第11話 撮れるところが、少ないだけ
「あんた、さっきから何やってんの」
振り向くと、通路の入口に人が立っていた。
背が高い。俺より少し低いくらいだから、女の人としてはかなり高い。装備は継ぎ接ぎで、肩当てだけ新しい。腰にカメラを提げている。
目が合わない。こちらの手元を見ている。
「点検です」
「何の」
「中継機の」
俺は蓋を閉めて、ねじを四本締めた。第三十二層の節点、北の梁の裏。夏場だけ減衰が二桁変わる場所で、六月の数値を取りに来た。
六月の値は 0.51。去年の同月が 0.48。上がっている。八月に入ると 0.6 を越える年がある。越えた年は、ここの出力を一段上げないと三十三層側に届かない。届かせる相手がいなくても、上げる。数字が揃っていないと気持ちが悪い。
第二十層の電池を替えたのは三日前だ。九千円と、往復十時間。天穹からは何も言ってこない。言ってこないほうが、こちらとしては楽だ。
「協会の人?」
「いえ。個人事業です」
「個人」
「はい」
彼女は一歩だけ近づいて、また止まった。距離を三メートル以上空けている。坑の中で他人と会ったときの、正しい詰め方だ。
カメラの録画ランプは消えている。配信は終わったあとらしい。
「個人で、こんなとこまで来るわけないでしょ」
「作業許可が要るので、たしかに珍しいと思います」
「じゃあ天穹?」
「先月まではそうでした」
「ふーん」
信じていない声だった。目つきが悪いのは元々らしい。責めているというより、警戒している顔だ。
この人の顔は、たぶん配信で見ている。一週間ほど前、第四十一層で動作確認をしたときに、たまたま出ていた。名前は思い出せない。
「聞いていい」
「はい」
「協会って、回線わざと止めてるって、ほんと」
手が止まった。
「どういうことですか」
「深いとこの電波。三十三層から下、ずっと死んでる。四年ずっと。直す気ないんでしょ」
「予算の話は、俺は知らないです」
「知らないって言うんだ、みんな」
「はい」
「否定はしないんだ」
「否定できるほど知らないので」
彼女は壁に背中を預けた。カメラのレンズを袖で拭いている。二回拭いて、また提げた。
「協会が止めてるって、業界で言われてる。深いとこを撮られたくないから。ほんとか嘘か知らないけど、四年言われてるってことは、四年直ってないってことでしょ」
直っていない理由は、たぶんもっと単純だ。誰も行かない。行っても金にならない。坑内回線は協会が公共インフラと決めていて、通信料が取れない。取れないものに人は割かれない。
悪意があるほうが、まだ話としては早い。誰かが止めているなら、その誰かを止めさせればいい。誰も始めていないだけの場合、始める人間を探すところからになる。
「そちらは、どこまで行かれるんですか」
「三十二層」
「ここまで」
「ここまで」
彼女は通路の奥を顎で指した。南の斜坑の方向だ。
「別に。撮れるところが少ないだけ」
「はい」
「三十二層より先は行かない。行っても、映らないから」
俺は蓋のねじを、必要のない五本目まで確かめた。
行けないのではなく、映らないから行かない。その順番で言う人を、初めて見た。
深層に行かない理由を、たいていの人は「危ないから」と言う。危ないのは事実だ。だがこの人は、危険の話を一度もしていない。
◇
「それ、何」
彼女が俺の背嚢を見ていた。
上蓋が半分開いていて、灰色の筐体の角が出ている。予備で持ってきた一台だ。第二十七層の古いやつと入れ替えるつもりで、結局今日は手が回らなかった。
「中継機です」
「中継機」
「電波を中継する箱です。坑内は魔素が電波を食うので、短い区間ごとに置いて渡していくしかないんです」
「それ置くと、電波入るの」
「入ります」
彼女は初めて、こちらの顔を見た。
「どのくらい」
「一つ置くと、一階層か二階層ぶんです」
通路の水音が、急に大きく聞こえた。天井の割れ目から落ちる滴が、床の窪みを叩いている。
彼女は動かなかった。
彼女は何も言わなかった。口を少し開けて、閉じて、それから背嚢のほうへ視線を戻した。
「……一台で、一階層」
「条件がいいと二階層です。三十層より下は、だいたい一階層と思ってもらったほうがいいです」
「三十三層から四十層まで行こうと思ったら」
「八台です」
「八台」
「八十万円くらいですね。運ぶのは一回に一台なので、八回降りることになります」
「八回」
「一回の往復が、三十時間から四十時間です」
「そんな仕事、誰がやるの」
「予算がついた業者が、やることになってます」
「ついてないんでしょ」
「ついてないです」
彼女はしゃがみ込んだ。頭を抱えたわけでも、俯いたわけでもない。ただ、立っているのに疲れた人の座り方だった。
「じゃあ協会は何やってんの」
「さあ」
「さあって」
「俺は予算の会議に出たことがないので」
「そうじゃなくて」
彼女は膝の上で手を組んだ。指が汚れている。手袋を外したままだ。
「四年、私は自分が弱いから行けないんだと思ってた。B級だから。人を雇う金がないから。そう思ってた」
「はい」
「箱が八個ないだけだったの」
俺は答えなかった。
答えは持っている。八個ではなく、正確には第三十三層の一台が岩の下に埋まっていて、その先の三十四から三十七までは俺が二〇一九年から二〇二一年にかけて据えてある。埋まった一台を掘り出すか、迂回路にもう一台据えれば、彼女は第三十七層まで撮れる。
言えば、彼女は明日から行ける。
だが、その一台は八万円だ。俺の手元に八万円はない。七月の家賃も、まだできていない。
できないことを言うと、期待になる。期待になったものが果たされないと、嘘になる。
十五年で、それだけは覚えた。会社にいたころ、来月やりますと言って三年やれなかった案件がいくつもある。言わなければよかった、といつも思う。
「協会が悪いって話じゃないんだ」
彼女が立ち上がった。
「箱の話なんだ」
「そうです」
「……ふーん」
彼女は俺の顔をもう一度見て、それから通路を戻っていった。振り返らなかった。
◇
一人になってから、ノートを開いた。
第三十三層の欄。二〇一九年設置、AJ-0312。二〇二三年八月、落石により埋没。撤去不能。備考、迂回節点の候補は南斜坑の下り口から四十メートル、東の窪み。
三年前に書いた自分の字だ。会社にも同じ内容を上げた。予算はつかなかった。つかない理由も、あのときは納得した。誰も行かない階層に八万円は出せない。
今日、その階層に四年通っている人がいると知った。
だからといって、計画は変わらない。
俺の残りは第四十八層、第四十九層、第五十層の三つだ。図面はそこで終わっている。十五年かけて六十一のうち五十八を埋めて、残り三つになった。
三十三層の迂回は、その三つより優先度が低い。数字の上ではそうなる。
人が困っているかどうかで順番を決めていたら、十五年は続かなかった。困っている人は、いつでもどこかにいる。金は月に一台ぶんしかない。だから、埋まっていない穴の順に埋める。それだけを基準にしてきた。
俺は感情で計画を変えない。
変えないが、ノートの余白に一行だけ書いた。
三十三層 迂回 八万 / 優先度 保留
保留は、消したという意味ではない。
◇
坑口を出たのは、午後八時を過ぎていた。
受付で判をもらって、地上への階段を上がる。梅雨の夜で、空気が水を含んでいる。作業服の中が乾かない。
十五時間ぶりの地上だ。携帯が震えて、通知が落ちてくる。卸の案内。銀行の残高。坑板の通知が二十件。
地下二階から出たところの、自販機の前。
彼女が立っていた。
缶コーヒーを二本持っている。片方をこちらに差し出して、目は合わせないまま言った。
「あんた、何者」




