくて」
「うん」
「ここのは、動いてます。網代さんの手のところで、動いてます」
俺は手を止めた。
筐体は宙に浮いているわけではない。壁から離れて、俺の手のひらの上に乗っている。ただ、乗る前の三分間、他の誰がどれだけ力をかけても動かない状態だったのは事実だ。
説明する言葉を持っていない。
鑑定書には二行しか書いていない。据えたものが固定される。解除は術者本人のみ可能。読んでも、なぜそうなるかは書いていない。
俺は十五年、この二行の内側で仕事をしてきた。仕組みは知らない。知らないまま使っている。
技能というのはだいたいそういうものだと思っている。斬撃強化の人に、なぜ刃が伸びるのかと聞いても答えられない。伸びるから使っている。俺のは伸びないで、固まるだけだ。
「手順の問題じゃないんです」
言ってから、足りないと思って付け足した。
「すみません」
須賀原は何も言わなかった。後ろの二人が顔を見合わせた。
◇
昼、踊り場に座って握り飯を食った。
須賀原は立会いの書類を書き終えて、俺の三段下に座っている。エヌ・ティーの二人は先に上へ戻った。第二十四層は契約範囲外なので、立会いだけして帰るらしい。
「網代さん」
「うん」
「この手順書、誰が書いたか、まだ分かんないんです」
彼はファイルを膝に載せていた。
「総務にも、設備管理にも、記録がなくて。協会の様式集にも載ってなくて」
「そう」
「でも、すごく良く書けてるんです」
俺は握り飯を食っていた。
「たとえば十七層の項に、『梅雨の時期は先に排水を確認すること。順番を逆にすると二度手間になる』って書いてあるんです。手順書って普通、そういうこと書かないですよね。作業の順番だけ書けばいいのに」
「そうだね」
「書いた人、たぶん二度手間になったことがあるんだと思うんです」
なった。二〇一三年の六月に、四時間かけて据えてから、床が水没していることに気づいて全部やり直した。あのとき書き足した一行だ。
書いたときは、次に来る自分のために書いた。読む人がいるとは思っていなかった。
「四十一ページの図も、手描きなんです。梁の裏の角度が、七度って書いてあって。なんで七度なんだろうって、ずっと思ってて」
「聞いてないの」
「誰にですか」
俺は答えられなかった。
俺が書きました、と言えば済む。三秒で済む。
だが言ったところで、七度の理由を説明するには十分かかるし、説明したところで彼はもう深層には行かない。行かない人に、深層の角度の話をしても仕方がない。
それに、あの手順書は俺が書いたというより、十五年かけてたまったものだ。誰が書いたかと聞かれると、少し違う気がする。
「表紙、白いままなんですよね」
須賀原はファイルの表紙を見せた。何も書いていない。折り目と手垢だけがある。
「名前が入っていれば、聞けるのに」
言い方が、責めていなかった。困っているだけの声だった。
俺は握り飯の包みを畳んだ。
「須賀原」
「はい」
「二十層のあと、外注さんはどうなった」
「あー……」
彼は膝の上でファイルの角を触った。
「二十層より下は、今後も行かないそうです。契約を変えるなら見積を出しますって言われて、うちが出した金額だと合わないって」
「いくら出したの」
「年間で九百万です」
「安いね」
「安いですか」
「深層まで見るなら、三倍は要ると思う」
「三倍」
「往復に丸一日かかる階層が十七あります。人を二人出して、機材を持たせて、月に一回ずつ回ると、それだけで年に三千万近いです。事故が起きたときの補償を積むと、もっと」
「うち、四千二百万円を浮かせるために切ったんです」
「そうだね」
須賀原は黙った。
「じゃあ、二十層より下は」
「はい」
「誰も行かないってこと」
「……そうなります」
◇
帰りの階段で、数えた。
天穹が保守を降りた区間の節点。第二十一層から第四十七層まで、俺が把握しているだけで十七か所ある。
全部、俺が据えたものだ。
誰も外せない。誰も交換できない。工具でも壊せない。落石でも壊れない。魔物にも壊せない。
十五年、それが強みだと思っていた。据えたら壊れない。壊れないから、点検の回数が減る。減った時間を、次の階層に使える。
今日、逆から見えた。
筐体は壊れない。電池は切れる。
切れた電池を替えられるのは、地球上で俺一人だ。俺が行かなければ、その一台は死んだまま壁に固定されている。永久に。誰にも取り除けない状態で。
そこから下は、圏外になる。
十七か所のうち、いちばん早いのは第二十七層のAJ-0244だ。いや、あれは今、第三十八層の行き止まりの床にある。順番を数え直す。
第二十七層。第三十一層。第三十四層。
第二十七層のAJ-0187は、二〇二二年の十月に電池を替えた。設計三年半に、あの階層の湿度係数を掛けると、三年二か月。逆算すると八月の十日前後になる。
最初の一台が落ちるのは、八月の十日ごろ。
そのあとは、二週間おきに一つずつ落ちていく。落ちるたびに、そこから下が消える。
放っておけば、電池が切れた順に、世界が狭くなっていく。
誰のせいでもない。契約を切った側も、引き受けなかった側も、その場では正しいことを言っている。
直せるのは俺だけで、俺には八万円と、月に十数万円と、二十五キロの背中しかない。
階段を上がりながら、頭の中で金を並べた。
八月までに、電池を三本。二万七千円。九月までに、あと四本。十月に中継機を一台。並べるだけなら並ぶ。並べたぶんを稼ぐには、中層の保守を月に四件取らないと足りない。取れたことは、まだ一度もない。
地上に出たのは、夜の十時だった。
携帯を出して、明後日の予定を確認する。
七月一日、午前十時、協会豊洲支局、面談室。
用件の欄は、空白のままだった。




